真打登場…星曼荼羅2012年07月27日 05時43分43秒

(一昨日のつづき)

私の部屋にはモノがいっぱいありますが、人様に向かって「どうだ!」と誇示できるものはほとんどありません。しかし、ほとんど無いながらも、ちょっとはあります。
今日はその「どうだ!」の品を出しますので、嘘でもいいのですごい!」と言ってください。

   ★

それは星曼荼羅です。
いかに星好き、古玩好きの人でも、星曼荼羅の現物を所持している人は少ないと思うので、これはやっぱり「どうだ!」となるのです。
 
(床の間にかけて撮影すればもっとサマになるのですが、とりあえずいつもの本棚の前に掛けてみました。)

   ★

一昨日の本の中で、抱影が最も鑑賞と考証に力を注いだのが、「法隆寺の星曼荼羅」です。以下、翁の文章を引いて、星曼荼羅の概説に代えます。(以下、『星と東方美術』p.73 より)

 〔…〕星曼荼羅は一に北斗曼荼羅ともいう。平安時代から盛んになった密教 ― 天台宗、真言宗のとくに後者の最大秘法、北斗法で、除災・福徳・延命の祈願に懸けた図幅である。

 インドではごく古くから、十二宮、二十八宿および九曜の星占が発達していた。北斗については、正法念経に、「外道、北斗七星と謂う。…北斗七星の常に現るるを見、この星よく一切の国土を持すると謂う。如実を知らず」とある。

 中国における北斗七星の信仰は五行説にもとづくといわれる。密教は星占による加持祈祷を重点とするので、インドの星占に中国の北斗信仰や初期の天文知識を習合して、星を神格化した曼荼羅を作成した。北斗曼荼羅といわれるのも、この七星の神々が北極北辰の座を中心として天を周り、陰陽四時を定め、九曜(日、月、七星)の神々を支配し、人間の運命を主るものと信ぜられたからである。

 要は釈迦を中心に、北斗七星(これは中国起源の信仰に基づきます)や、インド伝来の十二宮、二十八宿、太陽・月・諸惑星を配して、それを一枚の図像で表した「一大星絵巻」です。

   ★

この星曼荼羅を手に入れるまでには、長い前史があります。
昔…というのは10年ぐらい前ですが、ネット上で星曼荼羅の残欠が売られているのを見ました。興味深くは思いましたが、そのときはまだ「普通の天文趣味人」だったので、それほど食指は動きませんでした。しかし、その後「天文古玩趣味」に開眼すると同時に、「あれはすこぶる貴重なものだったのではないか…?」と思えてきました。が、時すでに遅く、例の残欠はとうに売れてしまっていましたし、その後は探しても探しても、星曼荼羅の現物に出会うことはついになかったのです。

その後も思い出すたびに探索を続け、やっと出物を見つけたのは昨年秋のことです。
そのときの驚きと喜びは、ちょっと言葉にしにくいです。

覚えている方もおいででしょうが、昨年10月、「京都博物ヴンダー散歩」と称して、益富地学会館や島津創業記念館、京大総合博物館、Lagado研究所さんを巡歴したことがあります。実は、あのときのメインの用務は、この星曼荼羅の現物を確認し、購入することにあったのです。(10月26日の記事を読むと、「島津創業記念館を後にし、祇園北の骨董街で用を足してから、京阪鴨東線に乗り込み…」と、こっそりそのことが紛れ込ませてあります。)

(この項つづく。以下、曼荼羅の細部を見ていきます。)

コメント

_ toshi ― 2012年07月27日 22時48分28秒

すごい!!!
いつの時代のどこの国のものですか?

_ 玉青 ― 2012年07月28日 12時11分00秒

>すごい!!!

ビックリマークを増量していただき、ありがとうございます。(^J^)
toshiさんにそう言っていただけると、嘘でも光栄です。

詳細は後ほど記事にしますが、これは日本のもので、仏画としてはごく若い、江戸時代も後期のものです(だからこそ私でも手が届いたのですが)。それでもこうして完品が手に入ったことは、本当に僥倖でした。
ちょっと大袈裟ですが、「求めよ、さらば与えられん」という言葉をかみしめています。

_ S.U ― 2012年07月28日 13時19分09秒

こちらも「密教」の話題についていってコメントを続けさせていただきます。天文民俗についてはいったんうちやりますがご容赦ください。

 私の「密教の師匠」であった私の祖母が曼荼羅について教えてくれたことがあり、そのときに、祖母はもちろん私が天文好きであることを知っているので、「星曼荼羅というものもある」と忘れないで付け加えました。説明は覚えていませんが、要するに、曼荼羅は仏教の宇宙図であるが宗教的で意味が取りにくい、でも、曼荼羅は空にある星との対応が取れる、と理解しましたので、まあまず適切な説明がなされたものと思います。それで、星曼荼羅をぜひ見たいと思いましたが、長い間写真すら見ることは出来ませんでした(そうでない曼荼羅は写真で見る機会がありました)。

 その後、大人になってから、星曼荼羅の写真と解説を見て、そこには惑星や黄道星座が描かれていることがわかりましたが、これを子どもの時に知っていたら東西天文学交流に感激して密教に関心を深く持つようになったかもしれません(密教好きの子どもになったとすると、ちょっと危ないようですけどね)。

 さて、曼荼羅は元来お寺にあるものと思います。それを玉青さんが、しかも星曼荼羅を持っていらっしゃるのは文句なしに「すごい!」と思います。しかし、旦那寺を持つ家の家族としては、それがどこかの同宗旨の寺から民間に放出されたものならばと考えてしまうところもあります(信仰上のことではなく、寺の経営の問題です)。または、印刷所から寺に渡らない民間流通経路があるのかもしれませんが、どうなのでしょうか。いずれにしてもこれもっぱらは宗教法人財政や業務用仏具流通に関わる問題なので、私もこんなところまで気にしていても仕方ないです。

_ S.U ― 2012年07月28日 13時35分36秒

上のコメントで、「印刷所」で製造と取れる意味のことを書いてしまいましたが、玉青さんのお持ちのものが肉筆画であったら失礼なことでしたので、その場合は「画家」に差し替えてください。

_ 玉青 ― 2012年07月28日 21時04分52秒

私は密教信者ではないので、この星曼荼羅も基本的には古美術品として向き合っていますが、元来が信仰の品なので、慎重に扱わねばならんと思っています。
この曼荼羅の出自そのものはまったく分かりませんが、その性格については記事の方に記しました。

それにしても、良い子ども時代を過されましたね。祖母と孫の会話を思い浮かべると、本当に何か映画のワンシーンを見るようです。(どうもS.Uさんの思い出話を伺う度に、そんな気がします。S.Uさんは確か以前、ご自分の郷里を「日本でいちばんつまらない町」だと子ども心に思っていた…と書かれていた記憶がありますが、ある意味では日本の原風景そのものなのかしれませんね。)

_ S.U ― 2012年07月29日 11時55分18秒

 星曼荼羅の普及状況についてご紹介ありがとうございます。だとすると、地域の農商の庶民が組合で買うこともあったのでしょうか。昨今は寺で見る機会もあまりありませんし、古物市場にもほとんど出ていないとすると、おおむねは寺に退蔵されているものと考えます。

 私の昔の話に原風景に通じる共感をいただいて下さるとは有り難い限りですが、私は今でもつまらない所でつまらない子ども時代を送ったという印象からぬぐえません。これという特殊な点がないのが原風景の要件なのでしょうが、それでも、習俗・宗教関係でイッパシの満足すべき体験談があるのはどういうことか、どこでもそうなのか特別な事情があったのかわかりません。
 つまらないけどその方面のテンションは高い所だったのかもしれません(それなら子どもにとってあまり有り難いことではないですね)。

 私の祖母は自分が学校時代に先生から聞いた話をいろいろ話してくれましたが、例によって孫が年寄りの話をちゃんと聞いておらず今日まで憶えていないことは遺憾です。

_ 玉青 ― 2012年07月29日 19時08分49秒

仏画の流出経路はどうもよく分かりません。
メジャーなところでは、廃仏毀釈の時期の流出ですが、それ以外にも不埒な坊さんがいて、檀家に無断で酒代に換えたりということもあったでしょうし、新調したついでに、古いものを性抜きして下取りに出したこともあったかもしれません。出所にしても、必ずしも寺院とは限らず、在家の篤信者や、いわゆる「講」のような寄り合いで誂えた品もあったことでしょう。(平安仏画のような優品は、江戸時代においてもすでに純粋な古美術扱いで、大名家の蔵に収まっていた例もあるそうです。)

>今でもつまらない所でつまらない子ども時代を送ったという印象

それほどまでにつまらなかったのか…とは、お話を伺う限りでは、とても思えないのですが、なかなかに強固な印象ですねえ。わりと淡々とした日常だったのでしょうか。

>つまらないけどその方面のテンションは高い所だったのかも

うーむ、私だったらそれだけで面白がれたと思うのですが、何といっても子どもは自分の故郷を選べないのが最大のネックですね。

_ S.U ― 2012年07月30日 19時44分23秒

>つまらない
他の地方のことはわかりませんので軽々にはいえませんが、一般に、大都市でもなく、僻地でもなく、交通の要衝や城下町の伝統があって、それなりに開けているところなのに古い因習が残っている...こういう土地は、傍から見ると良い土地に見えるのでしょうが、そこで育った青年から見ると夢や冒険がなかった、ということになるのかもしれません。

>私だったらそれだけで面白がれた
 そう言われると、これは一概に普遍化できず、子どもの性格によるのかもしれませんね。私は今以上のカタブツの理系少年でしたからそのように感じたのかもしれません。柳田国男の青少年期のような人だったら当然受け取るものも違ったでしょう。

_ 玉青 ― 2012年07月31日 06時28分21秒

なるほど、覇気のある理科少年が夢や冒険心を託すには、ちと因循の気(け)に富み過ぎていた…ということですね。そういう「小天地」は、一部の人には確かに住みやすいのでしょうが、奔放な少年にとってはあまりにも狭小で、飽き足らず思われることでしょう。
でも、そのことが逆に少年のモチベーションを高める場合もありますから、S.U少年の場合はどうであったか、なかなか容易に判断は下しがたいかもしれませんね。

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