貧窮スターゲイザー、草場修(3)2012年04月11日 20時15分00秒

(昨日のつづき)

一瞬たじろいだものの、鉄面皮の私は、さっそく一面識もない上門氏にメールを送り、ルンペン説についてどう思われるか、またメーカー勤務のソースは何か、率直にお聞きしてみました。

上門氏からは、その後数回にわたって、多くの資料とご意見をいただきました。
その中ではっきりした事実を、以下に箇条書きしてみます。

○「草場恒星図」は、「天界」昭和12年2月号で、「近日発刊 予約注文の受付開始」と広告され、その後、同年6月号の新刊紹介欄で取り上げられていることから、この間に刊行されたと考えられること。

(「天界」 昭和12年2月号より=小川誠治氏提供(上門卓弘氏のご手配による)=)
 
(「天界」 昭和12年6月号より=同上=。 記載星数が、広告では6133、新刊紹介では5133となっていますが、どちらが正しいかは不明。)

○「天界」昭和13年12月号の「東亜天文協会 地方委員」の住所録には、「広島県沼隈郡瀬戸村観測所」(黄道光観測所)の住人として草場の名が挙がっており、少なくともこの時点では路上生活者とは考えられないこと。(なお、この前年、昭和12年11月号では、同観測所の住人は本田實氏と荒木健児氏になっている。)

○草場は、「西星 第4号」(昭和18年11月)への寄稿論文の中で、自ら「某写真会社の乳剤研究部在職中の浅い経験であるため」云々と書いており、一時期メーカーに勤務していたのは事実らしいこと。

○「東星〔=関東を中心とした天文同好会の会誌〕第1号」(昭和17年3月)の裏表紙に「草場写真化学研究所」の広告があり、草場は当時、京都市左京区一乗寺に居を構え自営していたらしいこと。

(各種星図の複写をうたう広告。「東星 昭和17年3月号」より=上門卓弘氏提供=)

○「西星 第1号」(昭和18年3月)の編集後記によれば、草場はこの直前に、北海道へ日食観測に赴いたとおぼしく、当時それだけ生活に余裕があったと推定されること。

   ★

以上の点を踏まえて、上門氏は、「一時期、経済的に困窮したことがあるのかもわかりませんが、ルンペン云々はにわかに信じがたい気がします。…が、もしそうであるならば、路上生活を送りながら星図を作ったというのではなく〔…〕山本氏からの金銭的援助を受けながら完成させた、というのではないでしょうか」というご意見でした。

なるほど、これは後の回想ではなく、同時代資料に基づく推論ですから、非常に説得力があります(上門氏の挙げられた資料には、草場がルンペンであったことを匂わせる記述は一切ありません)。ルンペン云々の話は、ささいな事実にいろいろ尾ひれがついて広まった「神話」ではないか?…というところに、話は落ち着きそうでした。

さらに、草場星図の発刊準備が進んでいたとおぼしい、昭和11年暮れから12年夏にかけての新聞記事を丹念に読んでも、「ルンペン天文学者」の記事はまったく見つからず、このことも上の推測を裏付けているようでした。

が、しかし。

(緊迫しつつ、この項つづく)

【4月12日付記】 記事中に画像を追加しました。