少年採集家(3)…戦時下の昆虫採集2012年03月08日 05時29分00秒


(↑本の置き方の悪い例。)

漫画家・手塚治虫が、旧制中学時代(※)に書いた昆虫随筆等を編んだ、『昆虫つれづれ草』という本があります(小学館、1997)。そのあとがき部分に、手塚とともに中学校で昆虫採集に熱中した、林久男氏へのインタビューが載っています。戦時下の昆虫少年の生態がわかる大変貴重な文章と思いますので、内容を抜粋してご紹介します。

(※)尋常小学校6年を卒業した男子が入学するのが旧制中学校(女子は高等女学校)。一般に「旧制中学は今の高校に相当する」と言われるのは、課程が5年制だったからで(戦時中は4年制に短縮)、今なら中学1年生から高校2年生に相当する年齢の生徒が在籍した教育機関です。(なお、昔は複線教育ですから、中学校以外にも、高等小学校や実業学校等、進路はいろいろありました。)

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手塚・林の両氏は、開戦の年(昭和16年)に、12歳で旧制北野中学(現大阪府立北野高校)に入学。入学当初はまだ真珠湾の前ですし、少なくとも中学生の身辺には依然のんびりした空気が漂っていたことが、林氏の回想から読み取れます。

まず当時の昆虫採集の位置づけについて。
〔以下、太字はインタビュアー、青字は林氏〕


― 当時、昆虫採集を趣味にしている中学生はあまり多くなかったわけですね。
林★ セミやトンボを追いかけるようなことは、どんな子どもでもしますよね。それでもその虫は何という種で、どんな暮らし方をしている、なんていう本格的な昆虫採集は、ほとんどだれもしていませんでした。
 〔…〕そのころ登山、カメラ、昆虫採集といったら、西洋からやってきた新しい大人の趣味という感じでした。中でも昆虫採集は、ヨーロッパ貴族たちの優雅な遊びみたいな印象がありまして、私などは大いに魅きつけられてしまった。
― それを本格的にやっていた手塚少年は、大人っぽく見えたんですね。道具などもそろえていて、今でいうと中学生がライカのカメラを持っているような感じでしょうか。
林★ まさにそうですね。


「ライカのカメラ」とは、インタビュアーもうまい喩えを思いついたものです。
「昆虫採集」は「虫採り」とは違う、それは精神においても違うし、何よりも装備が違う…という感覚が当時はあったようです。


― そうして林さんたちは、手塚少年が語る昆虫の世界と昆虫採集という西洋の香り高い趣味に引き込まれていったんですね。
林★ ええ。あれは夏休み直前の7月の土曜日の午後だったと思います。私もとうとう昆虫採集をはじめる決心をして、大阪梅田の阪急百貨店の2階にあった昆虫採集道具売り場に行ったんです。手塚くんもいっしょに来てくれ、「あれがいい、これがいい」と世話をやいてくれました。私は当時1円ほどだった捕虫網や三角紙ケース、毒瓶、標本箱など道具一式を買いそろえました。


これが林氏の「昆虫採集」入門でしたが、師匠格である手塚のそれはまた規模が違います。


 そして翌日の日曜日に、手塚くんの宝塚の家に行ったんです。彼の生家は、そのころ「門から玄関まで電車が走っている」と噂されるほど大きな家でした。噂はオーバーでしたが、庭にクスノキの巨木があったのをはっきり覚えています。訪ねると、私は彼の部屋に通されました。するとビックリ。標本箱の多さに圧倒されてしまった。それに、どの箱も私が前日デパートで買ったボール紙製のものとはちがって、木製のドイツ箱と呼ばれる大型のもので、その中に、きちっと種類別に、たくさんの昆虫が入っていました。蝶や甲虫だけでなく、ハチやアブまでありました。詳しく聞くと、彼は小学校5年生のとき、友人だった石原実くんに感化されて昆虫採集をはじめたという。でも標本の量と質は、2年間で集めたものとは、とても思えませんでした。


林氏の回想する昆虫少年ライフは、関西の富裕層や新興中産階級のそれですから、全国一般に敷衍することはできないでしょうが、実に堂々たるものであり、また羨ましくもあります。そして経済的な面についてばかりでなく、土地柄もまた良かったのです。


― 夏休み前にそんなことがあると、さぞや夏休み中は大変でしょうね。
林★ もう昆虫一色でした。当時私の家が吹田で、私が手塚くんの家〔=宝塚〕に行くことが多かったのですが、箕面や能勢で待ち合わせることもありました。箕面は山岳地帯で多くの昆虫学者を育てた昆虫相が豊かな場所。宝塚から電車で、当時は40分くらいかかったでしょうか。自宅周辺には平地の昆虫がいて、山地の昆虫もそう遠くないところで捕れた。こうした環境は私たちにとって大きかったと思います。〔…〕私はほんの4か月間で完全に虫の虜になってしまいました。


さらに、すぐれた指導者にも事欠きませんでした。


― 当時は現在の理科に替わる「博物」という授業があったそうですが、手塚さんや林さんのような少年は、授業のほうはいかがでしたか。
林★ 植物、動物、鉱物などをひっくるめて「博物」と称していましたが、授業で知らされるような内容は、図鑑や昆虫エッセイのはしりだった小山内龍の『昆虫放談』などを読んでましたから、ものたりなかったんですね。私たちが昆虫について学びにいったのは、もっぱら宝塚のファミリーランドの中にあった「宝塚昆虫館」です。北野中学の先輩には当時の昆虫学界を牛耳っていた、九州大学教授の江崎悌三、京都大学教授の上野益三など優秀な昆虫学者がいました。昆虫館の当時館長だった戸沢信義さんも先輩のひとり。手塚くんはここに小学生のときから通っていたそうです。学芸員だった福貴正三さんと彼は仲がよくて、私たちも頻繁にご指導いただきました。


こういうインフォーマルな人の輪が昔はありました。今も一部にはあるのかもしれませんが、世の先生方はなかなか忙しいので、イベントなどの場を除けば、子供たちの好奇心に正面から応える余裕は多くの場合失われているでしょう。

さて、手塚を中心とする昆虫マニアの少年たちは、中学2年に進級すると同時に、「博物班」という部活動を立ち上げ、さらにそれに飽きたらず、「動物同好会」なる非公式組織を結成し、翌年にはそれを「六陵(りくりょう)昆虫研究会」へと発展改組します。手塚が健筆をふるい、大人びた昆虫随筆を会誌に寄稿していたのは、まさにこの時期のことです。


― 今回復刻することになった『昆虫つれづれ草』をはじめ、一連の『昆虫の世界』など、多くの手作り本が生まれてくるのは、そのころからなんですね。
林★ そうですね。彼は本作りに熱中すると1、2週間で1冊を仕上げました。昭和18年に文部省の教科要目が改定されて、博物学が生物学に変わり、それにともなって「博物班」も「生物班」に名称を変えました。そして私たちは「動物同好会」を解散して「六陵(りくりょう)昆虫研究会」を新たに発足し、もっとレベルの高い研究書を目指して『昆虫の世界』を発行したんです。それもやっばり手塚くんが清書、装丁、製本をひとりでやっていました。


ここまでは実に順調。少年たちは存分に昆虫ライフを楽しんでいました。
しかし、昭和18年、彼らが中学3年生になった頃から、戦争の影は急速に濃くなっていきます。

― そのころになると、第二次世界大戦も激化していきますね。
林★ 昭和18年になると生物班の班員も、ひとり疎開していきました。勤労奉仕もその年には組み込まれ、次第に私たちは学校には行けなくなってしまった。私と手塚くんは別々の工場に配置されて離れ離れ。作ったばかりの「六陵昆虫研究会」も空中分解です。それでもまだ登校日がありましたから、そのときにみんなで会って採集の約束をしたりしていました。翌年になるともっと悲惨で、もうまったく学校に行かなくなってしまった。時代も昆虫採集どころではありません。捕虫網を持って歩いているのを見つかれば、学校の先生や近所の人に非国民扱いですよ。警察も厳しくて「誰何(すいか)」といって職務質問をされてこっぴどく叱られる。そうした中でも私たちは昆虫採集をしていましたが(笑)。


これこそが、今回取り上げた『少年採集家』の出版された当時の空気でした。
昆虫少年にとっては(すべての国民にとっても)まさに受難の時代です。
そして戦局は日増しに悪化していきました。


― 手塚さんも『昆虫つれづれ草』で書いているように、そんな時代をみなさんで呪っていたわけですか。
林★ 18年ころは、そんなでもなかった。むしろ軍人や軍医になって南方に飛んで、熱帯産の珍しい昆虫を捕りたい、とよく話していました。19年になると勤労動員も本格化して学校には1日も行かなくなって、敗色が濃くなるのが私たちにもわかりました。もう明日の命もわからない状況ですからね、将来の夢どころではありませんよ。


少年たちの夢や、ときには命さえも呑み込んで、日本は昭和20年(1945)を迎えます。
このあと、焦土の中から、民主教育の掛け声とともに、新世代の理科少年たちが育っていくことになるのです。

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引用がものすごく長くなりましたが、以上のような事実を念頭におきつつ、本書の内容を見てみようと思います。

(話を本題にもどし、この項つづく)