街角の標本美2012年06月02日 09時19分36秒

豊郷小の話題は一服して、この前ちょっと気になった朝日新聞の記事について書きます。

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同紙の夕刊には「美の履歴書」という美術作品紹介のコーナーがあって、今週5月30日に掲載されたのは、写真家・大辻清司氏(1923-2001)の作品でした。
タイトルは「陳列窓」。


「???」と首をひねりつつも、そのシュールな味わいに、思わず見入ってしまう作品です。朝日の記者、西岡一正氏は、そこに「異世界」を感得しました。以下、記事から引用させていただきます。

 「異世界がのぞくわけ」

 写真は現実をそのまま写し撮る装置だ。でも、現実は人によって違う見え方をしているかもしれない。それを伝えられるとすれば、それはどんな様相の世界なのだろうか―。そんな思索を深め、実験を続けた写真家。それが大辻清司(きよじ)だった。

 「陳列窓」シリーズは初期の代表作。はくせいのペンギンがひっそりとたたずむ。標本類を扱う店舗のショーウィンドーとみられるが、行き交う人々にとってはありふれた眺めに過ぎなかっただろう。だが、ガラスで隔てられた空間が、さらに四角いフレームで切り取られて写真になると、思いがけない異世界が浮かび上がってくる。〔…〕 



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写真家は所与のものを、独自の美意識で切り取り、作品として発表する。
それは間違いありません。

しかし、この作品のもう一人の作者は、間違いなくこのショーウィンドーを作り上げた、標本商の店主氏です。ガラスドームと大小の標本壜の配列。そこにそびえ立つ1羽のペンギン。ガラスの透明感と、埃臭い剥製の質感の対立。無造作な白布の背景の陰影。

そのコンポジションに美を捉えた大辻氏の慧眼も素晴らしいですが、店頭に不思議な標本美の世界を現出せしめた、店主氏の美意識にも膝を屈しないわけにはいきません。改めて見ると、ここには商札も何もありません。店主氏は、純粋に「モノ」としてこれらを並べ、それによって何かを「表現」しようとしたのだと思います。

上記の朝日の記事には、「大辻は元科学少年。手前に並ぶ標本類にも目を引きつけられたと思われる」という解説が付されています。この写真は、「標本美」という特殊な美を仲立ちにして、元科学少年・大辻清司と、ひと癖ある標本商のふたりが、精神の火花を散らした記念の1枚である…そんなふうにも見えます。

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この作品が発表されたのは、昭和31年(1956)です。
私の生まれる前ですが、埃っぽく明るい当時の街路の様はなんとなく想像がつきます。

そこから、私の連想は、戦前に発表された乱歩の傑作、「白昼夢」へと飛びます。
むし暑い晩春の午後、主人公の「私」が、陽炎の立つ場末町で見かけた、ひどく現実感を喪失した光景。それは、屍蝋化した妻の遺体を、人体模型と称して店頭に並べる薬局店主の狂気と、それを嗤って真に受けない群衆の奇妙なやりとりでした。

大辻氏の作品には、なんだかそんなドラマも通奏低音として響いているようです。
標本商という存在に、どこか怪しい空気を私が感じているせいかもしれません。

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