懐かしい未来2012年03月24日 19時16分45秒

鹿島茂さんの古書エッセイに、「二十世紀」というのがあります(白水社刊 『それでも古書を買いました』 所収)。ヴェルヌの同時代のSF作家、A.ロビダの未来小説、『二十世紀』(1883)について触れたもので、鹿島氏はこう書いています。

「〔…〕挿絵本の歴史からいうと、この本はある大きな意味をもっている。それは、この『二十世紀』において、別刷の挿絵についに写真製版が導入された点である。

 〔…〕これは当時としては画期的なことで、この未来予測の本に大きな付加価値を与えることに貢献したはずである。

 ところが、写真製版が当たり前になってしまった現代から見ると、当時においては付加価値となったこの画期的な技法が逆に古本としての価値を大いに減ずる結果になっているのである。すなわち、『二十世紀』の挿絵は、「写真製版にすぎない」というわけだ。これは新しいものが価値をもつ期間はごく短く、それが当たり前のことになれば、むしろマイナスの価値にしかならないという科学史の法則を裏付ける格好になっている。」

(A.ロビダ作・挿絵、『二十世紀』、1883年。東洋書林刊 『ジュール・ヴェルヌの世紀』より)

なるほど、これは鋭い指摘。

   ★

私にも、最近似たような感想を持った本があります。

たむらしげるさんの『標本箱/博物編(架空社)という本は、フープ博士、標本、博物…という、私の好きなキーワードを並べた本なので、理論的には、この本は私のお気に入りになるはずでした。


しかし、そうはならず、古書店から届いた本を開いた瞬間、
「あ、これは…」と思いました。

                         (「翼竜」)
(同上、解説)

                                (「星を眺めるビル」、部分)

この本が出たのは1991年。週刊「TV Station」の表紙絵をあつめたもので、絵自体は80年代末に描かれたものかなと思います。

たむら氏は、早期から作画にPCを使っており、その後一貫してマシンとソフトの更新を続けていらっしゃるので、現在の氏の絵とはまったく感じが違いますが、当時はこれこそが「新しい線」でした。

今、このギザギザの粗い線を見ると、「これなら手で描いた方がよっぽどいいんじゃないか?」と思いますけれど、当時は「機械で描く」こと自体に、新鮮な魅力があった…ような気がします。

(今の目で見ると、単に過渡期の作、あるいはいっそ下手(げて)な作とも見られますが、しかしだからこそ、そこには明瞭な時代の刻印が押されているとも言えるわけで、これがいつか「20世紀の素朴画」として再評価されるときが来ないとも限りません。)

   ★

ときに、天文古玩というのは、これは一体なんなのかなあ…と、ふと思いました。
懐かしの天文趣味とか理科趣味というのは、今だからこそ懐かしく感じるわけで、当時の人は別に「懐かしさ」を楽しんでいたわけではないでしょう。むしろ「現代的なもの」であるがゆえに、価値を感じていた人の方が多かったはずです。

まあ、結局はこちらの一方的な思い込みに過ぎないのでしょうが、できることなら、21世紀にこういう妙な思い込みを抱いている人間がいることを告げて、19世紀の人がどう思うか、その辺の感想を聞いてみたいものです。