実験の時間(2)2012年08月23日 21時17分02秒

昨日につづき化学実験室の光景です。

↓は鳥取高等農林学校の農芸化学科生徒実験室。同校は現在の鳥取大学農学部の前身です。ただし、同校は名称の変更がひんぱんにあって、「鳥取高等農林学校」を名乗ったのは昭和17年(1942)から19年(1944)までのごく短期間ですから、この絵葉書もその頃のものと知れます。


昭和10年代における、高等教育機関での化学実験の実習風景がよく分かる絵葉書。
設備自体は、昨日の大正時代のものと大差ないように見えますが、そこには20年の時代差がありますから、さすがに写真に撮られるというだけで緊張するようなこともなく、学生たちはみな自然体で、いそいそと器具を操作しています。
(…しかし、当時の絶望的な世情を考えると、はたしてここに写っている若者のうち、はたして何人が無事戦時下を生き伸びることができたのか、胸が詰まります。)

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ところで、「高等農林学校」つながりで言うと、宮沢賢治が学んだ盛岡高等農林の実験室もこんな有様だったのかなあ…と、なんとなく画面に賢治の面影を探してしまいます。

賢治が盛岡高等農林に入学したのは大正4年(1915)。
彼は「農学科第2部」に籍を置き、土壌学の権威・関豊太郎教授に師事して、『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』という論文を提出して、大正7年(1918)に卒業しました。彼はつづけて研究生の身分となり、さらに2年間研究生活を続けましたが、この大正7年に、農学科第2部は「農芸化学科」に改称したので、四半世紀の隔たりがあるとはいえ、上の絵葉書はますます「賢治の学校」っぽく見えるのです。

それに調べてみると、当時(1936-1944)鳥取高等農林の第2代校長をつとめた岡村精次氏は、その直後に、盛岡高等農林の第6代校長に転じており、両校はまんざら縁がないわけではありません。

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そんなこんなで、賢治本をパラパラめくっていたら、本物の賢治の化学実験室の写真を見つけました。

(農学科の化学実験室風景。 出典:『写真集 宮澤賢治の世界』、筑摩書房、1983)

赤い矢印を付けたのが賢治、中央白衣の人物が恩師の関教授でしょう。

ちなみに農芸化学とは、ウィキペディアの記述を引っ張ってくると、土壌や肥料に関する研究、農薬に関する研究、それに発酵や醸造に関する研究を包摂する学問のようです。まさに賢治の真骨頂を示す分野。

コメント

_ S.U ― 2012年08月24日 07時48分46秒

鳥取、盛岡の高等農林での使用法を見る限り、各机の棚は、種々のカラの容器を置いておく場所のようですね。どれくらい便利だったかはわかりませんが、実験班ごとに容器の洗浄や管理の責任に持たすためには有効だったかもしれません。

_ 玉青 ― 2012年08月24日 22時16分17秒

なるほど。
一連の写真は「研究目的」ではなく「教育目的」の設備ですから、そんな意味合いがあったのかもしれませんね。
1つ前の記事にもコメントをいただきましたが、この辺は化学屋の方(が読者にいらっしゃるかどうか定かではありませんが)のご意見も待って、ぼちぼち考察を続けることにいたしましょう。

なお、こういう多層式の付属棚は外来起源のもので、下の絵葉書に出てくるようなものが、その祖形ではないかと思います。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/11/21/5524184
これぐらいガッチリしていれば心丈夫なんですが、どうも日本のものは華奢ですね。

_ S.U ― 2012年08月24日 23時50分37秒

>化学屋の方
 そうですね。化学の方のコメントを待つことにいたしましょう。

 でも、今日の済美学校の神々しいような写真を拝見して思ったのですが、実験や観察は、机や容れ物ではないですね。当たり前のことですが、これらは枝葉末節です。一に工夫、二に根気、三四がなくて、五に技倆と言ったところでしょうか。

_ 玉青 ― 2012年08月28日 20時28分10秒

おお、至言なる哉!
日々実験に携わる方にとってはまさに然り(…と拝察)。
まあ、「天文古玩」趣味に関しては、枝葉末節に徹底してこだわるところに妙味もありますので(笑)、その辺はどうぞお目こぼしを。。。

_ S.U ― 2012年08月29日 07時32分24秒

はい。「『枝葉末節』と見られる事象をも見逃さず研究対象にするべし」、これも、実験・観察の極意と存じます。

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