新天文対話…昭和30年代の天文教育のすがた(4)2012年06月20日 20時26分39秒

台風お見舞い申し上げます。
台風一過の傷が癒えぬ前に、西から再び大雨の恐れがあることをニュースは伝えています。お互い怠りなく用心を。

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さて、いよいよ天文教育の最高峰、学校天文台です。

6月16日の記事で、「小学校の観測は何のためにするのか、ともすると気象台、天文台のまねごとに終わりやすく、そのねらいが不明確である」という苦言を『手引』から引用しました。しかし、昨日の「子ども天文科学館」のような一室を校内に作り上げる情熱が、さらに次なる目標を求めた場合、学校天文台にそれが向かうことは必然です。

校舎の屋上に白銀色に輝くドームは、児童生徒の天体への関心を高め、また大切な望遠鏡を守り、さらに天体観測を快適にするなどの効果がある
(『手引』p.105)

まず「白銀色に輝くドーム」に言及するあたり、多分にシンボリックな存在だったことが伺えます。だからというか、しかしというか、さすがにそこまでやる小学校は少なかったようです。『手引』で紹介されている例は圧倒的に小学校が多く、校数でいうと、中学校は小学校の半分以下ですが、こと学校天文台に関しては、小学校が1校、中学校が2校、それに他の分野には登場しない高校も1校紹介されています。小学校で天文台を設けている学校は、よほど例外的存在だったのでしょう。


とはいえ、ただ1校エントリーした茨木市立三島小学校↑は、さすがそこまで腹をくくってやっているだけに、ものすごい力の入れようです。白銀色に輝くドームばかりでなく、外壁に大書された「天文台」の文字にも、その誇りとプライドを感じます。


観測室は直径2.8m。円形モルタル塗りのドラムの上に、鉄骨鉄板ばりのドームを載せ、収容人員は約10人。主要機材は20cmニュートン式反射望遠鏡で、架台はクロックドライブ装置を備えた赤道儀です。当時としては堂々たるものです。

さらにドーム階下に隣接して天体学習室があり、五藤式天体投影設備が常置され、スライド上映会ができるように、スクリーンと舞台も設けられていました。素敵な学校プラネタリウムです。

いっそう驚くべきことは、この天文台は昭和24年(1949)という、それこそ進駐軍がガムを投げていたような(?)時期に作られたということです(その後、昭和29年に写真に写っている場所に移築されました)。いったい、当時誰がどんな情熱を傾けてこれだけの施設を作ったのか、非常に興味をそそられます。

「ただ木造校舎のため、約50m離れた国鉄東海道線の列車の震動を受け、星の観測に支障をおこしやすい」(『手引』p.106)という弱点もありました。それに、そもそも小学校の天文台ではどんな活動をしていたのか、太陽黒点の観測は当然としても、夜間活動の実態はどうだったのか、気になる点ですが、残念ながら『手引』には触れられていません。

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ついでですから、中学校の天文台の例も見ておきます。

まずは大阪市立十三中学校
新校舎の増築に合わせて、昭和30年(1955)に完成しました。



天文台の大きさは 5m × 7m × 5.4m、ドーム半径は 1.8m。
機材は20cm反射(架台は不明)を筆頭に、6cm屈折赤道儀、5cm屈折経緯台、さらに人工衛星観測用望遠鏡を5台備えていました。この「人工衛星観測用望遠鏡」というのは、下のページの2番目の画像に登場していますが、これぞ宇宙ブームの中で生まれた徒花的存在。相次ぐ人工衛星打ち上げに、大人も子供も宇宙時代到来を肌で感じた時代の産物です。

http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/03/19/4959140

鉄筋校舎だけに、「すぐ隣りを阪急電車が走っているが、この影響を受けていない。ただし、都心部のため、ネオンが観測の妨げになる」と、『手引』には解説されています(p.107)。

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ついで神戸市立大橋中学校


これまた『手引』からデータを引くと、ドームの直径は5mと、十三中学よりも一層大型です。収容人員も50名と、クラス全員が一時に入れる規模です。昭和38年(1963)に完成しました。


主要機材は、ここも20cm反射赤道儀で、さらに6cm屈折赤道儀と、口径5cmの人工衛星観測用望遠鏡を備えていました。どうやら人工衛星観測用望遠鏡は、当時の標準装備に近かったようです。

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こうして見ると、三島小学校の昭和24年という天文台設置年は、やはり相当早く感じられます。もちろん歴史的にはそれに先行する例もあって、大阪の船場小学校には大正時代から立派なドームがあった…ということを以前書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/04/22/5034767)。

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それにしても、これらの天文台はその後どんな運命をたどったのでしょう?
いつの時点かで廃止されたことは間違いないにしても、単に先生の自己満足で終わることなく、生徒たちの心に何か大事なものを残すことができたのでしょうか?

(この項おわり)

(謹告)ピーター・ヒングレーさん逝去2012年06月23日 07時03分14秒

(Peter Hingley氏。下記ページより)

<以下、自ブログと日本ハーシェル協会掲示板同報です。>

英国王立天文学会(RAS)のライブラリーの主、ピーター・ヒングレーさんが亡くなられました。
http://www.ras.org.uk/news-and-press/219-news-2012/2138-peter-hingley-1951-2012

昨年から今年にかけて、病気で公務を休まれていたそうですが、その後回復されて静養中とも伺っていたので安心していましたが、本復はされていなかったのでしょうか。まだ60歳を超えたばかりで、これからの活躍が大いに期待されていた矢先の訃報です。

イギリスの天文学史に関する現代の出版物は、ほぼすべてヒングレーさんに対して謝辞を捧げていると思います。したがって、その読者もみな間接的にヒングレーさんの恩をこうむっているわけです。

私が日本ハーシェル協会のツアーに参加し、RASを訪問した時に案内していただいたのもヒングレーさんです。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/05/10/6442181
その後も、日本ハーシェル協会のことを何かと気にかけてくださり、事務局の私あてに親切なメールを何度も頂戴しました。こちらからもいろいろご相談させていただき、本当にお世話になりました。

大変悲しいことですが、今はご冥福をお祈りするばかりです。

収集考…コレクションとアキュムレーション2012年06月24日 09時01分11秒


(出典:Caroline Cliftyon-Mogg, A Passion for Collecting. Bulfinch Press, 2002)

昨日のヒングレーさんもそうですが、司書という仕事にあこがれます。
何といっても古い本に埋もれて働けるのがいいところ。
「しかし、自分だけのライブラリーを作り上げれば、いつでも専属の司書になれるじゃないか!」と気づきました。もちろん無給ですが、その分働かなくても怒られないし、いつでも好きなだけ本が読めるのですから、プロの司書より恵まれているかもしれません。

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前々回登場のジョン・シッソンさんも大学図書館司書で、自宅には独自のライブラリー(宇宙ものの児童書コレクション)があるので、公私ともに司書三昧の生活です。
先日のリンク先からは、さらにシッソンさんのインタビュー記事↓にリンクが張られており、そのコレクター談義が面白かったので、内容をかいつまんで紹介します。

ephemera:  Space Flight Children's Book Collector John Sisson

シッソンさんの収集のきっかけは、その生い立ちにあります。
シッソンさんは、パサデナのジェット推進研究所(JPL)の近くで育ち、1960年代半ばに小学校生活を送りました。クラスメートの父親には宇宙開発関係者も多く、最新の情報に接する機会がたっぷりあったことが、その興味の根幹を形作っています。
ケロッグのおまけシールや、当時人気があったドクター・スースの児童書シリーズを夢中で集めた子ども時代。その後、成長とともに薄れていった関心が、再び目覚めたのは1980年代のことで、1990年から本格的な児童書の収集を開始し、現在に至っているという話。

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私が注目したのは、シッソンさんがアキュムレーション(集積)とコレクション(収集)をはっきり区別している点です。(以下、かなり適当訳)

インタビュアー: あなたはご自分の収集対象が何であるか、最初から意識して取り組み始めたのですか?それとも、ある日ふと、ご自分がなさっていることを自覚したとか?」
シッソン: そこには、アキュムレーションからコレクションへの明確な転換点がありました。最初、これらの本や資料は、失われた時に対する懐かしい喜びを与えてくれるものに過ぎなかったのですが、その量の多さ(少なくとも400冊以上)を知るにつれて、これらの本が出版された理由を知ろうと思い立ち、1950年代初頭にそのルーツを求めるようになったのです。〔…〕つまり、ある時点から、これらの本に対する私の愛情は、過去に存在したモノたちを記録・収集しようという情熱に置き換わったのです。」

集積と収集とでは、モノを購入するときの態度にも大きな違いがあります。

シッソン: アキュムレーションがコレクションへと変わるには、収集対象を絞らねばなりません。私の場合、宇宙飛行に関するものをすべて対象にするのではなくて、1945~75年というコアタイムに焦点を当てることにしました。さらにノンフィクションの作品に限るという選択も迫られました。トム・コルベットやバック・ロジャーズ、トム・スウィフトなどの宇宙小説は、コレクターも多いし、私は開拓済みの領域にはそれほど興味が持てませんでしたから。これで私の収集範囲は明確に定まり、たとえ良いモノであっても、守備範囲外のモノを容易に避けることができるわけです。」

私なりにまとめると、単に好きという感情で集めているうちは、それは単なるアキュムレーションに過ぎず、そこに知的要素(調査研究と組織立った収集方針)が加わって、はじめてコレクションになる、ということでしょう。

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私の場合、組織だった収集方針は皆無ですし、その必要を感じたこともありません。
このブログの紹介文には、「モノにこだわって」とあるので、こう書くのは矛盾ですけれど、私はモノに対するこだわり(絶対これでなければ!というような)が少ないので、そういう意味では、永遠にコレクターにはなれず、アキュムレーターにとどまるのでしょう。

結局のところ、私がこだわっているのは、モノよりも空間だと思います。
前にも書いた気がしますが、私は本そのものよりも図書館の空気が好きだし、標本を手にするよりも、標本のある空間に身を置きたいという願望が一貫して強いです。物フェチではなくて、いわば「空間フェチ」ですね。あるいは、モノはモノでいいのだけれど、モノ自体よりも、その気配が大事といいますか。

たとえば古い星図帳を手に入れたいと思ったとします。
本当のコレクターであれば、「18世紀に出たユニークな星図帳で、少部数しか発行されなかった稀少な1冊」などを追い求めるはずで、そうでなければウソです。
しかし、私の場合は「古い星図帳がまとう空気」を味わえればいいので、19世紀に大量に出回り、古書価もぐっと安いもので事足ります。要は「それっぽいモノ」でありさえすれば満足するのです。コレクターからすると、甘々な態度です。

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シッソンさんのインタビューから、さらに実際的なアドバイスと述懐をいくつか。

「私の目標は、上記の期間に出たすべての宇宙ものの児童書を調べる、あるいは所有することなので、次なる問題は予算です。1冊1冊はそう高くないといっても、やはりじっくり取り組まざるを得ませんでした。
 私はeBayに出品されている本の中で、関係のありそうなものはすべてプリントアウトしておきました。まあ、実際に購入しようと思ったのは、そのごく一部ですが。これで将来のコレクションの全体像と、そのための探求書リストが得られたわけです。それによって、優先度の高いユニークなアイテムに集中し、ありふれた品は後回しにすることができるようになりました。もちろん、収集を続けていれば、ありふれた本とそうでない本の区別や、価値ある本を見逃すこともしょっちゅうだということは分かってくるでしょう。」

「私は今、目標達成の難しさも味わっています。というのは、ありそうな本はほとんど見つけられたので、現在では英語以外で書かれた本にまで収集範囲を広げつつありますし、宇宙飛行が1960年代に学校でどう教えられていたかも調べているところだからです。コレクションとは、いったいいつ完成するものなんでしょうかね?」

これは永遠の問いでしょうね。
単なるアキュムレーターである私にも大いに共感できる部分です。
何かのカードシリーズのように、原理的にコンプリートがあり得る場合でも、実際には無数のカードバリエーションがあって、「より高次のコンプリート」がその先に控えていたりするので、結局どんな分野でも、コレクションが完成することは永遠にないのでしょう。まあ、人間のあらゆる営みがそうだとも言えますが。

勝った!買った!と下駄の音2012年06月27日 05時57分53秒


「私はモノに対するこだわり(絶対これでなければ!というような)が少ないので、そういう意味では、永遠にコレクターにはなれず、アキュムレーターにとどまるのでしょう。」

…と前回の記事で書きました。
しかし、「絶っ…対に、これでなければ!」とこだわって買うものも、中にはあります。

相撲の大一番を見ていると、仕切りを繰り返しているうちに、両力士の気合いがだんだん高まってきて、体がぐっと紅潮してくるのが分かりますが、ネットオークションの場合でも、最終日を前にして、ぐぐぐっと心が張りつめてくるような品が時にあるのです。

今週はその大一番を控え、記事もお留守になるぐらい、とても緊張しました。
結果は辛勝。まずはメデタシメデタシ。

…というような、自慢たらしい阿呆話をするのもはしたないと思いますが、でも本当に嬉しかったんですよ。探索すること10年、一見ありふれた品なのに全く見つからず、その実在を疑いかけていた頃に出会った品でしたから。

あとは無事に届くかどうか。
はしゃぎ過ぎて、後で痛い目を見るのがこわいので、その品が何なのかは、届いてから書くことにします。

Papilio paris、パリの蝶2012年06月28日 06時08分42秒

最近の買物から。


「パリの蝶」という幻想的な名前の蝶がいることを知ったのはつい最近です。
1900年代初頭とおぼしい古いプレパラートにその名がありました。小さなガラスの中に封じられた、絢爛たるパリの光。


この美しい名は、二名法、すなわち属名と種名を組み合わせた、いわゆる「学名」のシステム(※)を創案した、カール・フォン・リンネが1758年に付けたものでだそうです。
現在、ロンドンのリンネ学会が保管しているのが↓、そのタイプ標本かもしれません。

http://www.linnean.org/fileadmin/images/Press_Releases/
  Butterflies_Press_Release_Images.pdf

上のリンク先には次のような説明があります。
「一般名パリ・ピーコック(学名 Papilio paris L.)は、あらゆる蝶の仲間の中で、最も鮮やかな美しさを備えた種類の一つで、蝶の色彩パターンが、個々の鱗粉からどのように作られるかを示す完璧な例となっている。」

おもちゃの拡大鏡(http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/04/21/4258479)とケータイの組み合わせで撮ったので不鮮明ですが、鱗粉はこんな感じです。



(この項なぜか続く。ピンと来られた方は、どうぞ口チャックで。)

(※)したがって、Papilio paris の “Papilio” は「蝶」という一般名詞ではなく、「アゲハチョウ属」の意ですが、ここでは「パリの蝶」と余韻を持たせて呼ぶことにします。

Papilio paris、パリの蝶…?2012年06月29日 05時32分15秒

(昨日のつづき)

プレパラートだけではなしに、その美しい姿をそっくり手元に置くことにしました。

この蝶の和名は ルリモンアゲハ。漢字で書けば「瑠璃紋揚羽」ですが、漢字の本場中国では、元の名を生かして「巴黎翠鳳蝶」というそうです(巴黎はパリのこと)。

(産地はジャワ島。明記されていませんが養殖個体でしょう。)

その名のとおり、瑠璃色・翠色の紋様が目に沁みるように鮮やかです。この角度からだと鮮やかな青に見えますが、別方向から見るとエメラルド色にも見えます。


ぐっと近づくと、個々の鱗粉の不思議な配列が浮かび上がってきます。

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それにしても、フランスとは無縁の、アジア南部に生息する蝶が、なぜパリ?
最初はこの洒落た衣装が、いかにもパリに似つかわしいからだろうと、単純に思い込んでいました。でも、よくよく聞いてみると、どうも違うようです。

シドニー大学が作成した以下のページに、関連する記述がありました。

Rational Order: Carl von Linné(1707-1778)
 http://sydney.edu.au/museums/pdfs/Macleay/Linnaeus_Catalogue.pdf

「Ppilio(アゲハチョウ)属の192種に対して、リンネは古代の神話から採った名を与えた。リンネの時代には、科学的著作に古典からの引喩で風味を添えることは、ごく普通のことだった。Papilio 属の場合、それは合理的かつ審美的目的に叶うものだった。関連する複数の種は、たとえばホメロスの『イリアス』のような古典作品における地位や役柄に応じて、一まとめに分類されたが、Papilio 属の場合、リンネはトロイ戦争の場面を一貫して用いた。こうした理由から、「パピリオ・ヘクトル」と「パピリオ・パリス」はトロイ軍側に属し、「パピリオ・アガメムノン」と「パピリオ・デモレウス」はアカイア(ギリシャ)軍側に属するのである。」 (PDFの11ページ)

パリスはトロイ王の息子で、スパルタ王妃のヘレナを奪い、トロイに連れ帰ったことで、トロイ戦争の根本原因を作ったやさ男。
Ppilio paris の名は、フランスのパリではなくて、ギリシャ神話に出てくる、この「パリス」に由来するものだったのです。

だから、昨日の記事には、ちょっと嘘と誤解がまじっています。
しかし、シックな「パリの蝶」も素敵ですが、華麗なる蝶の軍団」というのも、これまた夢のような美しさをたたえたイメージではないでしょうか。

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ちなみに、今ウィキでぱぱっと調べたら、フランスの「パリ」は、ケルト系部族のひとつ「パリシイ族」に由来するそうです。パリシイ(Parisii)とはラテン語で「田舎者、乱暴者」の意。ローマから見た辺境の部族をさげすんでこう呼んだのだとか。

戦場をかける蝶2012年06月30日 11時28分04秒

今日で6月も終わり。
ノウゼンカズラの濃いオレンジもあちこちで咲き出し、季節は真夏へとまっしぐらです。

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さて、理科趣味とは関係ありませんが、トロイとギリシャの戦士が入り乱れる「蝶合戦」のイメージからの連想で、日本でも蝶とサムライが結びついていたのを思い出しました。

それは武家の紋所の一種「蝶紋」です

(揚羽蝶紋)

後翅の尾状突起がアゲハチョウの特徴をよく捉えています。
これは平家一族の代表的な紋だそうです。
一方には「源氏蝶」という紋もあって、まさに蝶合戦の趣。

(変り源氏蝶紋)

長い歴史を通じて、各家に伝承されてきたシンボルだけに、蝶紋のバリエーションは非常に豊富です。ひらひらと舞う蝶が、なぜ武士に好まれたかは未勘ですが、日本文化と昆虫との関わりを考える上で、これまた重要な素材であるような気がします。

(紋帳のページを埋め尽くす蝶紋の数々)