「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!2012年07月21日 20時58分00秒

もろもろ仕事に追われて、なかなか記事が書けません。
宿曜経の話題もちょっと間延びしてきたので、簡潔にいきたいと思います。

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宿曜経は「経」とはいっても、釈迦の説いた仏説ではありません。
文殊菩薩に仮託して、当時のインド占星術の基礎知識を説いたものです。そもそもインドに原典があったわけでもなく、インド出身の僧・不空が、自らの星占いの知識を口述し、それを中国人の弟子が文字に起こしたものだと言われます。したがって、内容は仏教教理とはほとんど関係がありません。

(宿曜経上巻 冒頭)

ここで話の眼目は、果たして宿曜経の中に、西方(ギリシャ、オリエント世界)の天文知識がどの程度含まれており、それが平安時代以降の日本にどう摂取されたか、という点です。(以下は矢野道雄氏の『密教占星術』からの受け売りですが、一部私の勝手解釈がまじっています。)

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まず、宿曜経の背景となっているインドの占星術には、以下の2要素が含まれているとされます(さらに宿曜経の成立以降に、イスラム系の要素も混入)。

(1)ヘレニズム(注1)以前のインド固有の要素
(2)ヘレニズム以後の西方系要素

宿曜経の内容を、この考えに沿って区分すると、インド固有の要素とは、白道(=月軌道)上に設定された十七宿(または二十八宿の観念であり、この「宿」の観念は、古代文明ではインドと中国だけに見られ、ギリシャやバビロニアの文献には登場しないそうです。

そして、西方系要素とは、黄道(=太陽軌道)上に設定された十二宮(いわゆる黄道十二星座)や、7日周期で各日を支配する七曜(月火水木…)」の観念、あるいはホロスコープ作りに欠かせない十二位の考え(注2)などです。

(矢野前掲書、p.18)

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星占いでいう十二宮と黄道十二星座は、今では位置がずれてしまっていますが、まあ元は同じものです。さそり座とか、いて座とか、みずがめ座とか聞くと、何となくエキゾチックな感じがしますが、平安時代の人は既にその存在をよく知っていました。

(John Players & Sons のシガレットカード、1916年)

また「今日は日曜日、明日は月曜日、その次は火曜日…」という曜日の観念も、明治になって入ってきたわけではなく、平安時代の暦にはちゃんと書かれていました。(当時、日曜日のところには「蜜」と書かれていました。蜜の語源は太陽神ミトラです。)

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宿曜経によって開かれた、西方の天文知識への扉は、その後も拡大を続けました。
たとえば、宿曜経の伝来から約60年後、865年に密教僧の宗叡(しゅうえい)が中国から招来したお経に、都利聿斯経(とりいっしきょう)」という経典がありました。あるいは、それと関連して「聿斯四門経(いっししもんきょう)」というのもありました。

ここで「ありました」と過去形で書くわけは、現在では、いずれもその題名だけが伝わり、本文は失われているからです。しかし、平安時代の宿曜師にはよく読まれたものらしいです。

矢野道雄氏は、この経典の背後に、かのプトレマイオスが著した『テトラビブロス』の影を見ます。『テトラビブロス』は、2世紀半ばに成立した、「占星術の聖書」とも呼ばれる、ギリシャ占星術の根本文献です。

プトレマイオスの名は、英語読みだとトレミーとなるように、語頭のPが脱落しやすいので、この「都利聿斯(とりいっし)」とは、ずばり「プトレマイオス」のことであり、「四門経」とは「テトラビブロス(四つの書、の意)」の訳だろうと矢野氏は述べています。
まあ、これは氏自身“反論を期待する仮説”と述べられているので、まだ定説とはなっていないのでしょうが、実に魅力的な説です。

かりにそうだとすれば、「平安時代の人はプトレマイオスを知っていた!!」ことになり、まさに「モーゼは日本で死んだ」並みの衝撃です。ともあれ、王朝期の日本人が、予想以上に「西洋かぶれ」だったのは確かだろうと思います。

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宿曜経に発する占星の法は、その後、他の技術も吸収して「宿曜道」として大成されるに至りましたが、その内容は終始一貫、暦占の術にとどまり、観測天文学が日本で独自に発展する機運はついに芽生えませんでした。

なぜか?というのは、日本独自の学問システム、中国文化との関係、日本人の思考パターン、当時の世界情勢、観測・計算に要する技術的前提、等々いろいろな角度から説明できそうですが、これはまた宿曜経とは別の話題でしょう。



(注1) ヘレニズム時代とは、紀元前4世紀~紀元前後、アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシャ、エジプト、ペルシアの古代文化圏を包摂する一大帝国が作られ、東西文化の融合が進んだ時代です。ヘレニズム文化は、その後もキリスト教やイスラム教が文化的支配力を発揮するまで、地中海周辺世界で力を持ち続けました。

(注2) 占星術では、特定の日時における太陽・月・五大惑星(水金火木土)の位置を見ていろいろ運勢を占うわけですが、ここでいう「位置」には2つの意味合いがあります。1つは天球座標上での位置です。たとえば「そのとき、太陽は獅子宮、月は蟹宮にあって…」というような。もう1つは地平座標による位置です。たとえば「そのとき、木星は東の地平線上にあって、月は南中直前で、太陽は地面の真下にあって…」というような位置です。「十二位」とは、後者の意味合いで位置を表示するための方法です。具体的には、黄道と東の地平線との交点(これは同じ日でも時刻によって変わります)を基準にして、黄道を十二等分して一位~十二位を定めています。

コメント

_ お星様大好き ― 2012年07月22日 01時02分39秒

とても勉強になります。いつもありがとうございます。

_ ひろせ ― 2012年07月22日 20時19分36秒

こんにちは、その矢野先生の弟子でもある京都の廣瀬です。

天文史の話題を紹介していただきありがとうございます!
平安時代の人々がどこまで宿曜経をエキゾチックなものと認識していたかはわかりませんが(何しろ当時の図像を見ると射手宮が矢になってたり、双子宮が男女になってたりするので…)、藤原道長の日記にも曜日が書かれていて源氏物語にも宿曜の達人なる人物が登場するので、流行していたのは確かなようです。

_ 玉青 ― 2012年07月22日 20時52分24秒

○お星様大好き様

「大好き」さん(と勝手に省略してすみません)は、星好きだけあって夜更かしですねえ。
星をご覧になっていらしたのでしょうか?
拙ブログは、あまり勉強にはならないと思いますが、「大好き」さんの琴線に触れるものがあったとしたら、とても嬉しいです。今後もどうぞよろしくお願いします。


○ひろせ様

おお、直弟子の方が登場されたとあっては、エセ法師^_^;は退場するしかありませんが、もし「エセ」が変なことを口走っているのに気づかれたら、どうぞご指摘よろしくお願いします。

ところで、いよいよ「教室」も近づいてきましたね。
京の都で唐天竺を想い…となると、宿曜経の話題はちょうど良かったかなあと、こっそり自画自賛しています。
まあ、参加される方の興味関心がそちらに向かうかどうかは微妙ですが…。

_ S.U ― 2012年07月22日 21時09分08秒

「密教信者」に関して別記事から移動してきました。

 宗旨たる高野山真言宗については、弘法大師が諸国をまわって土地の人を助けたという穏健な教えだと思っていたのに、「密教」というおどろおどろしい側面が並行して存在していることに驚きを感じたことを覚えています。

 しかし、今回のお話で、密教は当時においてはおどろおどろしい術ではなく、舶来のスマートなスーパーテクノロジーだったのではないかと思いました。だから、あちこち土地の人々の期待も高かったと考えてはどうでしょうか。

_ 玉青 ― 2012年07月23日 23時36分07秒

おお、何かデジャヴュを感じる話題。

>密教は…舶来のスマートなスーパーテクノロジー

空海その人は、天才的な頭脳と、異常な記憶力の持ち主で、唐から最先端の学問をそっくり仕入れてきたと言いますから、まさに「新知識」の塊として、大宮人にはそういう受け止め方をされたことでしょう。

いっぽう、各地の大師信仰は、高野聖のような回国遊行の宗教者が広めたらしいですが、彼らは一種の「行」として、道を普請したり、橋をかけたり、土木技術のエキスパートとして働き、またありがたい祈祷によって病人を癒すなど、これまた庶民からすれば頼もしい存在だったようです(もっとも、中世末期ともなればゴロツキ同然の、嫌われ聖も多かったらしいですが)。

ただ、当時の庶民感覚でいうと、意外に「おどろおどろしさ」こそが「スーパーテクノロジー」の証しであり、そこにこそ有り難味があった可能性もあるので、その辺は現代の感覚とちょっとずれるかもしれないですね。

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