太陽がいっぱい2012年07月09日 22時30分50秒

先日登場した、リュコステネスの『驚異と予兆の年代記』。
あの断簡零葉を求めたのは、裏面の挿絵にもいたく惹かれたからです。

↑は西暦808年の条に出てくる絵。

説明文の方はやはりさっぱりですが、この挿絵は明らかに幻日(げんじつ)を描いたものでしょう。上の絵は太陽と「偽りの太陽」が並んだ様子を、そして下の絵は、太陽の周りに二重の暈(かさ)が生じ、内暈から幻日が尾を曳いているところを表しています。

実際の幻日がどんなものかは、検索すれば大量の画像が出てくるのでご覧いただきたいですが、この絵は(太陽の顔を除けば)かなり実景に近いです。

幻日は、大気中の氷晶によって太陽光が反射屈折して生じる現象なので、天文というよりは気象分野の話題になります。決して稀な現象ではないといいますが、それでも昔の人にとっては説明のつかぬ怪現象であり、だからこそ、それを大事に記録にとどめ、750年後のリュコステネスの時代にまで情報が伝わったのでしょう。

   ★

私もある冬の日に幻日を見たことがあります。
駅のホームから、薄ぐもりの空に太陽を欺く光のかたまりがはっきり見えました。でも、幻日に注意を向ける人は他には誰もいないようで、そのことがかえって不思議でした。現代の人は、そもそもあまり空を見上げないのかもしれません。

コメント

_ S.U ― 2012年07月10日 07時28分42秒

こちらのページの上半分は、天文気象が単調に羅列されているので、比較的読みやすいです。不正確なところがあるのを覚悟で列挙してみます。

・2月27日 真昼の太陽が暗くなった
・Wassermans(3月?)25日 2つの太陽と月が出た
・Jenners(1月?6月?)29日 月が暗くなった
また同時に天に大きな不調和が見られた。
・3月17日水星が太陽に入る時、ちょうど小さな黒い土のしみが太陽の中央の上にあるように、...(以下不明)
・8月21日 月が暗くなった
・秋にも月が暗くなった。1年に3回、月が暗くなった。
(以下、東ローマ帝国皇帝ニケフォロスの話になって以下省略)

これらのうち、天文計算(ステラナビゲータ)と照合して、実際の天文現象と対応しそうなのは、今のところ、807年8月21日にヨーロッパで見られたであろう月食だけです(ただしちょうど1年ずれています)。

なお、「幻日」は、シューベルトの歌曲「冬の旅」の第23曲のタイトルになっていて、そこでは、ドイツ語で、"Die Nebensonnen"となっていました。悩みの深い若者が陰鬱な旅を続けているうちにこういうものを見たこともあったのでしょう。

 ところで、この資料はなぜ1枚もの(切り売り?)になっているのですか?

_ S.U ― 2012年07月10日 18時42分02秒

(追記) 上の2つめで、"beyde Sonn und Mon" を 挿絵につられて「2つの太陽と月」と訳しましたが、"beide"は英語のboth の意味があるので、普通に訳すと「太陽と月の双方が(暗くなった?)」となるのかもしれません。でも、そしたら挿絵の幻日の記述が私が読める範囲になくなってしまいます。("beide Sonnen und Mon"なら明瞭に「2つの太陽」ですが太陽に複数形があるものでしょうか)

_ 玉青 ― 2012年07月10日 21時41分37秒

おお、神速のご教示!
ステラナビゲータまでチェックしていただき、ありがとうございます。
なるほど、本書は挿絵の出来事以外にも、いろいろこまごました内容が列挙されているのですね。

ドイツ語に関して、何ら物言えぬことを甚だ遺憾に思います。
私に唯一お答えできるのは以下のご質問についてです。

>この資料はなぜ1枚もの

それはずばり需要があって、マーケットが形成されているからです。古書を丸々買う財力はなくても、その一部だけでも手元に起きたい、あるいは額装して楽しみたいという古物好きは大勢いて、古物業界にはそれ専門の Old Prints and Manuscripts を看板に掲げた店がたくさんあります。中世の聖書、彩色を施した時祷書、挿絵入りの博物学書、珍奇な風俗書などの端本・傷本がばらされて、商品として売り買いされているわけです。ちょうど日本でも、古写経の断片とか、襖絵の切れ端とかにニーズがあるのと同様の現象でしょう。まあ、切れ端を買ってどうなるというものでもありませんが、古物好きは、理屈抜きで古いものを求めるので、こうした商売は当分なくならないでしょうね。

_ S.U ― 2012年07月11日 19時59分50秒

 この部分は、肉眼で見える太陽黒点を水星の太陽面通過と考える(水星なら肉眼では見えない)ことがかなり古くから(おそらく広く)行われていたことを示す天文観測史の史料として価値があるかもしれません。

ドイツ語の解読については、また詳しい方の助言を待つことにしましょう(以前のロシアからのエスペラント語の絵はがきについていただいたように)。

>その一部だけでも手元に起きたい
 わかります、わかります。でも、額装や軸装をしますと、元の数十倍以上?のかさにふくれあがりますので、置き場所からいうとあまり助かりませんねぇ。

_ 玉青 ― 2012年07月11日 23時26分38秒

>肉眼で見える太陽黒点を水星の太陽面通過と考える

なるほど、これは興味深いですね。
さっそく興味のおもむくままに、関連記述を求めて斉田博さんの本を見たら、さすがは斉田氏(という表現は失礼に当たるかもしれませんが)、以下の記述がありました。

「ケプラーの1607年5月28日の日記から推測すると、そのころ彼は太陽光線を小さい穴を通して暗室の中へみちびき、紙の上に太陽像を写して観測したようである。800年前の807年4月に、太陽の前に水星が来たとき、太陽面に「小さい黒い点」が見られたという記録を読んだので、そういうことがあり得るかどうかを調べるための観測であった。この観測は成功し、太陽像には小さな斑点が見られ、彼はこの斑点を水星だと思ったようである。
 しかし、現在の計算では、807年にも、ケプラーの観測したころも、水星は太陽面を通過していないことがわかっている。もし水星が通過した場合でも、ケプラーのやり方では小さい水星をとらえることはできないはずである。ケプラーの見たものは黒点であった。」
(『おはなし天文学4』p.119 ;「太陽黒点の発見」の章より)

思わぬところで、話がケプラーに結びついてビックリです。
鋭いご指摘のおかげで、ちょっと物知りになった気分です。(^J^)


>置き場所からいうとあまり助かりません

ええ、そうなんですよ。
でも、額装したら映えるかもしれないぞ…と思って買ったものでも、実際に額装するのは面倒くさいし、お金もかかるので、現実にはペラの状態のまま堆積しています。ですから、そう場所はとりません。まあ、額装云々というのは、ムダな物を買うことに対する、自分や周囲への言い訳みたいなもんですね。。。

_ S.U ― 2012年07月12日 06時54分46秒

おぉ、これは、すばらしい情報をありがとうございます。失礼ながらも「さすが斉田氏」以外の言葉が見つかりません。

 リュコステネス『驚異と予兆の年代記』のこの部分は天文学史料としてすでに有名なのかと思って、webで検索してみましたが、それそのものの引用は見つけることが出来ませんでした。現代の天文研究者にはあまり研究されていないのかもしれません。ところが少し古い論文に、ケプラーに関係しそうなこととして、水星の太陽面経過に関する次の文献を見つけました。

"Supposed early transits of Mercury"
W.T.Lynn, The Observatory, Vol. 18, p. 435-435 (1895)
http://adsabs.harvard.edu/full/1895Obs....18..435L

この短いレターの中程に、

「ティコ・ブラーエは、彼の"Historia Coelestis"で、同種の現象が AD 778, 807, 1278 に起こったというリュコステネスの文章を引用している」

と書かれています。ケプラーはこのティコの本を読んだのかも知れません。問題は、『驚異と予兆の年代記』の808年とは、年が1年ほどずれていることですが、東ローマ帝位の政変や月食も同じ方向に1年ずれている可能性があるので、リュコステネスのドイツ語版はそもそも1年ずれているのかも知れません。月日も合わない(3月17日としか読めません)ので、これ以上はわかりません。したがって、残念ながら、玉青さんの半ペラ(失礼な表現ですみません)のリュコステネスが、リュコステネス→ティコ→ケプラー→斉田氏の情報のオリジナルかどうかはわかりませんでした。でも、可能性は残っているのではないでしょうか。

 どなたかこの部分の解釈を研究して下さるかも知れないので、勝手ながら関連部分をトランスクライブして残して起きます。間違いはご寛恕下さい。

Lycosthenes, "Prodigiorum ac ostentorum chronicon", AD 808?
"So stünd der stern Mercurij den siebenzehen den Martij inn der Sonnen, eben wie ein schwartzer kleiner erdflecken ein klein ob der mittle der Sonnen, vor dem gwülck aber hatt mans mit sehen mögen, wann Mercurij lauff inn, ober wie, er wider uß der Sonnen kreyß kommen."

_ 玉青 ― 2012年07月12日 21時50分21秒

おお!
ティコが言及しているのであれば、ケプラーもティコ経由で知った可能性は高いですね。

それと1年のズレの謎は解けた気がします。
どうやら東ローマ帝国では9月1日を年の初めとしていたらしく、そのせいで現代の暦と(西欧世界のユリウス暦とも)、表記に1年のずれを生じる場合があるようです。

(参考)以下のページの「Beginning of the year」の項
http://en.wikipedia.org/wiki/Gregorian_calendar

また月のずれにも、きっと何か暦法上の理由があるんじゃないかと思いますが、こちらは未勘です。

_ S.U ― 2012年07月13日 08時15分02秒

ナニィ、東ローマ帝国はユリウス暦とは年初が違ったのかー
と驚きました。歴史調査は、どこに落とし穴があるかわかりませんね。どっちにどれだけずれていたのか、また調べてみたいと思います。わかりましたらよろしくお願いします。

 上記の驚きに勢いを得て「月のずれ」についても手がかりがつかめたように思います。それは水星の太陽面通過が800年頃にはユリウス暦の4月と10月にしか起こらないということです(ティコの時代でもユリウス暦ではそうでした)。当時、惑星軌道について世界の第一人者であったティコとケプラーならこれを知っていて、3月に水星の太陽面通過が起こるはずはないと考えて4月に訂正したこともありえると思います。ただし、これには、彼らの水星軌道データの検証が必要です。(なお、21世紀には、グレゴリオ暦の5月と11月にしか起こりません)
 
 斉田氏の本は手元にないのですが、ケプラーの文献情報は出ていませんでしょうか。もしありましたらご教示下さい。

_ 玉青 ― 2012年07月13日 23時35分55秒

斉田氏の本は、個々の記述の出典がなくて、巻末に「参考文献」が著者のアルファベット順に列挙されているだけなので、ケプラーの文献情報は不明です。
ただ、検索しているうちに、ちょっと気になる情報を目にしたので、現在頭の中を整理中です。

_ S.U ― 2012年07月14日 07時34分55秒

お調べありがとうございます。文献が載っていなかったそうですが、それでも、ネットに何か見つけられたそうで、楽しみにしております。なお、ケプラー著の文献については以下のようにわかりました。

私のほうも、リュコステネスのドイツ語版の「808年3月17日の水星」の引用 を「ケプラー」とともに検索することによって、ついに見つけました。(ひょっとして玉青さんの気になる文献もこれですか?)

Burke Gaffney "Kepler and the Jesuits", Bruce Publishing 1944
http://archive.org/details/KeplerTheJesuits

の82ページからの章にケプラーの観測の詳しい説明があります。以下、彼の観測の要点だけ書きますと、

・ケプラー著の原典は、"Optics"の第5巻
・ケプラーは「シャルマーニュの生涯」なる文書を見て807年3月17日に水星の太陽面通過が観測されたことを知った。ケプラーはこれを808年3月17日の現象と考えた。
・ケプラーの観測は1607年5月28日がはじめ。

ということです。ケプラーは水星の太陽面通過の計算をしたようですが、このときはまだ精度が悪く、4月にしか起こらないことが特定できていません。従って私の予想ははずれでした。斉田氏の記述の4月がどこから来たかはわかりません。ご指摘の年初設定問題があって、記録者各人が勝手に補正していることもあるとすれば、当時の引用にはつねに1~2年の不定性を見るべきかもしれません。
 ケプラーは1631年11月7日(グレゴリオ暦)の水星の太陽面通過は正しく予報したといい、この精度を上げるのに生涯をかける必要があったようです。

 ついでに、ステラナビゲータの計算ですが、
 806年4月23日にヨーロッパで見られる水星の太陽面通過が起こっています(肉眼で観測できたはずはありませんが)。また、806年9月~807年8月にヨーロッパで見られる月食(どれもほぼ皆既)が立て続けに3回起こっています。807年2月11日にもヨーロッパでかなり深い日食が起こっています。(以上いずれもユリウス暦)
 806~807年は天文の当たり年(今年の日本ような)だったようで、リュコステネスの808年の条はこのころ日食・月食が多かったことをある程度反映しているのかもしれません。

_ 玉青 ― 2012年07月14日 12時13分35秒

ありがとうございます。
いやあ、それほどスゴイ情報が見つかったわけではありません。それどころか、なんだか調べていくとだんだんハッキリしなくなってきます。欧米の著作でもいい加減な孫引きが横行しているようで、人によっても言うことが違うし、いったい誰を信じればいいのか…? それにつけても、カロリング朝は遠い世界ですねえ。

以下、少し情報を整理してみます。

   ★

ケプラーがこの件について触れている著述は、以下の2点あるようです。私はいずれも未見です。

・Astronomiae Pars Optica (通称Optics) (1604)
・Phaenomenon singulare seu Mercurius in Sole(1609)

そして、それらの中でケプラーが参照した文献として、史家が挙げているものにも以下の2種類があります。

・『シャルルマーニュの生涯』
・『フランク王国年代記』

S.Uさんが挙げられたGaffneyの本によれば、ケプラーが直接見たのは、1588年に出た刊本の『フランク王国年代記』で、そこに「シャルルマーニュの生涯」も併せて収録されていたように読める記述がありますが、どうもその辺がはっきりしません。

   ★

まず『シャルルマーニュの生涯』の内容から確認します。
邦訳「カール大帝の生涯」(http://homepage2.nifty.com/~llargog/charlemagne_3.html)に出てくる関連記述は、「第32節 死の前兆」の以下の文章のみのようです。

「彼の生涯の最後の三年間、太陽と月の欠けることが非常にしばしばあり、七日間にわたって太陽に黒点を見、彼が大変な苦労をして建てさせた聖堂と宮殿のあいだの回廊が、昇天祭の日に突然完全に崩れ落ちた。」

ここには、肝心の「807年3月17日」がありません。これは元の英語版を確認しても同様でした(http://www.fordham.edu/halsall/basis/einhard.asp )。
ひょっとしたら、「3月17日」は元々地の文にはなくて、注釈のような形で後世付加された情報なのかもしれませんが、その辺は皆目不明です。それに、カールの没年が814年であることからすると、「最後の3年間」と「807年」の食い違いも気になるところです。

(もっとも、「シャルルマーニュの生涯」には実は2種類あり、上記Einhardの著作以外に、ザンクト・ガレンの修道士(=Notker Balbulus?)が書いたものがあるそうで、「807年3月17日」はこちらに出ているのかもしれませんが、手元で検索した限りでは、関連記述は見つかりませんでした。
http://www.fordham.edu/halsall/basis/stgall-charlemagne.asp

いずれにしても、「シャルルマーニュの生涯」の著者は東ローマ帝国外の人物ですから、リュコステネスが同書を参照したのであれば、彼が年次を808年とした理由が再度問題になります。でも、これは(Gaffneyが引用するところの)ケプラーが主張するように、「当時は3月25日を年初としたため、ずれたのだ」と考えれば、つじつまは合いますね。

   ★

さて、次いで『フランク王国年代記』の方ですが、そのラテン語原文は以下にあります。
http://www.thelatinlibrary.com/annalesregnifrancorum.html

問題の807年の条の関連記述として、以下の一文があります。

Nam et stella Mercurii XVI. Kal. Aprilis visa est in sole quasi parva macula, nigra tamen, paululum superius medio centro eiusdem sideris, quae a nobis octo dies conspicitur. Sed quando primum intravit vel exivit, nubibus impedientibus minime adnotare potuimus.

ラテン語なのでほとんど読めませんが、日付については「4月16日」と読めるので、斉田氏が言う「4月」は、究極のところここに由来するのでしょう。が、そうすると「3月17日」はいったいどこから来たのか…? 謎は深まるばかりです。

   ★

ところで、Albert Van Heldenという人のMeasuring the Universe: Cosmic Dimensions from Aristarchus to Halley(1985)の64ページ(http://tinyurl.com/7ueou2m)を見ると、Van Helden も Gaffney と同じく、ケプラーが問題の年次を808年に1年ずらしたことに触れていますが、こちらは「808年4月16日」に修正した…と書かれています。
(すみません、上記リンク先は“Phaenomenon singulare seu Mercurius in Sole 807”で検索したので、変なところにマーカーの色がついています。またプレビュー画面なので、一部しか読めません。)

うーん、本当にいったい誰の言うことが本当なのか??????
整理のつもりで書き始めましたが、あまり整理になっていません。。。

_ S.U ― 2012年07月14日 18時16分40秒

ご教示ありがとうございます。
ややこしいですね。理解に苦しみます。ケプラーの文献には、3月説と4月説の両方が出ているのでしょうか。リュコステネスにしても「シャルルマーニュの生涯」の著者にしてもケプラーより少し早いだけの同時代人なので、みんなわからないなりの解釈して揺れ動いているだけかもしれませんね。

 通常ならば、天文現象の月日の照合によって解決がつくのでしょうが、これは正しい観測が成立しているはずがないのでその手も使えません。3月17日と4月16日はちょうど30日の違いなので、月齢か何かで原史料が表現されているのかと想像したりしますが、どうにもなりません。

 カール大帝の没年の矛盾については、リュコステネス803年の「空の軍団」の条に出てくるカロリング朝?(大帝の息子のイタリア王ピピン、810年没)の記事が混入して4年ほどずれているのかもしれません。でも、本人と息子の記述を取り違える伝記というのも頼りなさ過ぎる気がします。

 ケプラーは手強そうなので、ティコの"Historia Coelestis"でのリュコステネスの引用を見たいと思います(ネットには未見)。こちらのほうが玉青さんの史料に関係あるかもしれません。お持ちのリュコステネスは(808年の条が807だとして)、807年2月の日食と8月の月食の計算が合うので(前者は日付が半月ずれていますが)、天文記録としては比較的信頼性が高いような気がします。

_ S.U ― 2012年07月14日 21時19分56秒

>「シャルルマーニュの生涯」の著者にしてもケプラーより少し早いだけの同時代人
 これはちょっと間違いのようでしたので、訂正します。『シャルルマーニュの生涯』の著者は9世紀の人で、ケプラーが読んだ『フランク王国年代記』 の出版が16世紀ということでよろしいでしょうか。やはり後世の訳註がはいってきているのでしょうか。

_ S.U ― 2012年07月15日 15時27分55秒

たびたびすみません。そのあとすぐに、ティコの文献の原文の引用らしきものがみつかりました。

"The Astronomical register"(1864)
Author: Levander, Frederick William

http://home.us.archive.org/strea/astronomicalreg05unkngoog#page/n5/mode/2up
の240ページです。"8th century"の段落の最後に、

"A.D.778, Mercurii stella visa est in medio sole, velut macula nigra. Polyd. Vergilius lib. 3 de Prodig. Lycosthenes in predigiis dicit id factum esse 6 calend. Apr. Idem Lycosthenes dicit quod iden accideret anno 808 et 1278."

とあるのがティコの書いた文でしょう。ラテン語が読めないのが遺憾です。スペルの写し間違いはご勘弁下さい。808年の月日はかかれていないようです。

_ 玉青 ― 2012年07月15日 18時44分19秒

続々と情報をありがとうございます。
なるほど、リュコステネスを盛んに引用していますね。
全然読めませんが、「 6 calend. Apr.」というのは、また別件についての日付なんでしょうか。

  +

ときに、ふと立ち止まって考えると、我々は今何を明らかにしようとしているんでしたっけ?何だか我ながら茫洋としてきました。

今ここで話題になっていることを整理すると、

○807年の4月に、“水星の太陽面通過”(実際には肉眼で捉えた太陽黒点の記録)が、同時代資料である「フランク王国年代記」には書かれている。

○同じく「シャルルマーニュの生涯」には、これが「3月」の出来事として書かれていると言われるが、原典にあたっても、その点がはっきりしない。

○16世紀後半、リュコステネスが、この天文イベントを自著で取り上げているが、そのソースは不明。

○しかし、リュコステネスは、年次をなぜか807年ではなく、808年としている。

○同時期、ティコ・ブラーエはリュコステネスの引用として、この出来事を自著に書いている。

○17世紀初頭、ケプラーも、ソースがいま一つはっきりしないが、やはりそれを自著に書いている。

○ケプラーは独自の計算に基づき、このイベントが807年ではなく、808年の3月ないし4月に起こったと主張した。

こういった複数の命題、複数の論点を、同時並行で考証しようとしているので、作業がとても大変になっている気がします。そして(ここが重要ですが)この考証によって明らかになることは要するに何なのか、今一つ自信が持てなくなってきました。うーん…頭が働かない。暑さにやられたせいでしょうか。。。。

_ S.U ― 2012年07月15日 21時04分27秒

>暑さにやられたせいでしょうか。。。。
 今日はこちらも暑かったです(笑)。
 確かにはじめの目的が不分明になくなりましたね。
 
 私の目的は、玉青さんのリュコステネスの808年3月の記述がケプラーの観測の動機の引用元であることを証明したいと思ったのですが、斉田氏が4月と言述べているので、合わないなぁと思いました(年が1年合わないのは説明可能でひとまず問わないことにします)。そこで、ケプラーの典拠が『フランク王国年代記』でそこに4月と書いてあるならば、ケプラーの典拠は残念ながらリュコステネスではないという結論になって、ここであきらめるべきだったでしょう。

 しかし、Burke Gaffney は、ケプラーが808年3月説を採っていると述べているので、それも正しいならばケプラーは、4月説と3月説の両方を併記していていることになります。それなら4月と3月の典拠も2つあるだろうということで3月説を述べているリュコステネス引いたティコの文献を当たると、そこに日付は書かれていませんでした、というわけです。 ケプラーがティコの知識を仕入れたかどうかもわからないので、これ以上は進展できません。やはりケプラーの原典を当たるべきではないでしょうか。
でも併記されているか調べるとなると、存在するケプラーの文献をすべて見ないといけない事態もありうるので、たいへんなことになるかもしれません。

 リュコステネスの原典はわかりませんが、これは中世の700年をまたいでいるし、天文学史でもないので私には追求が困難なのではないかと思います。
 もう一つの問題は、「808年頃の黒点が水星の太陽面通過である」という考えが、いつの時代に発したものかということです。出現当時のアイデアなのか、16世紀のアイデアなのかその途中のいつなのかこれもわからないのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2012年07月16日 09時32分39秒

ああ、そうでした。
斉田氏が出発点でしたね。そのことすら暑さで忘れかけていました;
そして究極の問いは、「3月/4月問題」。

これはもう何はさておき、ケプラーの原典を確認すべきで(これは先に挙げた1604年と1609年の2著の初版を確認すれば十分かと思います)、そうすれば一発だったのですが、この点を2次資料と推理によって解こうとしたために、作業の難度があがっていた…というわけですね。

さらに、リュコステネスの「807/808年問題」についても、まずは原著の自序・自注に、過去の出来事の年次記載について、何か説明がないかを確認する作業を行うべきだったかもしれません。

…とまあ、言うは易く、行うは難し。
本件の解決を拒む最大の壁は、言語の問題でしょうか。特にラテン語。かつて「寝ながら読める!」とうたったラテン語入門書を買って、「読みながら寝ている!」という経験をしたことはあるのですが…。羅→英の自動翻訳が、早く実用レベルに達してほしいです(現状は英→日と同じぐらいのレベルじゃないでしょうか)。

>「808年頃の黒点が水星の太陽面通過である」という考えが、いつの時代に発したものか

これも気になりますね。
『フランク王国年代記』の原文に、水星云々と明記されているので、少なくとも9世紀当時すでにあった考えだろうと思うんですが、それ以前からあったんでしょうか。

『年代記』の著者は、『シャルルマーニュの生涯』の著者であるアインハルトだとも言われますが、それが実際誰にせよ、当時の教養人のベースは、後世と同じくラテン語の古典だったようです。

先に引用した『カール大帝の生涯』(http://homepage2.nifty.com/~llargog/charlemagne_2.html)を読むと、シャルルマーニュその人が、

「彼は実に熱心に教養七科目を学び、その教師たちをとても重んじ、彼らに大きな敬意を表していた。既に高齢の人であったピサの助祭ペテロは、彼に文法を教えた。アルクィンと呼ばれた別の助祭アルビヌスは、ザクセンの血を引くブリテン人だったが、当時の最高の学者であり、彼にその他の科目を講義した。王は修辞学、論理学、そして特に天文学の学習に多くの時間と労力を注いだ。彼は計算することを学び、大きな好奇心と注意深さをもって天体の運動を観察した。」

とあります。

プトレマイオスの体系が、当時のヨーロッパ社会でも周知だったとすると、合の際に水星や金星の太陽面通過が見られても不思議ではないと思う人は、昔からいたはずですが、肉眼的サイズの黒点でも出現しない限り、それを見た!とは言えないので、実際の記録ははなはだ少なかった…ということかもしれませんね。

_ S.U ― 2012年07月16日 13時30分01秒

おぉ、問題点を明瞭にまとめていただきありがとうございます。私も今回は話が発散しないよう、簡潔明瞭に行きたいと思います。

・ケプラーの"Optics"は、Amazonで英訳版を売っているようですし、私の近くの大学図書館にもドイツ語訳版があるようですので、いずれ手に取れるようにしたいと思います。

・『フランク王国年代記』は、ご紹介のラテン語文が9世紀の原文なのですね。9世紀に水星の太陽面通過が広く知られていたことになり興味深いです。ご指摘のように古代ギリシアの天文学者にはこの現象の可能性が予見されていたと思いますが、「最初の観測」がいつかという問題ですね。この「観測」はどうせフェイクですし、アラビアかアジアからの情報かもしれないので、どこから手をつけて良いかわかりません。

・『フランク王国年代記』の807年の記事の続きにも月食(9月11日?)が載っているようですが、日月食はこの手の文献の年月表示の較正に使えるかもしれません。
 ヨーロッパで見えた月食の日付は、ステラナビゲータによると、(806.09.01、807.02.26、807.08.21)です。日食は、807.02.11にありました。807.09.11に月食があったというなら、ユリウス暦では満月の日にならないので、フランク王国はユリウス暦とは違うのかもしれません。
 808年にはヨーロッパで見える現象はありません。また、当時、水星の内合の日を計算する学者(占星術師?)がいたなら、その計算に黒点観測日が影響された可能性もあるかもしれません。ステラナビゲータの計算によると水星の内合は、807.04.04と808.03.15に起こっています(太陽面通過ではありません)。

_ 玉青 ― 2012年07月17日 06時00分03秒

カール大帝を向こうに回し、時空を縦横に駆けめぐって攻め立てたこの話題、
そろそろ兵を引くべき時がきたようです。
幸い、いくつかの城砦は落とすことができましたし、
後に控える対手の陣容のあらましも、しっかと見届けました。
いずれ新たな資料を携え、捲土重来を期すことにいたしましょう。
殿、いざ下知を!

_ S.U ― 2012年07月17日 18時53分45秒

>殿、いざ下知を!

 ははは。殿は玉青様でござりまするがな(笑)。

 はい。そこそこの成果が挙がりましたので、このへんまでにいたしましょう。

 ところで、それがし、本日仕事の帰りに大学図書館によって、敵の本丸ケプラー城の内部を偵察して参りました。二文書は読めぬ異国語(ラテン語)にて書かれておりましたが、写しをとって参りましたので、あとで一部を私信にてお送りいたします。休戦中にご検討下さい。これで休戦協定も我がほうに有利に進むことでしょう。

ということで、ひとまず、このコメントを終わりにしようと思いますが、一連のコメントをここまで読んで下さった方が他にいらっしゃると、この終わり方では申し訳ないので、ケプラーの二文書の内容の見た感じを書かせていただきます(ラテン語が読めない範囲での私の判断です)。

・ケプラーは、「シャルルマーニュの生涯」に「水星の太陽面通過が、807.04.16にあった」という記述があるとしている。
・ケプラーは、この日付を、他の文献研究によって、808.03.17に相当すると解釈している。
・ケプラーは、リュコステネスの808年の記述にも言及している。

これで、兵を引くことにいたします。

_ 玉青 ― 2012年07月17日 22時34分03秒

おお、疾きこと風の如し。
なるほど、ケプラーはケプラーで、いろいろ慎重に考証を進めていたわけですね。ようやく謎が解けました。(ただし、箇条書きの第1項目については、「シャルルマーニュの生涯」が「フランク王国年代記」でしたら、我々のこれまでの調査と完全に符合しますが、この点は今一つ解せぬものがあります。ケプラーが参照したのは、両作品を合わせて出版された16世紀の活字本らしいので、その辺で混乱が生じているのかもしれません。)
おかげで、後世の者は右往左往させられましたが、まあここは慎重に論を進めたケプラーをほめるべきでしょう。(と、かのケプラーをつかまえて偉そうになんですが・笑)

では大殿、しばし戦塵をすすぎ、ゆるりと盃でもお空けくだされ。

(…というコメントを書いているさなかにメールをいただきました。ありがとうございました。添付のコピーを拝見したら、ケプラーが「シャルルマーニュの生涯」から、として引用しているのは、やはり「フランク王国年代記」の文章のようです。ごくわずな違いを除き、以前コメント内で引用した「年代記」の原文とまったく同一です。)

_ S.U ― 2012年07月18日 07時19分52秒

>かのケプラーをつかまえて
 ケプラーやカール大帝を向こうに回していると考えると、どうしても偉そうになってしまいますね。

 では、ゆるゆると次なる攻略を練ることといたしましょう。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック