「宿曜経」の話(1)…壮大なユーラシア文化交流史2012年07月16日 12時01分42秒

なんという暑さでしょう。

さて、前口上のとおりインドの話をします。(インドも暑いでしょうね。)
インドといえば天竺、天竺といえば三蔵法師、三蔵法師といえばお経を取りに行く…というわけで、お経のことを書こうと思います。

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紀元前後、ヘレニズム文化がインドに流入した際、ギリシャやオリエント世界の天文知識が、インド固有の文化の上に摂取され、それが中国を経由して日本にまで入ってきた…これは、東西の文化交流の1ページとして、広く知られていいことだと思います。

アクエリアスがどうとか、ホロスコープがどうとか、西洋占星術の知識は(それは古代にあっては天文学と不可分でしたが)、近代以降のものかと思いきや、平安時代の日本にも既にしっかり根を張っていた…というのは、私もよくは知りませんでしたが、事実はそうらしいです。

インド、中国を経て日本に伝わった天文知識は、端的に「お経」の形をとっていました。
その名は「宿曜経(すくようきょう)」。

(延宝9年(1681)開板の「宿曜経」版本)

最終的に成立したのは764年で、経典としては後発です。
日本へは、それからあまり間をおかず、弘法大使・空海によって806年に招来されたのが最初で、日本ではもっぱら密教の一分科として理解されたようです。

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私がその名を知ったのは、中学だか高校のときに読んだ、諸星大二郎の漫画 『暗黒神話』の中で、そのせいでこのお経には非常におどろおどろしいイメージがありました。

(すみません、ネット上から適当にひっぱってきました。)

「暗黒神話」は、日本の古代神話(スサノオとか、ヤマトタケルとか)と、仏教的宇宙観が奇妙にまじりあった伝奇作品で、その中に「参(しん)は猛悪にして血を好み、羅喉(らごう)は災害を招(よ)ぶ」という一節が出てきます。
物語全体のカギを握る武内老人(武内宿禰-たけのうちのすくね-の仮の姿)は、この文句を引きながら、「この宿曜経の言葉にすべての秘密がある。〔…〕参とは古代オリオンの三つ星を指す言葉じゃ」と、奇怪な一連の出来事の謎解きをします。

(話の着地点が見えぬまま、この項つづく)

※本項では、主に下記を参照しました。
 矢野道雄(著)『密教占星術―宿曜道とインド占星術』、東京美術、昭和61
 (題名が怪しげですが、別に占いの本ではなくて、学問的著作です。)

「宿曜経」の話(2)…参(しん)は猛悪にして血を好むか?2012年07月18日 05時40分21秒

濃い青空、真っ白な雲、そして蝉の声の季節がやってきました。
それにしても暑いです。カルピスを飲んで、乗り越えねば。

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さて、諸星大二郎の「暗黒神話」を話題に出しましたが、あれから35年目にして知った驚きの真実。

それは、「宿曜経」の中に、「参(しん)は猛悪にして血を好み、羅喉(らごう)は災害を招(よ)ぶ」という、肝心の文句は出てこない、ということです。

(宿曜経上巻、「参」についての記述)

諸星作品に深い影響を受けた者として、にわかに受け入れがたいことですが、これは他の書籍からの引用か、あるいは諸星氏の純粋な創作に違いありません。




宿曜経に書かれているのは、単に「月が“参宿”(しんしゅく)にある日は、血を食べる日だ」という生活規範(※)と、「“参宿”の下に生まれついた人は、性格が猛悪(=乱暴)だ」という性格占い的な記述だけです。何かおそるべき神秘的事実が、そこで説かれているわけではありません。

(※)これはまがまがしい意味ではなく、ブラッドソーセージのような、現実のインドの食生活を反映した表現だと思います。宿曜経は、月の天球上の位置に応じて、日替わりで「果物を食べる日」とか、「乳粥を食べる日」とかを定めています。

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さらに羅喉(らごう)にいたっては、宿曜経にはその名前すら出てきません
(羅喉は、日月食を引き起こす魔物。その正体は諸説ありますが、天球上の月の軌道(白道)と太陽の軌道(黄道)が交わる点を、一種の「仮想天体」とみなして神格化したのだろうという説が有力です。)

(羅喉。矢野道雄前掲書より。矢野氏は「らこう」と澄んで読んでいます。)

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とどめは、作中の武内老人の言葉とは違って、参(しん)はオリオンの三つ星を指すのではないという事実。こうなると、「暗黒神話」のストーリー自体、崩壊に瀕してしまうので、ファンとしては複雑な思いです。

もちろん、東洋天文学史に関心のある方ならば、「え、参って三つ星のことでしょう?」と思われると思います。たしかに中国星座で言うところの参は、三つ星を指すのですが、宿曜経に出てくる参は、同じオリオン座でも、ベテルギウスを意味するそうです。
その証拠に、宿曜経では「参は一星、形は額上の点の如し」(参は一つの星から構成されており、その形はインドの人の額に見られる点のようだ)と解説されています。

なぜこんなことになったかというと、1日ごとの月の天球上での位置を示す「宿(しゅく)」の考え方は、中国でも、インドでも古くからあって、それぞれ独自に星座を当てているのですが、インド天文学を中国語に翻訳する過程で、位置的に一番近い中国星座を当てたために、実際には「同名異体」となっている例が多いのです。

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なんだか話が枝葉に入って、宿曜経そのものについて何も書いてないですね。
その辺のことを次回書ければと思いますが、あまり分からず書いているので、自信はありません。

それにしても、「暗黒神話」にはやられた…。

(この項弱々しくつづく)

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!2012年07月21日 20時58分00秒

もろもろ仕事に追われて、なかなか記事が書けません。
宿曜経の話題もちょっと間延びしてきたので、簡潔にいきたいと思います。

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宿曜経は「経」とはいっても、釈迦の説いた仏説ではありません。
文殊菩薩に仮託して、当時のインド占星術の基礎知識を説いたものです。そもそもインドに原典があったわけでもなく、インド出身の僧・不空が、自らの星占いの知識を口述し、それを中国人の弟子が文字に起こしたものだと言われます。したがって、内容は仏教教理とはほとんど関係がありません。

(宿曜経上巻 冒頭)

ここで話の眼目は、果たして宿曜経の中に、西方(ギリシャ、オリエント世界)の天文知識がどの程度含まれており、それが平安時代以降の日本にどう摂取されたか、という点です。(以下は矢野道雄氏の『密教占星術』からの受け売りですが、一部私の勝手解釈がまじっています。)

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まず、宿曜経の背景となっているインドの占星術には、以下の2要素が含まれているとされます(さらに宿曜経の成立以降に、イスラム系の要素も混入)。

(1)ヘレニズム(注1)以前のインド固有の要素
(2)ヘレニズム以後の西方系要素

宿曜経の内容を、この考えに沿って区分すると、インド固有の要素とは、白道(=月軌道)上に設定された十七宿(または二十八宿の観念であり、この「宿」の観念は、古代文明ではインドと中国だけに見られ、ギリシャやバビロニアの文献には登場しないそうです。

そして、西方系要素とは、黄道(=太陽軌道)上に設定された十二宮(いわゆる黄道十二星座)や、7日周期で各日を支配する七曜(月火水木…)」の観念、あるいはホロスコープ作りに欠かせない十二位の考え(注2)などです。

(矢野前掲書、p.18)

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星占いでいう十二宮と黄道十二星座は、今では位置がずれてしまっていますが、まあ元は同じものです。さそり座とか、いて座とか、みずがめ座とか聞くと、何となくエキゾチックな感じがしますが、平安時代の人は既にその存在をよく知っていました。

(John Players & Sons のシガレットカード、1916年)

また「今日は日曜日、明日は月曜日、その次は火曜日…」という曜日の観念も、明治になって入ってきたわけではなく、平安時代の暦にはちゃんと書かれていました。(当時、日曜日のところには「蜜」と書かれていました。蜜の語源は太陽神ミトラです。)

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宿曜経によって開かれた、西方の天文知識への扉は、その後も拡大を続けました。
たとえば、宿曜経の伝来から約60年後、865年に密教僧の宗叡(しゅうえい)が中国から招来したお経に、都利聿斯経(とりいっしきょう)」という経典がありました。あるいは、それと関連して「聿斯四門経(いっししもんきょう)」というのもありました。

ここで「ありました」と過去形で書くわけは、現在では、いずれもその題名だけが伝わり、本文は失われているからです。しかし、平安時代の宿曜師にはよく読まれたものらしいです。

矢野道雄氏は、この経典の背後に、かのプトレマイオスが著した『テトラビブロス』の影を見ます。『テトラビブロス』は、2世紀半ばに成立した、「占星術の聖書」とも呼ばれる、ギリシャ占星術の根本文献です。

プトレマイオスの名は、英語読みだとトレミーとなるように、語頭のPが脱落しやすいので、この「都利聿斯(とりいっし)」とは、ずばり「プトレマイオス」のことであり、「四門経」とは「テトラビブロス(四つの書、の意)」の訳だろうと矢野氏は述べています。
まあ、これは氏自身“反論を期待する仮説”と述べられているので、まだ定説とはなっていないのでしょうが、実に魅力的な説です。

かりにそうだとすれば、「平安時代の人はプトレマイオスを知っていた!!」ことになり、まさに「モーゼは日本で死んだ」並みの衝撃です。ともあれ、王朝期の日本人が、予想以上に「西洋かぶれ」だったのは確かだろうと思います。

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宿曜経に発する占星の法は、その後、他の技術も吸収して「宿曜道」として大成されるに至りましたが、その内容は終始一貫、暦占の術にとどまり、観測天文学が日本で独自に発展する機運はついに芽生えませんでした。

なぜか?というのは、日本独自の学問システム、中国文化との関係、日本人の思考パターン、当時の世界情勢、観測・計算に要する技術的前提、等々いろいろな角度から説明できそうですが、これはまた宿曜経とは別の話題でしょう。



(注1) ヘレニズム時代とは、紀元前4世紀~紀元前後、アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシャ、エジプト、ペルシアの古代文化圏を包摂する一大帝国が作られ、東西文化の融合が進んだ時代です。ヘレニズム文化は、その後もキリスト教やイスラム教が文化的支配力を発揮するまで、地中海周辺世界で力を持ち続けました。

(注2) 占星術では、特定の日時における太陽・月・五大惑星(水金火木土)の位置を見ていろいろ運勢を占うわけですが、ここでいう「位置」には2つの意味合いがあります。1つは天球座標上での位置です。たとえば「そのとき、太陽は獅子宮、月は蟹宮にあって…」というような。もう1つは地平座標による位置です。たとえば「そのとき、木星は東の地平線上にあって、月は南中直前で、太陽は地面の真下にあって…」というような位置です。「十二位」とは、後者の意味合いで位置を表示するための方法です。具体的には、黄道と東の地平線との交点(これは同じ日でも時刻によって変わります)を基準にして、黄道を十二等分して一位~十二位を定めています。

マルセイユ自然史博物館2012年07月22日 20時47分40秒

このあとも密教の話題が怪しくつづく予定ですが、いずれにしても理科趣味とは縁遠い話なので、この辺でちょっと一服して、別の話題をはさみます。

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季節柄、海にちなんで、潮の香りがただよう南仏マルセイユを訪ねることにしましょう。
↓は、マルセイユの自然史博物館の館内。1910~20年代の古絵葉書です。


同博物館は、モングラン侯爵、ヴィルヌーヴ=バルジュモン伯爵といった旧貴族の肝いりで1819年に創設され、もうじき創立200年を迎える、由緒ある博物館です。現在の場所(ロンシャン宮)には、1869年に移転してきました。

そのコレクションの核となったのは、同地に18世紀からあった「キャビネ・ド・キュリオジテ」すなわち「驚異の部屋」であり、その後、19世紀フランスにおける博物館ブームの追い風を受けて発展した…というようなことが、下の公式サイトには書かれています。
大英博物館もそうですが、ここも古いヴンダーカンマーから、現代的な博物館が生み出された歴史を体現している施設の1つなのでしょう。

マルセイユ自然史博物館 公式サイト
 http://www.museum-marseille.org/

さて絵葉書に戻ります。
建物の造作が全体にイタリアっぽいのですが、フレスコ画風の壁画にも、ちょっとイタリア趣味を感じます。しかし、その画題がいかにも珍妙。キャプションを見ると、「哺乳類総合コレクションおよび古生物学コレクション」とあって、この部屋の主題を表現しているのだと分かりますが、うーん、何というか、実に味のある絵です。

そして肝心の展示が、これまたすごいですね。
剥製&骨&化石のオンパレードですが、その展示密度が尋常ではありません。これだと、陳列ケースの間を人がすれ違うこともままなりません。これは「見せる」ことよりも、むしろ「見せつける」ことに主眼があるとおぼしく、この点において、この展示は(おそらく展示者の意図を超えて)ヴンダーカンマーへと先祖返りしているようにも見えます。

天の河原に流れるものは…2012年07月23日 23時16分34秒

(今日は字が多いです。)

昨日の記事にいただいた、S.U氏のコメントに触発されて、以下の本を手にとりました。

五来重(ごらいしげる)著、『増補 高野聖』、角川書店、昭和50


で、これを読んでいて、おや?と思ったことがあるので、忘れないうちにメモしておきます。以下は、高野聖と踊念仏との関係を説いた章節からの引用です。

                *  *  *

 「京都の右京区大原野の石見上里(いわみかみさと)の六斎念仏には「高野聖」という一曲がある。また北近江塩津の集福寺の花笠踊(ちゃんちゃこ踊)にも「ひじり踊」があるが、その文句は三河鳳来町の大念仏放下(放下大念仏踊)の小唄の「流れ聖」とおなじである。

  大天竺の 天の河原で
  ひじりが三人 流れた
  まず一番に 鉦と撞木と
  二番に 笠が流れた
  三番に 笈が流れて
  四番に その身が流れた
  そういうことが 高野へ知れて
  さぞや弟子衆は なげくらん
 (『鳳来町誌』文化財篇)
 
 さっぱり意味のわからない唄であるが、群行の高野聖がなにかの災害で、溺死した事件をうたったのかもしれない。」 (五来上掲書、pp.276-7)
 
               *  *  *

たしかに、「マザーグースのうた」のような、不可解で謎めいた歌です。ちょっと不気味な感じもあります。五来氏は、何か現実の事件を背景にした歌と想像されたようですが、「天の河原」とあるところからすると、これは一種の星辰信仰を背景にした歌ではないか…というのが、今日の私の駄ボラです。(いつものように話半分に聞いてください。)

「天の川のほとりで流された三人のひじり」と聞いて、ただちに連想するのは、野尻抱影が採録した「さんだいしょう(三大星)」、「さんだいしさま(三大師様?)」のことで、これはオリオンの三つ星を指す民俗語彙です。

曲の方は、まず鉦と撞木が、次いで笠が、さらに笈が流れて、最後に3人のひじりが流されたと歌います。ひじりたちが並んで三つ星になったとしたら、彼らが身につけていた鉦と撞木、笠、笈の「3点セット」はどうなったかというと、これは当然「小三つ星」になったのでしょう。探せば、実際にそういう説話・伝承があったような気がしてなりません。

そして、「そういうことが高野へ知れて、さぞや弟子衆はなげくらん」とありますから、ここには、真言系の三つ星を祀る信仰が反映されていると想像されます。

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インターネットは便利なもので、上の類歌を探すと、すぐに次のような例が見つかりました。遠く九州は鹿児島の甑島(こしきじま)に伝わる盆踊り歌です。

「甑島ヤンハ」(下甑)
☆奥山から ちろちろするのは 月か星か蛍か
 お月様なら拝み上げます 蛍虫ならお手に取る ヤンハ
☆天竺の 天の河原に 赤い赤子を流して 
 その赤子に成育さすれば 親の教えんことをする ヤンハ
(出典「九州の盆踊り唄その2」
http://sky.geocities.jp/tears_of_ruby_grapefruit/minyou3/kyushu01.htm

これまた謎めいた歌です。
一番で「月か星か蛍か」と問いかけながら、以下「月と蛍」のことしか言及していません。当然「星」については、二番で歌われている内容がそれなのでしょう。

ここでも、天竺の天の河原で人が流されるのですが、それは「赤い赤子」だと言います。これが「赤い星」の隠喩だとすれば、さそり座のアンタレス、おうし座のアルデバラン、オリオン座のベテルギウス、それに火星などが候補に思い浮かびます。
その赤子は、大きくなると「親の教えんことをする」というのですが、これは何かよこしまな、凶星としての性格をうかがわせます。

上の三つ星からの類推で、これまたオリオンのベテルギウスを指すとすれば、それこそ諸星大二郎ばりに、「参は猛悪にして血を好む」とかなんとか持ち出して、話をふくらませることもできるのでしょうが、今のところは「何となく星に関する伝承を歌いこんだ曲らしいが、詳細は不明」としか言えません。

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もう一つ例を挙げると、山梨県の旧秋山村に伝わる「無生野の大念仏」という、これまた踊念仏系の民俗芸能があります。その詳細は、写真入りで、以下のウィキペディアのページに紹介されています。

無生野の大念仏 http://tinyurl.com/cjaefp2

大念仏踊りが演じられるのは、「道場」と呼ばれる周囲から一段高くなった場所です。その中央には親柱を、四隅には小柱を立て、親柱から小柱へ向けて張られた4本の縄には、それぞれ7本ずつ、合計28本の御幣を下げます。これは二十八宿を表しているとされるので、この道場は明らかに天空世界の表現であり、この大念仏が星辰信仰の影響を受けていることは明らかです。

念仏踊りの演者は、踊りに先駆けて、まず次の文句を唱えます。

「天竺の天の河原の水絶えて、水なき里にからちりちょうずをわが身にかけて、あぴらうんけんそわか」

ここでは上の類歌とは違って、「天竺の天の河原」には水が絶えています。
これはいわば異常な事態と言えますが、この念仏踊りのテーマは、この異常な事態を回復することにあるように見えます。というのも、この無生野の大念仏は、通常の念仏踊りのような「死者供養」とか「後生祈願」ではなしに、「病気平癒」を目的としているからです。

それを示すのが、大念仏のクライマックスにある、「ぶっぱらい」と呼ばれる、一種の舞い事です。これは、布団をかぶった病人役の上を、囃子に合わせて複数の演者が次々に飛び越え、最後に青竹の棒で、掛け布団を素早く払い除けるという所作です。病人役がたまらず寝具から離れ(=象徴的治癒)、「病気引取り」の祈祷を行ったところで、大念仏の儀式は無事終わります。

これは、あるいは岩戸開きの神事がベースにあったのかもしれませんが、この「病気平癒の祈祷」に込められているのは、通常の病気などではなく、天空の異常現象をなだめ、正常な状態に復することを祈願する意図だったとは言えないでしょうか。

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こういう「トンデモ素人考証」は、いくらでも続けられますし、続ける方はなかなか楽しいですが、読まれる方はウンザリでしょうから、とりあえずこの辺でお開きにします。
この件で、何か耳より情報があれば、お教えください。

星と東方美術2012年07月25日 20時41分58秒

話が理科趣味からどんどんアウェイになっていきますが、天文趣味からはそれほど遠ざかるわけではありません。
なんといっても、御大・野尻抱影その人が、晩年に仏教美術と天文趣味を融合させた『星と東方美術』(恒星社厚生閣、1971)を上梓しており、星好きとして、大手を振ってその跡を慕うことができるからです。


抱影の仏教美術への関心は、京都・奈良から吉野・高野まで巡歴した中学生時代にさかのぼるので、天文趣味と同じぐらい年季が入っています。しかし、星の和名の収集に続いて、星と仏教美術との関係に取り組むようになったのは、戦後もずっと経ってからのことのようです。星の翁も、齢を重ねるとともに、自然と仏臭いものに惹かれたのでしょうか。今の私もちょっとそんな気分かもしれません。

ちなみに、この本の「あとがき」は、抱影の実弟・大仏次郎が書いています。抱影の本に彼が文章を寄せたのは、これが最初で最後だそうです。二人とも、このテーマに何か感じるものがあったのでしょう。

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と言いつつも、私はこの本を積ん読状態のまま、ずっと放置していました(パラパラ見た程度)。今日、改めてページを開いたのですが、先日の宿曜経の話題をはじめ、これはもうちょっと早く読んでおけば良かったなあ…と思いました。

とりあえず、以下目次です。

はしがき
1 北辰妙見菩薩巡礼
2 薬師寺本尊台座の四神像
3 朝鮮陵墓の四神像
4 七星剣の星文考
5 求聞持〔ぐもんじ〕虚空蔵と明星
6 法隆寺の星曼荼羅
7 インドの九曜と星宿
8 聖徳太子絵伝の火星
9 南極老人星
10 道教美術の星辰像
11 海神天妃媽祖〔まそ〕
12 璿璣〔せんき〕と天文玉器
13 古代インド二十八宿名考
14 敦煌の古星図
あとがき 

さて、この本の中で、抱影がもっとも紙幅を割いているモノについて、これから述べようと思いますが、これは十分もったいぶる価値があるので、次回にまわします。

真打登場…星曼荼羅2012年07月27日 05時43分43秒

(一昨日のつづき)

私の部屋にはモノがいっぱいありますが、人様に向かって「どうだ!」と誇示できるものはほとんどありません。しかし、ほとんど無いながらも、ちょっとはあります。
今日はその「どうだ!」の品を出しますので、嘘でもいいのですごい!」と言ってください。

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それは星曼荼羅です。
いかに星好き、古玩好きの人でも、星曼荼羅の現物を所持している人は少ないと思うので、これはやっぱり「どうだ!」となるのです。
 
(床の間にかけて撮影すればもっとサマになるのですが、とりあえずいつもの本棚の前に掛けてみました。)

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一昨日の本の中で、抱影が最も鑑賞と考証に力を注いだのが、「法隆寺の星曼荼羅」です。以下、翁の文章を引いて、星曼荼羅の概説に代えます。(以下、『星と東方美術』p.73 より)

 〔…〕星曼荼羅は一に北斗曼荼羅ともいう。平安時代から盛んになった密教 ― 天台宗、真言宗のとくに後者の最大秘法、北斗法で、除災・福徳・延命の祈願に懸けた図幅である。

 インドではごく古くから、十二宮、二十八宿および九曜の星占が発達していた。北斗については、正法念経に、「外道、北斗七星と謂う。…北斗七星の常に現るるを見、この星よく一切の国土を持すると謂う。如実を知らず」とある。

 中国における北斗七星の信仰は五行説にもとづくといわれる。密教は星占による加持祈祷を重点とするので、インドの星占に中国の北斗信仰や初期の天文知識を習合して、星を神格化した曼荼羅を作成した。北斗曼荼羅といわれるのも、この七星の神々が北極北辰の座を中心として天を周り、陰陽四時を定め、九曜(日、月、七星)の神々を支配し、人間の運命を主るものと信ぜられたからである。

 要は釈迦を中心に、北斗七星(これは中国起源の信仰に基づきます)や、インド伝来の十二宮、二十八宿、太陽・月・諸惑星を配して、それを一枚の図像で表した「一大星絵巻」です。

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この星曼荼羅を手に入れるまでには、長い前史があります。
昔…というのは10年ぐらい前ですが、ネット上で星曼荼羅の残欠が売られているのを見ました。興味深くは思いましたが、そのときはまだ「普通の天文趣味人」だったので、それほど食指は動きませんでした。しかし、その後「天文古玩趣味」に開眼すると同時に、「あれはすこぶる貴重なものだったのではないか…?」と思えてきました。が、時すでに遅く、例の残欠はとうに売れてしまっていましたし、その後は探しても探しても、星曼荼羅の現物に出会うことはついになかったのです。

その後も思い出すたびに探索を続け、やっと出物を見つけたのは昨年秋のことです。
そのときの驚きと喜びは、ちょっと言葉にしにくいです。

覚えている方もおいででしょうが、昨年10月、「京都博物ヴンダー散歩」と称して、益富地学会館や島津創業記念館、京大総合博物館、Lagado研究所さんを巡歴したことがあります。実は、あのときのメインの用務は、この星曼荼羅の現物を確認し、購入することにあったのです。(10月26日の記事を読むと、「島津創業記念館を後にし、祇園北の骨董街で用を足してから、京阪鴨東線に乗り込み…」と、こっそりそのことが紛れ込ませてあります。)

(この項つづく。以下、曼荼羅の細部を見ていきます。)

星曼荼羅(その2)2012年07月28日 20時52分18秒

星曼荼羅について話の続きです。

(曼荼羅の中央に座す釈迦と、釈迦を守護する人面蛇身の竜王)              

星曼荼羅がどのような場面で使われたか、いわばその「機能」についてですが、これは密教の儀式である「北斗法」の際に、本尊として祀るのだと、諸書には書かれています(昨日の抱影の文章にも、そうありました)。

では、北斗法(北斗尊星王法、または北斗護摩とも)とは何ぞや?というのを、改めて中村元博士の 『仏教語大辞典』 から引いてみます。

北斗法   密教で北斗七星を本尊とし、息災または天変地妖を除くために修する密法。平安時代のころ、大原僧都長宴が、加陽院で修したのに始まり、以来、東密でも台密でもこれを行った。」

なんだか仰々しいですが、近世以降は庶民信仰のレベルで盛んに行われたらしいです。平たく言えば「開運厄除け」のための儀式であり、今でも、真言宗を中心に、節分の晩に星祭り(星供・ほしくを行う寺院がたくさんあって、信者でにぎわっているようです。いわゆる「星回り」を良くするためのご祈祷というわけでしょう(この辺の説明は、あるいは正確さを欠くかもしれません)。星曼荼羅は、その際、祈祷壇の正面に掲げられたものです。

(星供壇の荘厳形式。正面に曼荼羅を掲げ、幡を立て、銀銭を供える。岩原諦信著『星と真言密教』・東方出版より)

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末寺での需要がそれなりにあったので、星曼荼羅にも「量産型」が作られたと想像します。手元にある星曼荼羅がまさにそれで、近づいて眺めてみると、線は墨版で、その上から手彩色していることが分かります。

(絵師の北村桃渓については未詳)

金彩を施したり、それなりに細かい細工はしてありますが、基本的には「普及版」なのでしょう。素材も、中回しは織地ですが、それ以外は本紙・表装ともに紙です。時代的には江戸時代後期と見て、ほぼ間違いないでしょう。

(長くなりそうなので、ここで記事を割ります。この項つづく)

星曼荼羅 (その3)2012年07月29日 17時53分16秒

ここで星曼荼羅の構造を確認しておきます。

そもそも星曼荼羅の様式には、大別して2つの型があります。
1つは諸尊を<方形>に配置した「寛助(かんじょ)系星曼荼羅」で、我が家にあるのは、こちらになります。
もう1つは、諸尊を<円形>に配置した「慶円系星曼荼羅」で、抱影が注目した法隆寺のものはこちらに属します。

(方形と円形の星曼荼羅の遺品。左は延暦寺旧蔵で、現在は宮内庁所蔵、右は法隆寺蔵。 林温著『妙見菩薩と星曼荼羅』(日本の美術377)、至文堂、1997より)

「寛助系」の方曼荼羅は、香隆寺寛空が天暦年間(947-956)に創案し、その4代後の弟子にあたる、成就院寛助(1056-1125)が整備したもの。
他方、「慶円系」の円曼荼羅は、天台座主慶円(944-1019)が創始したものです。
一般には、方形のものが東密系(=真言宗;東は東寺のこと)で、円形のものが台密系(=天台宗)とされています。

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見た目の印象は違いますが、両者の基本構造は同一です。
まず最外周(我が家のものだと緑に塗られた部分)には二十八宿が描かれ、その内部(同じく朱色の部分)に十二宮、さらにその内側に北斗七星九曜、そして中心部に釈迦(一字金輪仏頂)がいるという構造です。
(ただし方形では、釈迦の足下に北斗を置き、他の九曜が釈迦を取り巻いているのに対し、円形では釈迦の頭上に北斗があって、足下に九曜が配置されているという違いがあります。)


改めて、わが家の星曼荼羅の上半分↑と下半分↓のアップです。

(北斗七星の脇に、ちんまり輔星のアルコルがいるのが見えますか?)

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星好きの人がいちばん興味を持たれるのは、黄道星座の図像表現でしょう。
手元のものを左上から反時計回りに見ていくと、以下の順になっています(カッコ内は現行の星座名と漢名)。

魚宮(うお、双魚)、羊宮(おひつじ、白羊)、牛宮(おうし、金牛)、夫婦宮(ふたご、双子)、蟹宮(かに、巨蟹)、獅子宮(しし、獅子)、女宮(おとめ、処女)、秤宮(てんびん、天秤)、蝎宮(さそり、天蝎)、弓宮(いて、人馬)、磨羯宮(やぎ、磨羯)、瓶宮(みずがめ、宝瓶)

だいたいは西洋星座の表現と一致しますが、双子座が夫婦に、山羊座が怪魚の姿になっており、また射手座が単なる弓矢で表現されている点が違います。
それ以外の星座も、個々の絵を見ていると、何だか不思議な気がしてきます。そもそも西洋を連想させるものが、お釈迦さまと同居しているのが、奇妙な感じです。

(緋鯉のような魚座)
(魔法の壷のような水瓶座)

しかし、そこで感じる奇妙な感覚こそ、古代の汎ユーラシア的な文化交流が中世に入って途絶し、我々の先祖が長期にわたって文化的孤立状態で生きてきたことの証しなのでしょう。

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宿曜経の話から始まったこの話題も、この辺でそろそろ一区切り付けねばなりません。
この件ではまだまだ紹介したいモノもありますが、それはまた折をみて取り上げることにします。

無限の時、夢幻の出会い2012年07月30日 06時10分28秒

曼荼羅から一転してコミックの話題です。

最近、朝日新聞の読書欄で紹介された『シリウスと繭』の第1巻。
作者の小森羊仔(こもりようこ)さんにとっては、初の単行本だそうです。
天体観測の場面が出てくるというので、この本を手にとってみました。

   ★
 
(コミックカバーより。左から繭子、ハル、メグ)

物語の舞台は、坂が多く、星がきれいな町です。主人公は高校3年生の永野繭子。移りゆく季節の中で、彼女とクラスメートの北見晴(ハル)、そして繭子の親友・笹原芽美(メグ)の交感が、静かに綴られていきます。

ハルは、ときどきポータブル望遠鏡をかついで星見に行く天文好きの少年で、将来は自分の手でプラネタリウムを作ることを夢見ています。その夢は、幼い頃に亡くした父親の思い出とつながっており、そのことが彼のキャラに、ちょっと影のある、無口で大人びた性格を付与しています。

第1巻のストーリーは、高校3年の夏から始まり、翌年の早春、3人がそれぞれ別々の進路に踏み出すところで終わります。
ハルに苦手な勉強を教えてもらったことから、彼を意識するようになった繭子(そのときハルから恒星シリウスの話を聞き、彼女はハルとシリウスを重ねて見るようになります)。以前からハルに思いを寄せていたメグは、二人が徐々に距離を縮めていくのを、複雑な思いで眺めます。3人とも基本的に「いい人」なので、そこに切ない心のあやが生じます。

要は淡い恋物語なんですが、何なのでしょう、この全編を満たすかなしさは。
繭子とハルの恋は、時間とともに進展するのですが、その先には高校卒業という「終末」が控えており、そこに一種の無常感が漂っている感じです。

作中での繭子のモノローグ。

  退屈な授業や
  他愛のない会話
  わずらわしい校則
  夏の暑さ 冬の寒さ
  いつかは忘れてしまう時が来る事を
  きっと心の何処かで知りながら生活していた
  …いつか全てと「さよなら」をする時が来るという事も

思うに、これは人生そのものです。
仮に繭子とハルの2人が結ばれ、長く人生を共にすることになったとしても、それでハッピーエンドではなくて、やはりいつかは終わりが来る。人はみんなそのことを知りながら、気付かないふりをして生きているのだとも言えますが、この作品はそれを可視化したものだという気がします。

   ★

「最初に別れありき」というテーマは、同じ作者の短編「きみが死んだら」では、より徹底しています。そこで恋人たちに残された時間は、わずかに3日間。それがなぜかは、作品↓をお読みいただきたいですが、そこでも主人公の女性は、彼氏と身体を重ねながら、心の中で呟きます。

小森羊仔 「きみが死んだら」
 (集英社 2010年度「金のティアラ大賞」銀賞受賞作品)
 http://www.shueisha.co.jp/tiara-award/flash/book.html?list_num=04&title_name=kimiga_shindara

  残されている寿命が あと60年あるとしても
  わたしはそれを短過ぎると駄々をこねる
  残りが3日でも 60年でも
  もっと一緒に居たいって言うの
  あなたが生まれて初めて出会った
  恋をした女の子がわたしで
  それからずっと一緒に居られていたら
  そんなことばかり考えて 眠りにつくんだ

たとえ3日が60年に伸びても、別れの苦しみは変わらないし、反対に60年分の思いを3日間に詰め込むことだってできないわけではない。

   ★

「繭とシリウス」は、その繊細な自然描写においても出色です。
蝉が死に、トンボが交尾し、鈴虫が鳴き、クモの巣に冷たい雨粒が光り、雪虫が飛び…
虫たちの生と死、季節のめぐり、星のめぐり。
そこに展開する、ヒトの出会いと別れ。

この作品を読むと、ヒトの有限性に根ざす、心の中の「根源的寂しさ」といったものが、呼び覚まされる感じがします。と同時に、永遠というものを作者が見据えていることも、また確かだという気がします。いや、むしろ作者が言いたいのは、永遠は一瞬であり、一瞬は永遠であるということでしょうか。

本当は、主人公は高校生のカップルでも、年老いた夫婦でも、親子でも、きょうだいでも、誰でもよかったのかもしれません。それだけ普遍的なテーマだと思います。


(…と大上段に論じましたが、実は作者の小森さんが描きたかったことは全然別で、「切なくピュアなラブ・ストーリー」(カバーより)以上でも以下でもないのかもしれません。しかし、たまたま今の私が読んだら、上のように感じたということです。)