アート派 vs. 科学派…剥製を熱く語る人々(その3) ― 2012年02月26日 12時16分08秒
仕事の方はもう一息です。
ブログの記事の書き方を忘れかけていますが、思い出しながら書いてみます。
記事が間延びしてきたので、手短にいきましょう。
ブログの記事の書き方を忘れかけていますが、思い出しながら書いてみます。
記事が間延びしてきたので、手短にいきましょう。
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一口に剥製といっても、そこにはアートとしての剝製と、科学標本としての剝製の区別がある―。 元記事の筆者、リサ・ヒックスは、そうはっきり書いているわけではありませんが、彼女が描く最近の剥製ブームからは、そのことが読み取れます。
アート派の方は、再三登場する「ミネソタはぐれ剥製師連盟(MART;Minessota Association of Rogue Taxdermists)」の面々がそうであり、インテリアとして剥製を飾るホーヴィー姉妹もその仲間と見てよいでしょう。
まあ、アートといってもいろいろな趣味嗜好があるので、ホーヴィー姉妹のようなビューティフル路線もあれば、気色の悪い猟奇路線もあって、後者はたとえば19世紀の見世物興行師、P.T.バーナム(1810-1891)が呼び物にした、怪しげな人魚のミイラだとか、ヴィクトリア時代の剥製師、ウォルター・ポッター(1835-1918)が得意とした擬人化された剥製(ウサギの授業風景など)といった、どちらかといえばバッド・テイストと思えるものを好む人たちです。MARTのメンバーが作る、キメラ剥製(異種の剝製を組み合わせて作った空想上の生物)などは、その直系の子孫かもしれません。
(ポッターのウサギの学校。
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Potter%27sRabbitSchool.jpg)
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Potter%27sRabbitSchool.jpg)
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他方、剥製に科学の香りを求める人もいます。
たとえば、近代剥製術の父と呼ばれるカール・エークリー(1864-1924)。
彼の作る剥製は、わらなどを詰め物にするのではなく、解剖学的に正確な彫像を制作して、そこに皮をかぶせるという凝った方法で作られました。
彼は自ら野生動物を次々に仕留め、それを剥製にしてアメリカ自然史博物館に壮大なジオラマ風景を作った人ですが、晩年の1920年代に一頭のゴリラと出会ったことから「回心」して、以後は野生生物の保護運動に尽力しました。とはいえ、彼は最後まで科学の名に基づく、剥製愛好癖を捨てようとはしませんでした。
「科学」の看板が、罪の意識を覆い隠すのに使われた…かどうかは分かりませんし、リサもそう書いているわけではありませんが、何となくそういう気配があります。
また、ロサンゼルスにあるヴンダー系ショップ、「Empiric Studio」では、1960年代の「スペース・エイジ」テイストをまぶした理系グッズとともに、剥製を販売しており、同店の広報担当、アニー・クラウニンシールドによれば、同店における剥製は、「研究室や学術的環境でお目にかかるモノ」というカテゴリーに入るのだと説明しています。
これは考えてみると「剥製は科学的存在であるが故に、研究室に置かれている。そして研究室に置かれているが故に、科学的だ」というトートロジーを構成しているような気がしなくもない。
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アートとしての剥製と、科学としての剝製の関係はなかなか微妙です。
科学的相貌を持った剥製が「知の向上をもたらす善」であり、アートとしての剥製が「罰あたりな悪」である…と単純に言い切れないのは、その「科学性」に付きまとう上記のような曖昧さからも窺い知れます。
MARTのメンバー、ロバート・マーベリーは、リスの剝製づくりと同時に、その肉を料理して食べるという、一種のパフォーマンスというか、イベントを開催しています。情緒的にはちょっと受け入れがたいし、リスにとっては災難だと思いますが、それは普段人々が意識から遠ざけている動物と人間との関係(虐待や搾取)を問いかけるものだと、マーベリーは言います。(付言すると、リス料理自体はヨーロッパで伝統的に行われてきたらしいです。)
「リスは本質的に価値中立的存在です。〔…〕リスだって動物なんです。鹿の角を壁に飾って構わないなら、これだって同じことでしょう。リスは『可愛い』と見なされている点がちょっと違うだけです。」
「はぐれ剥製師たちは、自然を心から愛しています。たとえ彼らの作る作品が少々ダークなものだとしても。いや、むしろ自然そのものが、得てしてダークなものなのです。」
「動物の死体をもてあそぶ」かの如く見えるアート派の人々にも、いろいろ言い分があるわけです。たとえそれに全面的に賛成できなくても、耳を傾けるべき点は多々あります。
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そしてまた、博物館の空気自体をアートとして享受する人もいるので、話はどんどんややこしくなります。以下は、前回も登場したテレビ番組「Oddities」の司会者、ライアン・マシュー・コーンの思い出ばなし。
「子どものころ、コーンはよく犬を連れて、ニューヨーク州の北部まで宝探し(scavenging)に出かけ、森で見つけた動物の頭骨やその他の骨を家に持ち帰った。彼は「世界最大の豚」やら、「世界一のカボチャ」やら、安っぽいイカサマ物が登場する怪しげな見世物小屋でインスピレーションを得た。また、両親は彼をよくアメリカ自然史博物館に連れて行ってくれたが、そんなとき彼はアイデアでいっぱいになって帰宅したものだった。
〔…〕
『僕が愛してやまなかったのは、自然史博物館の中では、全ての物がいかに完璧に配置されているかということなんだ。そこで僕は頭骨を棚の上に飾るのをやめて、代わりに、それぞれに小さな架台を作って、自分は今博物館の中で暮らしているんだと夢想したものさ。僕は小さなカーテンを使って幕開けごっこもした。家族を前に見世物興行を演じて、セレモニーの司会者よろしく“サアサアご覧じろ”と口上を述べたりしてね。』
子ども時分は小遣いに恵まれなかったので、自分の部屋をこうした森で見つけた珍物でいっぱいにしたのだと、コーンは語る。その後、大人になって多少の金が自由に使えるようになると、彼は剥製やその他のアンティークを探しに出かけるようになった。」
(コーンのキャビネット。
出典:http://www.collectorsweekly.com/articles/taxidermy-comes-alive/)
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世間には、読書家とは別に、愛書家という人種がいます。本を読むよりも、モノとしての本を愛好し、読みもしない高価な本をせっせと買い込むような人です。
「理科よりも理科室が好き」、「博物学よりも博物館が好き」というのも、この愛書趣味に通じるものかもしれません。私の中にも多分にそういう傾向があるので、架台に凝って、自室を博物館風にしたかったという、コーン少年の夢には深い共感を覚えます。
私自身、金とモノ乏しい中、いかにして自分の部屋(ただし兄と共用)を理科室的テイストで満たすか、尋常でない努力をした覚えがあるので、この一節にはいっそ涙ぐましい思いがします。そしてまた、ここでも稲垣足穂の博物趣味への耽溺を連想するのです。
■稲垣足穂『水晶物語』(1)、(2)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/07/17/448139
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/07/18/451209
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とはいえ。最後の最後で明言しておきますが、私は剥製はそれほど好きではありません。
私の部屋に置かれた少数の剥製は、Empiric Studioのアニー・クラウニンシールドが言うところの「研究室や学術的環境でお目にかかるモノ」であり、理科室のムードを感じさせるいわば「小道具」として置かれているので、剥製そのものを愛好する癖はまったくありません。
MARTの面々がいかに熱弁を振るったところで、ポッター流の擬人化剝製や、その日本版である徳利をさげた狸なんかは、やっぱり罰あたりなんじゃないかと思います。
(某オークションサイトより)
じゃあ、「理科室風小道具」として剥製を購入するというのはどうなんだね?
それも五十歩百歩ではないのかね?
いや、その剥製を愛してすらいないと言うなら、いっそう罪深いんじゃないかね?
…と言われると、まったく反論ができません。マーベリーの言葉を真似て、「いや、科学そのものが、得てしてダークなものなのです」と言っても、屁理屈にしか聞こえないでしょう。ここは一途に動物たちに手を合わせるばかりです。
(この項おわり)
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