Optics2012年11月13日 20時41分05秒



19世紀前半にイギリスで出た百科辞典の挿絵。


恥を忍んで告白すると、私は望遠鏡をテーマに駄文を草しているわりに、光学のことがさっぱり分かりません。それも専門的なことが分からない…というのではなしに、いちばん最初に学校でレンズのことを習い、実像と虚像の話題が出てきた辺りから、根本的に分からぬまま現在に至っている気がします。

その理由は明白で、光学がすぐれて幾何学的表現をとる学問分野だからです。幾何であれ、代数であれ、数学が鬼門であることは、これまで何度も記事に書きました。


こういうグラフィカルな表現を見ると、光学というのは、明快な直線と美しい曲線が織り成す、一種の純粋さをたたえた学問だと感じます。大天文学者のジョン・ハーシェルが、若い頃に天文学を嫌って、光学を志したのも、そのピュアネスに惚れ込んだからでした。

しかし私の目には、こういう図が一種の「絵」として映ずるだけで、その背後にある「理」が脳髄にしみこんできません。とても悲しいことです。


いっぽう、光学は純粋であると同時に、すぐれて「陰影に富んだ」学問だとも感じます(扱う対象が光と影なのですから、それも当然です)。そして、私の理解が及ばないだけに、いっそう秘密めいたところがあって、どうしても乱歩の「鏡地獄」の世界を連想してしまいます。






賢治の謎 … 別役実著 『イーハトーボゆき軽便鉄道』2012年11月14日 21時35分35秒

(この本は、もともと1990年にリブロポートから出て、2003年に「白水uブックス」の1冊に加わりました。上は白水社版の表紙です。)

ねこぱんちさんに以前コメント欄で教えていただいた出色の賢治本です(どうもありがとうございました)。

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賢治作品を読んで、何かモヤモヤっとするものを感じることはないでしょうか。

たとえば「オツベルと象」で、強欲なオツベルから救い出された小象は、なぜ「嬉しそう」に笑わずに、「さびしく」笑ったのでしょう?
あるいは谷川の底を舞台にしたファンタジックな「やまなし」。あそこに登場する、謎のキャラクター「クラムボン」とはいったい何なのか?

…そういう風に考えながら賢治作品を読んでいくと、あちこちに謎めいた記述が目に付きます。それがまた彼の作品の魅力ともなっているようです。

別役氏は、そうした謎をこの本で軽やかに解いていきます。
その推理の手並みは鮮やかで、驚くほど冴えわたっています。

あっと思ったのは、「グスコーブドリの伝記」に関する解釈です。
あの教訓めいた物語は、結局何を伝えたかったのか? 主人公のブドリは、森から草原に、そして都市へと生活の場を移していきますが、ここには人類進化の歴史が重ね合わされているのだと、別役氏は喝破します。そして、ブドリの死は人類が自然に対して負った罪に対する罰であり、彼は自分の死を必然として、はるか以前からそれを予見していた…。こういう風に書くと、ちょっと強引に聞こえるかもしれませんが、それは私の書き方がまずいからで、別役氏の文を読むと、なるほどそうだなと納得させられます。

こんな調子で、別役氏は賢治の主要作品を、ごく短い文章で次々と撫で斬りにしていくのですが、実はそこには2つの例外があります。
1つは「風の又三郎」で、これについては「その1」から「その3」まで3編のエッセイを宛てています。そしてもう1つは「銀河鉄道の夜」で、こちらは実に10編の連作形式で、延々と謎解きを続けています。

別役氏は、「銀河鉄道の夜」全体を通底するテーマとして、「父なるもの」と「母なるもの」、そして人間関係の基礎としての「三角関係」、さらに少年の「自立」といったものに注目します。その解釈自体はおそらく正しいのでしょう。しかし、こうしたいわば「真っ当な解釈」を下すのに、別役氏が長々と紙数を費やしているのは、他の作品評にくらべて、明らかにペースが鈍重です。私には、名探偵・別役氏が、「銀河鉄道の夜」に関しては、はっきりと戸惑っているように感じられます。

「銀河鉄道の夜」は、もちろん「自己犠牲のススメ」のような単純な教訓物語ではないし、さらに別役氏がそうしたように、精神分析的解釈を援用したからといって、それだけで解決が付くわけでもなく、依然多くの謎を含んでいるように思います。

私にも、その「謎」に対する答は当然ありませんが、しかし、別役氏の解釈から漏れている要素は予想が付きます。それは「銀河鉄道は、なぜ銀河鉄道なのか」ということです。

「銀河鉄道の夜」が、単にジョバンニの成長小説ならば、別役氏の解釈で充分なのでしょうが、この作品の主人公は、実は「銀河鉄道」そのものだとも言えます。このもう一人の主人公は、なぜ汽車の姿をとり、そして銀河のほとりを疾駆するのか?そこにはおそらく時空の謎、万象の生成と消滅をめぐる宇宙論的なテーマがあるはずで、それが別役氏の視野からは抜け落ちていると思います。

夏の夜、銀河を振り仰いで、そのほとりを走る汽車を思い浮かべれば、この疑問は解けるのかもしれません。あるいは解けないまでも、賢治さんのこころの片鱗はうかがい知ることができるような気がするのですが、さてどんなものでしょうか。

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ともあれ、賢治ファンにはお勧めの一冊です。
別役説に脱帽するか、はたまた別の解釈に到達するか、いずれにしても賢治作品を見る目が豊かになることは請け合います。

フェルメールの「天文学者」に見える謎の図 (前編)2012年11月16日 18時52分39秒

お腹を下しました。寒さのせいか、胃腸風邪か、とにかく用心しようと思います。
皆さんもどうぞお気をつけて。

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さて、「謎解き」を、別の話題でも続けます。

日本でも人気の高い17世紀オランダの画家、ヤン・フェルメール(1632-1675)。
最近大きな展覧会が続いたことで、その絵にいっそう注目が集まっているようです。
彼が30代半ばに描いた作品に「天文学者」という絵があります。天球儀に手をかけ、じっと見入る1人の男を描いたもので、現在はルーブル美術館の所蔵です。
 
(ヤン・フェルメール作、「天文学者」。1668年、油彩、カンヴァス、50×45cm。)

この絵は大層有名なので、既にいろいろ考証が加えられており、画中の天球儀は、ヨドクス・ホンディウスが1600年に制作したものであり、また机上に開かれた本は、アードリエーン・メティウスという人の『天文・地理学集成 天球儀と地球儀を利用した天文術基礎研究及び地理記術』の第3巻で、しかもその第2版であることも明らかになっています。また背後の壁にかかる絵は、フェルメールの他の作品にも登場する「モーゼの発見」です。さらに最近になって、天球儀の足元にちらりと見えるアストロラーベは、ウィレム・ヤンスゾーン・ブロイ作のものと判明したのだとか。

実はこの話題、以前S.Uさんから頂戴したコメント(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/09/17/6576010#c6580407)に触発されたもので、上に挙げた各種の考証は、S.Uさんに教えていただいた、Jonathan Janson氏の「The Complete Interactive Vermeer Cataogue」というWEBサイトに書かれた「天文学者」に関する解説(http://www.essentialvermeer.com/catalogue/astronomer.html)が主なソースになっています。

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さて、ここで問題にしたいのは、天球儀の背後、家具の正面にかかっている星図(?)についてです。そこまでいろいろ分かっているのであれば、この図の正体も、すでに明らかなのかと思いきや、上記Janson 氏によれば、「この見慣れぬテクニカルな図面に関しては、3つの円形図がある種の立体投影図だと推定されているものの、あまりよく分かっていない。天球図(planisphere)だろうと考える歴史家もいる」という状況なのだとか。
 
 
(「天文学者」に描かれた謎の図。 上:オリジナル画像、下:コントラストを調整したもの)

フェルメールがこの場面に、空想的な図を描き込むとは思えないので、この図についても、きっと何かモデルがあるのだと思います。しかし、私にも具体的なアイデアがあるわけではないので、この件について天文学史のメーリングリストで質問をしてみることにしました。「この図は現実に存在する図なのでしょうか?存在するとすれば、そのソースは何なのでしょう?」
 
その後、何日間かの間に、いろいろな人から意見が寄せられました。そのうち、「これは」と思ったものをいくつかご紹介します。
(ただし、結論を先にいうと、答は依然不明であり、謎はまったく解けていません。)

(この項つづく)

フェルメールの「天文学者」に見える謎の図 (後編)2012年11月17日 20時26分03秒

今日は一日雨。先週の休日も雨でした。
一雨ごとに本格的な冬が近づいてきます。

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さて、フェルメールの絵に登場する謎の図の話題。
記事を書くために改めてメーリングリストでのやりとり読み返してみると、(教えを乞うておきながら何ですが)具体的な内容に乏しい投稿が多くて、全体を圧縮すると1回分の記事でも十分紹介できそうな気がしてきたので、あっさり「前編・後編」の2部構成に変更します。

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謎の図の具体的な候補として、たとえば17世紀の天文学者Jakob Bartsch(1600-1633)の著作を挙げる人がいました。

「私の目には、この図は Jacob Bartsch の『Index aspectuum veterum et praecipue novorum cum rotulis VII planetarum mobilium』 (Strasbourg, 1624)〔下図参照〕に似ているように見えます。Bartschの図はフェルメールが描いたのと、まったく同じというわけではありませんが、フェルメールは何かこれらと似た図を見たんじゃないでしょうか。」(G氏)


たしかに「まったく同じ」ではありません。いや、むしろあまり似ていない気もしますが、例の図が、何か天体の運行を表現した円形(あるいは同心円状)の図ではないかというのは、私もまったく同じ意見です。

で、あまりBartschの名にこだわらず、似たような図を探そうと思えば、グーグルの画像検索で、「volvell」(ヴォルヴェル、回転盤)をキーに検索すると、大量にそれっぽい画像がヒットします。しかし、やはりまったく同じ図は見つかりません。なんとなくもどかしいです。

(↑グーグル画像検索画面より)

私自身は、S.Uさんがコメント欄でこの絵に言及された時、次のようにレスしました。

「私は最初、時代・国から考えて、セラリウスの『Harmonia Macrocosmica』の一葉かと思いました。チェックしてみると、たしかに何となく雰囲気が似ている図(例えば↓のようなグラフィカルな図)も見つかりましたが、まったく同じ図はありませんでした。
http://vintageprintable.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/09/Celestial-Harmonia-Macrocosmica-of-Andreas-Cellarius-Plate-_16.jpg

セラリウスの『大宇宙の調和(Harmonia Macrocosmica)』は、フェルメールの絵が描かれる8年前、1660年にアムステルダムで出版された天体図集で、時代・国ともに、フェルメールの絵に登場しても全く矛盾がありません。さらに、上のリンク先の図を上下逆転すると(↓)、いっそう似てくるぞ…などとも思ったのですが(自画自賛すると、いちばん似ている気がします)、しかし、やはり同じ図でないことに変わりはありません。



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で、私の思い込みに修正を迫ったのは、「あれはホロスコープではないか?」という意見です。

「壁にかかった図は、どうもホロスコープのように見えます。しかし、あまりはっきり見えないので、確かにそうだと言うこともできません。〔…〕17世紀には、天文学の知識を持った人は、たいてい占星術師でもありましたから、上のことはあり得ないことではありません。」(C氏)

この意見について、「当時のホロスコープは一般に正方形をしていたはずだ」という反論もありました。たしかに、占星術に関心のある人であれば、下のような形式のホロスコープに、いっそう馴染みがあると思います。

(↑17世紀のホロスコープ。Joseph Moxon著、『A Tutor to Astronomy and Geography』(1674)より)

ただ、ホロスコープそのものであるかどうかは別にして、この謎の図が、何か占星術に関連したものではないかというのは、他にも言及している人がいて、1つの有力な方向性だと思います。

(↑15世紀の暦書『羊飼いの暦(A Shepherd's Calendar)』より、天候や健康上の暦占を示すヴォルヴェル。出典  http://worshipthelight.blogspot.jp/2008/10/shepherds-calendar.html

そもそも、この絵の「天文学者」という題名は後世つけられたもので、以前は「占星術師」と呼ばれた時代もあるそうです。
ただ、そこまで範囲を広げると、ちょっとお手上げという感じです。うーむ…

繰り返しになりますが、この絵に描かれている他の小道具類は、いずれも実在のものですから、この図もきっとそうだと思います。そこには、必ずや何かモデルがあるはずです。フェルメールの生活圏にあって、彼が入手しうるようなモデルが…。

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残念ながら、この謎解きは尻切れトンボのまま、ここで終わりです。
何か有力な情報がありましたら、ぜひお知らせください。

(この項終わり。…ああ、また竜頭蛇尾で終わってしまった。)

「不器用なりに頑張った」…ガリレオ望遠鏡のペーパークラフト2012年11月19日 21時44分02秒

先日、渋川春海の望遠鏡について書きながら、脳裏をかすめたのはガリレオの望遠鏡のこと。世の中、実際に見てみないと分からないことは多いので、春海の望遠鏡はともかく、ガリレオの望遠鏡を覗いてみたいと思いました。

「そういえば、2009年の世界天文年のとき、たしか精密復元レプリカが売りに出たなあ…」と思い出して、今改めて見たら当時の価格は17万円なにがし。合掌するしかない値段ですが、仮にお金が山のようにあったとしても、とっくに完売しているので、今では入手不能です。

もっと手軽なものはないかな?と思って探すと、学研の「大人の科学マガジン」の1冊として、やっぱり2009年に出たのがありました。が、これも版元品切れのようです。アマゾンには中古が出ていますが、定価2300円のところ、プレミアがついて4500円ぐらいになっていて、なんとなく釈然としません。


さらに海外に手を広げて探したら、ドイツのSun Watch Verlag というところから、Das Historische Galilei-Teleskop という商品が出ているのを見つけました。これなら送料を入れても1800円なので、これだと思い、そそくさと注文。


それが昨日(日曜日)届いたので、昨日は午後から工作に精を出していましたが、これがけっこう難儀しました。
学研の品と違って、プラ部品は一切なく、ガラスのレンズ以外はすべて紙製という渋い品なので、学研というよりも、昔の小学館の学習雑誌の付録を作るような感覚です。

不器用な私には切った貼っただけでも大変なのですが、さらに問題は付属の説明書。現物が届く前は、「子どもでも作れるように、詳細な図解があるに違いない。ことによったら、英語も併記されているんじゃないか」と甘いことを考えていたのですが、実物を見たら、説明書には図がほとんどなくて字ばかりですし、表記もドイツ語のみ。かろうじて文中の「A1」とか「C8」とかいうパーツ番号は分かるので、「こういう順番に台紙から切り抜いて組み立てるんだな」ということは、おぼろげながら分かるのですが、細部の仕上げがよく分からず、しばし手を止めて黙考。

「うーん、おかしいなあ…これだと理屈からして、完成写真のようになるはずはないんだがなあ…」etc、ブツブツ言いながら、結局、勝手に部品に切れ込みを入れて折り曲げたり、台紙の余白から、新たな部品を切り出したりして、何とか完成させました。(不器用さは想像力で補いました。それに所詮は紙の筒の両端に2枚のレンズを取り付けるだけですから、細部はどうとでもなります。)


これが完成品。どうです、見た目は結構それっぽいでしょう。
ただ、当然のことながら、この品は厳密な意味でのガリレオ望遠鏡の復元品ではありません。光学系はたしかに凸レンズと凹レンズを組み合わせたガリレオ式で、外観はガリレオの「20倍望遠鏡」をイメージしているようですが、その性能はむしろ彼の「14倍望遠鏡」に近いものです(が、以下のように結構違いが目立ちます)。
まあ、オリジナルとまったく同等ではないにしろ、ガリレオが覗き見た世界を想像するには、この程度でも十分です。

(上:14倍望遠鏡、下:20倍望遠鏡)

■主なスペック(ガリレオの「14倍望遠鏡」/今回組み立てたレプリカ)。
○対物レンズ径  51ミリ/42ミリ
○同有効径 26ミリ/25ミリ
○対物レンズ焦点距離 1330ミリ/780ミリ
○接眼レンズ焦点距離 94ミリ/65ミリ 
○倍率 14倍/12倍

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昨夜のファーストライトは、西の地平線近くに傾いた月齢11.2の月でした。
視野が異常に狭いので、月を導入するのもひと苦労です。
月全体が視野にすっぽり収まるので、実視界はまだしも、見かけ視界がお話しにならないぐらい狭いので、本当に「葦の髄から天井を覗く」ような塩梅です。これで天界のメッセージを受け取ったガリレオは、それだけでも偉大だと素直に思いました。

肝心の像は、口径絞りと長焦点のおかげか、意外なほどシャープです。紙筒の望遠鏡でシャープな見え味というのは、予想していませんでしたが、12倍であれだけくっきりクレーターが見えれば、まあシャープといっていいのでしょう。ガリレオの有名な月スケッチよりも、もっと見える感じです。

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ともあれ、こうして素朴なガリレオ体験を済ませました。
この望遠鏡を使って、さらに天界探索をする気力はありませんが(セカンドライトは未定です)、ほんのちょっとだけ17世紀の天文家の心が分かった気がするので、今回はまあ良しとしましょう。

伝・ガリレオ2012年11月21日 21時24分11秒



北国からは雪の便りがしきりに聞かれます。
そしてクリスマスまでは、あとひと月ちょっと。
というわけで、ドイツ製スノードームの登場です。


「ガリレオのスノードーム」と称して売られていました。
でも、このピエロめいた人は、決してガリレオではないと思う。


やっぱり違うと思う―。

泡沫(うたかた)の2009年2012年11月23日 18時25分21秒

俗に「十年ひと昔」と言いますが、今や「三年ひと昔」の方が人々の感覚に合うようで、そういう言い方を耳にすることが多くなりました。


3年前の2009年は「世界天文年」でした。
あの頃の盛り上がりは、はっきりと覚えています。そのいっぽうで、ずいぶん昔のような気もします。まさに三年ひと昔。
当時はずいぶんと「あやかり商品」も出回ったと思います。今となっては、その全貌は判然としませんが、意外なものにまで、その余波が及んでいたことは確かです。


たとえば、上のちんまりしたものはシャンパン・キャップです。
シャンパンのコルク栓にかぶせて、さらに上からワイヤーで固定するための金属板。
日本酒の王冠を蒐める人がいるように、フランスにも、こういうチマチマしたものを蒐める人がいるらしい。そして、そのキャップにも世界天文年バージョンが登場して、チマチマと(あるいはシュパッ!シュパッ!と景気よく)、ガリレオ400年を祝賀していたという話。

(星の海にこぎ出したガリレオ。)

(キャップの裏面。薄口の鉄板を打抜きプレス加工してあります。)

(ガリレオの後裔)

(米ソのヒーロー)

その画題を見ると、ガリレオ、月の満ち欠けと星座、アポロ、スプートニク、天体観測…
という顔ぶれで、現代のふつうの人が「天文」や「宇宙」と聞いたときに思い浮かべるものが、何となく分かるような気がします。
ささやかな「宇宙イメージのコレクション」といったところでしょうか。

なぜか熊猫2012年11月25日 16時14分28秒

卒爾ながら、今日は私の誕生日です。

ためしに過去のブログ記事を読み返したら、最初の頃は、11月25日になると誕生日にからむ記述がありましたが、最近は去年も一昨年も特に言及がなくて、我ながらどうでもよくなってきたのでしょう。

しかし、今年はいささか思いを改めました。
齢(とし)を取れば取るほど余生が貴重になるわけですから、「別に…」とか「所詮…」とか、斜に構えることなく、無事余生をつないで誕生日を迎えられたことを、子どものように喜んで然るべきではないかと思ったわけです。そして、そのほうが年寄りとして、素直で可愛げがあるのではと。(まあ、お若い方に「この場所ふさぎが!」と思われると寂しいですが。)

   ★

誕生日ということで、知り合いからメールでグリーティングカードをもらいました。
それはパンダの登場する動画につながっていて、私の心は、しばしパンダが上野に来た当時に飛んでいました(今年はパンダ来日40周年です)。

既に小学生だった私は、その頃のことをよく覚えています。
日中友好ムード一色だったあの時代。子どもの私からすると、当時の中国の人は、みな人民服を着た気のいい人たちというイメージでしたから、今日のように隣国同士が激しくいがみ合う日が来るとは思ってもいませんでした。

(↑荒俣宏著、世界大博物図鑑5・哺乳類よりジャイアントパンダの図。
原図はミルヌ=エドヴァールの『哺乳類誌』(Henri Milne-Edwards, Recherches pour servir à l'histoire naturelle des mammifères, 1868-74)による。なお、上はレッサーパンダ、赤いのは毛沢東バッジ。)

その後すぐに始まったBCL(海外放送聴取)ブームにより、私もBBCやラジオオーストラリアの合間に、北京放送やモスクワ放送を熱心に聞きながら、「政治とは激しい言葉の応酬のことなんだな」とボンヤリ思ったりしましたが、文化大革命の実情なぞは何も知らずに、遊び暮らしていました(小学生だから当然です)。

それにしても、当時のパンダブームはすさまじく、男兄弟ばかりの我が家にも、なぜか巨大なパンダのぬいぐるみがありました。(それは私がいたずらをしたせいで、後に悲惨な姿に変貌を遂げましたが。)

   ★

そこからふと思い立って、ウィキペディアのジャイアントパンダの項を見る気になったのですが、そこには一寸気になることが書かれていました。


「日本語名」の解説をする箇所に、「この節の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。議論はノートを参照してください。(2012年8月)」と、ことさら目立つ形で書かれていたのです。

問題とされたのは、

「日本語では標準和名「ジャイアントパンダ」のほか、古くは「白黒熊(シロクロクマ、シロクログマ)」「色分熊(イロワケクマ、イロワケグマ)」とも呼ばれていた。これら異称としての和名は今ではほとんど用いられないが、消えたわけでもない。」

という記述です。
「白黒熊」とは、いかにもありそうなネーミングですが、ウィキペディアの「ノート」のページには、

「シロクログマ(白黒熊)イロワケグマ(色分熊)という呼び方は聞いたことがないですが、日本の図鑑などでこのような名前を使っていたことがあるのでしょうか?中国での呼び名だとしたら、その後の中国では~の部分に載せるのがよいかと思います。」

云々という疑問が提示されていました。要するに「白黒熊」等の名は、ソースがはっきりしないという指摘です。

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1人の中年男性が、自分の誕生日にあたって、なぜかパンダの和名に興味を持ち、それを調べ始めることが、道に叶った振る舞いなのかどうか?現下の日中情勢に思いを馳せて、その打開策を構想することの方が、より重要なのではないかという反省もあります。

しかし、何事も原点に返ることは大事ですし、最近博物チックな話題が少なかったこともあり、少しパンダ問題に紙幅を費やすことにします。

(この項つづく)

白黒熊はいたか?2012年11月26日 20時52分16秒

(昨日のつづき)

まず初めに述べておくと、こういう問題に関して真っ先に参照すべき、荒俣宏氏の『世界大博物図鑑』は、この件については情報なしです。和名はジャイアントパンダ、中国名は大熊猫と書かれているだけです。

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「白黒熊」の名は、ネットで検索するとすぐに見つかりました。
それは『しろくろぐま』という絵本の題名に使われており、この本はまだパンダブームの余韻が残る1976年に講談社から出ていました。


(↑高橋宏幸著、『しろくろぐま』表紙。内容は未見。
近くの図書館が所蔵しているらしいので、今度見てこようと思います。)

国会図書館のデータベースによれば、「(あらすじ)中国のはるかおく地のヤンツー川のみなもとのあたりにすむロロ族の少年とパンダの物語。題名はパンダの中国名の一つ」という内容の本だそうです。

しかし、もしこの絵本が「白黒熊」のソースだとすれば(あり得ないことではないと思いますが)、それは本来の和名ではないし、格別古くもない―少なくとも「パンダ」よりさらに新しい―ことになります。

   ★

では範囲を中国まで広げて、「白黒熊」は中国名なのか?
たしかに、中国語版のウィキペディア(http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%93%E7%86%8A)には

「1869年,法国天主教伝教士 阿爾芒•載維徳 在四川宝興県鄧池溝 認識了熊猫後,給“熊猫”定名為“黒白熊”(1869年、フランス人宣教師アルマン・ダヴィドが、四川省宝興県鄧池溝においてパンダを発見し、「パンダ(熊猫)」を「黒白熊」と命名した)」

という記述があります(表記は日本の当用漢字に改めました。以下同じ)。

私には中国語が分からないので(上の訳は漢文式に読んだまでです)、上の記述のニュアンスが今一つ分からないのですが、ここに出てくる「黒白熊」は、ダヴィドがそういう中国名を考案したというよりは、彼がパンダに与えた学名「Ailuropoda melanoleuca(黒白の猫足獣の意)」を中国語で説明したものではないでしょうか。

中国語版ウィキはさらに続けて、

「古籍所記載的許多動物或神獣 可能指的是熊猫、比如:(古書に記された多くの動物や神獣はパンダを指している可能性がある。例えば…)食鉄獣、竹熊、白羆、花熊、華熊、花頭熊、銀狗、峨曲、杜洞尕(ガ;「乃」の下に「小」)、執夷、猛豹、猛氏獣」

等の名称を挙げています。
ここにも、「白黒熊」や「黒白熊」は当然ながら見当たりません。
いずれにしても、「白黒熊」「黒白熊」は、たとえその名があったとしても、中国古来の名称ではありませんし、また一般に通用している名とも思われません(ちなみにダヴィド自身は、現地の人がパンダのことを一貫して「白熊」と呼ぶのを聞いていました。cf. H.ヴェント(著)『世界動物発見史』、平凡社、1988、pp.493-504)。

上記絵本の直接の典拠は不明ですが、ひょっとしたら「しろくろぐま」は、漢名ではなしに、現地の少数民族における呼び名なのかもしれません。

   ★

さて、ネット上を右往左往するのはここまでにして、パンダが載っていそうな昔の図鑑に直接当たることにします。そこには果たして白黒熊がいるのか、いないのか?

(この項つづく)

色分け熊、見つけた。2012年11月28日 21時10分34秒

「白黒熊」はまだ見つかりませんが、昨日Soraさんにコメント欄でお教えいただいたとおり(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/11/26/6643915#c6644870)、「色分け熊」は図鑑にしっかり載っていました。



これぞ75年前の図鑑に載った、いにしえの「パンダ」の絵姿です。

■小野田伊久馬・小野田勝造(著)、
 「内外動物原色大図鑑・第1巻(哺乳類編)」
 動物原色大図鑑刊行会、昭和12(1937)

当時は、ようやく欧米の2、3の動物園で飼育の試みが始まったばかりですから、日本人で本物のパンダを見た人は皆無に近かったはずです。当然、この図も写真か絵を元に、想像で補ったものでしょう。
なんだかプロポーションが変ですし(いかにも熊っぽい)、目も血走った感じで、パンダに「可愛らしさ」を感じ取っている様子が毫もないのは、興味深い点です。


そして、その説明文がまた一寸妙です。「昼間は潜み、夜出でて食を求める」。
パンダは純粋な夜行性ではないはずですし、竹や笹を好んで食べるという、その最も目立つ特徴が書かれていないのは、この頃はまだパンダの生態がよく分かっていなかった証拠ではないでしょうか。

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名前の件に戻って、この「イロワケグマ」は、戦後にも用例があって、Soraさんが引用されたページ↓(by TURTLE MOON氏)によると、戦後も戦後、まさにパンダが上野に来た1972年に出た、学研の『新訂 学習カラー百科』に、パンダの別名として、この名が挙がっているそうです。

■Web雑記:時代を感じる! 我が人生初の愛読書
 (株)学習研究社『新訂 学習カラー百科(6 生物の世界)』
 http://www.webzakki.com/z100327.shtml
 (TURTLE MOON氏によって、前後3回にわたり書かれたこの記事は、昔の学習
 図鑑の珍なる側面を活写して抱腹必至。ぜひご一読を。)

当時を知る身として、「イロワケグマ」は一度も聞いたことがありません。たぶん、この学研の百科事典は、図鑑上の用例として下限に近いのではないでしょうか。
となると、今度はその初出が気になりますが、この点については引き続き探索を続けたいと思います。

なお、上記『内外動物原色大図鑑』は、イロワケグマ式に、外国産の動物にすべて和風の名を与えているわけではなくて、カンガルーやコアラはそのままですし、キリンは正確を期してか、わざわざ「ジラフ」としています。では、なぜパンダはイロワケグマになったのか。漢字の国、中国産の動物に横文字(っぽい名)は似合わないとでも思ったのでしょうか?

   ★

この項は、追加情報があればまた続けます。
また、戦前に出た最大の豪華図鑑、『内外原色動物大図鑑』(全13巻)と、その姉妹編である『内外原色植物大図鑑』(全12巻+索引1巻)については、また別項で取り上げたいと思います。