豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間(6)2012年05月28日 21時21分40秒

校舎落成から四半世紀。理科室の内部はどう変わったか?

(昭和13年の絵葉書より)

(昭和39年刊の『手引』より)

基本的なレイアウトは戦前と変わりませんが、黒板の向って右、電源装置の隣にあった理科準備室への扉をふさいで、その前に標本棚らしきものが置かれています。また、向って左の扉のさらに左手にも、新たに整理棚のようなものが見えます。

両者を比べて、戦前のスッキリした雰囲気をより好ましく思う方も多いでしょう。
しかし、良くも悪くも、これが時代のパワーであり、教材・教具類の急速な増加は、理科準備室のみでは吸収しきれず、理科室にもあふれ出ることになりました。

(細かいことですが、いかめしい肖像画が外され、「よく見る よく考える」という標語に替わっているのも、時代の変化を感じさせる点です。総じて言えば、戦前の取り澄ました雰囲気から、少なからず庶民的になったような気がします。)

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ところで、豊郷小の理科室の隣には、理科準備室とは別に「科学室」という部屋があったことを前に書きました。
この部屋の様子は今もってはっきりしないのですが、『手引』にはそれらしき写真が出てきます。それが↓の宇宙に関する展示スペース。


部屋の造作が、理科室とは異なって見えるので、おそらくこれが「科学室」であり、こんなふうに教材展示のためのスペースとして使われていたのではないか…と推測しています(確証はありません)。ごらんの通り、ここにも先生の工作心が、繚乱たるありさまを見せています。

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「1957年10月、ソ連が人工衛星の打上げに成功して以来、先進諸国間における、科学、技術教育刷新、強化の熱は拍車づけられ、今や全世界は、この面の教育に最大の努力を傾けつつある。」

『手引』冒頭の「推薦」の辞は、こういう書き出しで始まります(筆者は全国教育研究所連盟会長・平塚益徳氏)。

当時はしきりにこういう物言いがされました。戦後の理科教育推進の牽引役は、米ソを中心とした宇宙開発競争であり、理科教育全体の中で占める天文分野の地位も、今より格段に高かったように思います。これは単純に授業の単元数がどうという話ではなくて、人々のイメージの中で「宇宙」というものが輝いていた、いわば「華のある存在」だった、という意味合いにおいてです。

「天文古玩」的には、当時の「華のある」天文教育の実態と、先生たちが心血を注いで作り上げた天文教具類に、特に目を引かれるので、これは豊郷小学校以外の小学校も含めて、別項でまとめて紹介する予定です。

(この項つづく。次回は校舎外の施設に目をむけます。)