貧窮スターゲイザー、草場修(6)2012年04月14日 17時09分09秒

咲く桜、散る桜に目もくれず続けてきたこの話題も、今日で最終回です。

   ★

こうして、恵まれた環境の中、1937年(昭和12)春、ついに「草場星図」は世に出ました。(とはいえ、刊行された星図には、オリジナルの3万2千個に遠く及ばぬ、5千ないし6千個あまりの星しか記載されていません。「天界」誌掲載の近刊予告では、「先ず大衆的な恒星図に現はした」とありますが、実際にはコストと印刷技術の壁が完全製品化を阻んだのかもしれません。)

(↑「天界」  昭和12年6月号より。小川誠治氏提供=上門卓弘氏のご手配による=。
私は最初、下の『簡易星図』イコール後の『草場簡易星図』のことだと思いましたが、両者はどうも別物のようです。)

辛苦が実を結んだ草場の喜びは、いかばかりであったか。
しかし、その直後に彼の運命は再び暗転します。頼みの山本一清が失脚したのです。

京都帝国大学理学部教授として、また会員1万人を擁する東亜天文協会会長として、当時得意の絶頂にあった山本ですが、この昭和12年、ペルー日食遠征から帰国と同時に、京大総長選挙をめぐる疑獄事件に巻き込まれ、結局、彼は翌年春に教授辞任を余儀なくされます(その間の事情については、以前、チラリと書きました↓)。

天文趣味を作った人、山本一清(7)(8)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/08/01/4471711
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/08/03/4477889

こうなると、当然、山本の食客である草場も京大にいることはできません。
いるか書房・上門氏からの情報提供によれば、草場は、1938年(昭和13)の暮れには広島県の瀬戸村観測所にいたことが分かります。ここは東亜天文協会のいわば直営施設ですから、これは草場の身の処し方を心配した山本の配慮によるものだと思います。

その後の草場の足取りははっきりしません。
あるいは写真会社に短期間勤務したというのは、この時期のことかもしれません。草場の経歴の中で、写真会社勤務というのは唐突に響くのですが、想像するに、京大時代に天体写真の撮影に伴うDPE技術を実地に学ぶ機会があり、器用な彼はその方面でも大いに才を発揮したのではないでしょうか。その後、山本の口利きでその方面に就職できたと考えれば、話のつじつまは合います。

いずれにしても、1942年(昭和17)の時点では、京都の左京区一乗寺で「草場写真化学研究所」というのを自営していました。また翌年には北海道まで日食観測に出かけたり、西星会の主要メンバーとして後進の指導にあたったり、アマチュアの立場でそれなりに充実した天文ライフを送っていたようです。

しかし、戦争の激化とともに、草場の足取りはますますはっきりしなくなります。

ここで1つ気になるのは、草場は変光星の観測報告を、昭和17年には「天界」誌に送っているのに、翌18年には日本天文学会の「天文月報」に送っていることです(改訂版『日本アマチュア天文史』、p. 172およびp.177参照)。

日本天文学会と東亜天文学会は、現在でこそプロvs.アマというはっきりした住み分けがありますが、一時は東大系vs.京大系、あるいは関東vs.関西の闘争意識が絡んで、微妙な関係にありました。少なくとも会長の山本の脳裏には、日天への対抗意識がはっきりあったと思います。もちろん、一般のアマチュアはその辺を顧慮することなく、両方に参加していた人も実際多かったようですが、ただ、山本のいわば「子飼い」である草場が「天文月報」に接近したのは、山本との距離をうかがわせる出来事です。

そして、終戦後の1946年(昭和21)に、山本一清ではなく、神田茂の校閲で『新撰全天恒星図』を出したことは、明瞭に山本からの離反を物語るもので、たぶん「何か」が、両者の間にあったのだと、私は思います。(←これは深読みのしすぎかもしれません。参考程度に聞いておいてください。)

(↑恒星社厚生閣の出版物(=野尻抱影著 『肉眼・双眼鏡・小望遠鏡 星座見学』、昭和27年再版)の巻末広告より)

   ★

さて、ようやく平和が訪れた日本で、草場はその後どんな人生を送ったのか?
今のところ、まったく手がかりがありません。いつどこで亡くなったのかも不明です。

1966年(昭和41年)の頃には、天文界に顔の広い草下英明氏が「まったく消息を聞かない」と、『天文ガイド』誌上で書いていたぐらいですから、天文界から完全に姿を消していたのでしょう。その頃は60代の後半ですから、すでに鬼籍に入っていた可能性もあります。

   ★

数奇な運命の末に、一時は天文界のみならず社会の寵児として、脚光を浴びた草葉修。

日本の天文趣味史に鮮やかな足跡を残した「貧窮スターゲイザー」に、ここでは注目してみました。話の後半はちょっと尻切れトンボになりましたが、もし、草場氏について何かご存知のことがありましたら、ぜひご教示ください。

(この項おわり)

コメント

_ S.U ― 2012年04月14日 20時04分59秒

草場氏の登場は劇的でしたが、晩年がどうなったかわからないのが謎めいていますね。どうしたらわかりますかね。京都一乗寺のほうを調べればわかるでしょうか。

 それから、最初のフルバージョンの星図は今でも見ることが出来るのでしょうか。コピーでもいいので鮮明なのを見てみたいです。中国名は神田氏が加えたのかと勝手に思っていましたが、原図から載っていたとは驚きです。

 日本で検索にかからなかったら、コピーが外国にないかと思って、web検索してみましたが、簡単には見つかりません。目他らしい情報ではないかもしれませんが、アストロノミッシェ・ナハリステンへ投稿された山本氏の報告に、"Kusaba"の名があるのを見つけました。沼隈郡瀬戸村の黄道光観測所勤務は、本田実氏の兵役のあいだの留守番だったようです。

http://adsabs.harvard.edu/full/1941AN....271..290Y

_ 玉青 ― 2012年04月14日 23時11分41秒

おお、海外からの里帰り情報!
お知らせいただき、ありがとうございました。
すると、草場氏が瀬戸村観測所に在籍しえたのは、本田氏が観測に復帰した1939ないし1940年の初頭が下限ということになりますね。これは空白を埋める貴重な手掛かりです。

>晩年がどうなったか

おそらく草場氏には最後まで身寄りがなかったと想像されるので、その最期を知っている可能性があるのは、山本・神田両博士をはじめ、西星会関係者、あるいは印税を支払う立場の恒星社関係者ぐらいでしょうか。まあ、関係者もあらかた亡くなられたでしょうけれど、その方面に何か資料が残っていないものでしょうかねえ。

>最初のフルバージョンの星図は今でも見ることが出来るのでしょうか。

オリジナルの草場星図は本当に見てみたいです。
新聞報道によれば、「構図上からも色彩上からも全く無類の品」(山本博士談)だそうですから、写真では分かりませんが、彩色が施されていた可能性もあります。
もし原図が残っているとすれば(残念ながらОAAは期待薄なので…というのは、本部に「天界」のバックナンバーすら揃ってないらしいので)、京大が怪しいと睨んでいます。宇宙物理学教室か、花山天文台の片隅に、ひっそりと眠っているのがいつか発見されたら素晴らしいのですが…。

_ S.U ― 2012年04月15日 07時41分17秒

ご説明ありがとうございました。
どこにあるかわからないとなると、ますます星図原版を見たいです。

 山本博士ご自慢の品だったと思うのですが、どこかにコピーが流出していませんかね。戦争がありましたから厳しいかもしれませんねぇ... 最近、京大とOAA合同で、山本天文台所蔵資料の移動が行われたそうで、京大は確かに有望そうですね。玉青さんもいずれはそちらに乗り込まれてはいかがでしょうか。

(ショウチャン氏による京都新聞の引用)
http://giantdragonfly.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-0537.html

 晩年の資料についてはおっしゃるように恒星社が有望かもしれませんね。印税と言っても、昭和27~40年に売価が50~100円では、描いた手間に比べれば、わずかなものだったでしょうが(こういう偉業は金銭で測るべきものではないですね)。

(前の書き込みでドイツの誌名は「・・・ナハリヒテン」でしたので訂正します)

_ Akiyan ― 2012年04月15日 11時33分45秒

日本の天文学史に残る謎めいた人物との邂逅の旅。
春なのに寒々しい図書館の片すみで、玉青さんとごいっしょに
新聞縮刷版をパラパラと探索してついにめぐり会えた気分です。
いくつになっても、こういう物語にはわくわくします。
なんともエキサイティングなレポートありがとうございました。

_ 玉青 ― 2012年04月15日 14時18分49秒

○S.Uさま

>最近、京大とOAA合同で、山本天文台所蔵資料の移動が行われた

ややや!そんなことがあったとは。
これはひょっとすると、ひょっとしますね。
私が第2の草場氏よろしく、頗る風采のあがらぬ中年男として京大に乗り込み、13枚の大星図を見事探し当てて得々とする…というのも面白そうですが、まあ、今しばらくは資料調査の結果報告を楽しみに待つことにしましょう。(^J^)

○Akiyanさま

長々とした記事にお付き合いくださり、ありがとうございました。
確かに図書館は寒々しかったですが、記事を見つけたときはカッと火照りました。
そういう経験をたまにするので、謎ときはやめられないんですよね。(笑)

_ 霜ヒゲ ― 2012年04月19日 18時18分22秒

お邪魔します、霜ヒゲと申します。

草場簡易星図ですが、図説天文講座(S11.10.23初版)の巻末に山本一清校訂 草場修製作の「新版簡易星図」がついています。40cm×50cm位の、天の北極を中心に円形に描かれた星図(5等星の一部まで)で、余白の記載事項は上村氏がお示しになった1~4と同じです。
これも草場簡易星図と同じものと思われます。(恒星社からは同じように山本博士校閲の草場氏のではない「簡易星図」も発売されていたようです。)

なお、同書の本文(p148~149)にも草場氏の星図について東亜天文協会発行の6等星までの「草場恒星図」の1936年版があること等の簡単な記載があります。(村上忠敬氏執筆の項目)

蛇足ですが、6等星までの草場恒星図は数年前にネットオークションに超新星ハンターの方からと噂される出品があり、その時の画像では1910年分点だったと記憶しています。

ダラダラと書いてしまいましたが、玉青様のご参考にならば幸いです。

_ 玉青 ― 2012年04月19日 21時47分59秒

霜ヒゲさま、お久しぶりです。
コメントに言葉が出ないほどの衝撃を受けました。
貴重な情報、まことにありがとうございました。
さっそく記事として取り上げましたので、どうかご笑覧ください。

_ 烏有嶺 ― 2015年01月26日 20時37分07秒

はじめまして、烏有嶺と申す者です。クシー君からこちらにたどりつき、楽しく拝見させていただいています。

さて、国立国会図書館のデジタルコレクションを何とはなしに調べていたら、このような文献を見つけました・・・「どうして聾の勞働者が天文家になつたか――草場修君を訪問する / 上澤謙二」『婦人の友 6月号』(1935-06発行)

なお、これはウェブ上では閲覧できない史料です。
ですので、どのような内容なのか、そしてお役に立つかはわかりませんが・・・とりあえず御報告に上がった次第です。

_ 玉青 ― 2015年01月26日 21時46分57秒

烏有嶺さま

はじめまして。
これはスゴイ資料が発掘されましたね!こんなものが世の中に残っていたとは!!
いやあ本当に世の中、何が眠っているか分かりません。
さっそく現物を確認の上、複写依頼書を作成しました。郵送でのやりとりになりますので、いつ届くかは判然としませんが、届きましたら、また記事でご紹介させていただければと思います。
烏有嶺さんの慧眼に驚嘆しつつ、とにもかくにも、この上なく貴重な情報をご教示いただきましたことに、深く感謝申し上げます。

…と、硬くご挨拶してしまいましたが、クシー君のご縁で、もっとソフトな方面でもまたどうぞゆるゆるお付き合いくださいませ。(^J^)

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