天地明察アゲイン…渋川春海の時代の望遠鏡を考える(2)2012年11月05日 21時21分24秒

昨日の段階では、「前編、中編、後編」でまとめようと思いましたが、どうも先行きが不透明なので、「(1)、(2)…」に修正します。

   ★

さて、渋川春海(1639-1715)による改暦事業をテーマにした「天地明察」。
映画は未見ですが、若い頃の印象的なエピソードとして出てくる、全国を回って天の北極高度(すなわち、その地点の緯度)を測定する旅に出たのが1658年で、その後、改暦の意見書を幕府に提出したのが1673年、そして最終的に貞享暦が採用されたのが1684年です。大雑把に言って、物語の背景は1660~70年代で、春海が望遠鏡を覗いたのもこの頃の話でしょう。

(宮﨑あおい演ずる、春海の妻「えん」。ネットから引っ張ってきたイメージ)

今、手元に中村士氏の『江戸の天文学者 星空を翔ける』を置いて、この文章を書いていますが、同書によれば、春海が望遠鏡を使用したのは確かなようで、同書の「春海が新設した星座」の項には、弟子の谷秦山(たに・しんざん)が師匠・春海の言行を録した『壬癸録』(じんきろく)を挙げて、次のように書かれています(p.44-45)。

「ところで、春海は望遠鏡を使用したのだろうか。『壬癸録』を調べる限り、巻二で一箇所だけ望遠鏡について述べている。「北極太子の側に一小星がある。望鏡をもってこれを窺うと見ることができる。今これを御息所と名付けた。東宮(皇太子)の時の妻のことである」とある。太子は北極星を含むこぐま座のγ星という3等星で、渡辺敏夫によると、そのそばに附属した11番なる番号の星がこの小星(5.3等星)らしい。」

さらに、上の文中に名前の出てくる渡辺敏夫氏の本、『近世日本天文学史(下)』には、保井〔渋川〕春海は幕府所蔵の望遠鏡を使用できたのか、銀河を観望して微小の星の集合であることを認めているし」云々とあって(p.578)、彼は望遠鏡の筒先を空のあちこちに向けていたことがわかります(ただし、渡辺氏の文章には出典が明記されていません)。

もちろん、春海が使用したのがどんな望遠鏡だったかは、これだけでは分かりません。
1609年にガリレオが望遠鏡で星を観測してから、わずか数年後には日本にも早々と望遠鏡が伝来したらしく、17世紀半ばには国産望遠鏡も作られるようになっていました。また、それと並行して、長崎のオランダ商館から将軍や大名家に舶来望遠鏡の献上もしばしばあったので、春海の使用した望遠鏡は、国産・舶来いずれでもありえます。そして、国産ならば鏡筒は紙、舶来なら金属の可能性が高まります。

で、ここでは映画の設定どおり、徳川光圀あたりから舶来ものを供与されたと仮定した場合、それはどんな姿形のものであったかを考えることにします。

(この項さらにつづく)