貧窮スターゲイザー、草場修(5)2012年04月13日 23時25分50秒

(昨日のつづき)

こうして艱難辛苦の末に完成させた星図を持って、草場はある思い切った行動に出ます。

「去る〔10月〕二十日午後京大花山天文台で東亜天文協会の総会が開かれ山本一清博士を初め多数の天文学者が集ってゐるところへ、商人か百姓のやうな頗る風采のあがらぬ、しかも耳の遠い中年男が現はれて十三枚の大製図紙に経度、緯度も正確に、無数の星を記入した星図を並ゐる天文学者達の前に繰り広げて一同を驚嘆させた」 (大阪朝日新聞、10月24日)

劇的な天文界デビューです。(とはいえ、東亜天文協会はアマチュア主体の団体でしたから、「並みいる天文学者達の前に」云々というのは、若干記者の脚色が入っています。おそらく草場はそれ以前から協会員になっており、この日、満を持して星図を持参したのでしょう。)

このとき草場が持参した星図は、10月27日付けの大阪朝日に写真が出ています。一見して、非常に完成度の高い図で、山本一清以下が驚倒したのも当然です。写真を見る限り、当初作成していたのは全13枚の部分図から成るアトラス式のもので、後の『新撰全天恒星図』のような1枚物のマップではありません。
 

この図を目にした山本一清のコメントが新聞に載っています。

 「自分の口から変にきこえるかも知れないが、率直にいへば、今日一般の学俗間に用ひられてゐる星図といふものは皆かなり時代離れのした、不満足なものばかりである。〔…〕文化の進んだ今日の時代に全く似つかはしからぬ原始的なものばかりが世にはびこってゐるのは、どうしたわけであるか?〔…〕ノルトン然り、クライン然り、ゲッ・シュリヒ然り、古賀恒星図も、新撰恒星図もまた然りである。〔…〕単に室内賞玩用としても星の図は立派に美術品となり得る可能性があるのだがと、時時思ふ。」

こうして当時の標準星図をなで斬りにした挙句、

 「〔…〕けれど、まだまだ時機は早くて、美術的な星図が出版されるには至らない。草場君の星図をはじめて見た時から、自分の心にはかうした考へがムラムラと湧いて来てゐる。

 草場君のこんどの星図は〔…〕約七等級半までのあらゆる天体をことごとく載せ、その数三万二千、これに洋名、和名、漢名を美しく記入したものであって。構図上からも色彩上からも全く無類の品でこれを見た専門家も皆驚嘆してしまった。」
 (大阪朝日新聞、10月27日)

美術上の価値を力説してやまぬあたりに、星座の美を高唱した、プロの天文学者らしからぬ山本の興味関心のありようが感じられます。

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草場の記事は大変な反響を呼びました。
「本社をはじめ京大の山本一清博士、あるひは直接草場君のもとへ毎日配達される激励賞賛の手紙はおびたゞしい数にのぼり、あるものは朝鮮から、あるものは北海道から、なかには女文字の匿名(芳子)で『あなたの記事をよんで私はいろんな意味で泣けました、あなたは現代に得難いお方でございます…』と百円の為替を同封したものもあり」 (大阪朝日新聞、11月10日)という具合で、物質的にも、毎月の研究費を出そうと申し出る人やら、自分のツァイス望遠鏡を寄贈しようという人やら、草場を支援しようという、多くの篤志家が現れました。

山本一清その人も、草場を手元にひきとって、さらに勉学させることを決心し、草場は京大に行くことになります。(正式にどういう身分なのかは分かりません。山本の好意による私費研究生のような形だったのでしょうか。)
 
(東京朝日新聞 昭和9年11月11日)

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さて、ここまで書いてきて、いくつか重要な情報が不明であることに気づきます。
草場の教育歴はどの程度だったのでしょうか? 彼が無学文盲の人でないのはもちろんですが、落魄の身となる以前、どの程度の教育を修めていたのでしょう? 彼は久留米で兵役を終え、その後東京で仕事をしていたそうですが、いったいそこで何をしていたのでしょうか? これらのことは、今のところ一切分かりません。

いずれにしても山本一清は、草場に豊かな才能を認め、天体観測の実経験をさせることも含め、2年あまり星図完成に向けて自分の手元で研鑽を続けさせます。

昭和11年の「天界 5月号」に、草場は「保井春海と其の子ヒサタダに就いて」という近世天文学史に関する記事を書いており(http://www.h5.dion.ne.jp/~iruka-fu/D010/ten181.txt)、京大以前からの下地はあったにせよ、その修学範囲の広さを伺うことができます。

(この項つづく。次回完結)