鉱物古玩2012年12月28日 22時09分00秒

天空の星は、人間の営みとは全く没交渉に輝いています。
したがって、天文趣味が純粋に星のみを愛でるものであるならば、そこに骨董趣味が入り込む余地は、本来無いはずです。

しかし、実際には天文趣味と骨董趣味は、オーバーラップする部分が少なからずあって、古い星図、天球儀、古写真…etc、星に対する古人の憧れが投影された品々は、現代の星好きにも強く訴えかけるものがあります。少なくとも、このブログを訪問される方にとってはそうでしょう。

人間界を超えた星界へのあこがれは、昔も今も変わりませんし、むしろ、昔の方が星と触れ合う手段が素朴だった分、その<星ごころ>には、いっそう純で、涼やかな感じが伴います。そして、手仕事めいたそれらの古物に漂う、不思議な懐かしさや愛しさも、多くに人に好ましく感じられるはずです。

要するに、天文趣味というのは、星そのものを愛でるのは当然として、それと同時に人間の中にある「星ごころ」をも一緒に愛でるものなのだ…と思います。

   ★

今さらこんなことを書いたのは、鉱物趣味と骨董趣味の関係を考えていて、連想が天文に及んだからです。

鉱物はもともと「古い」ものです。それも、人間の歴史よりもはるかに長い時間スケールを経て、今ここにあるわけです。そんな鉱物を愛でるのに、せいぜい100年か200年ぐらい前の文物を賞玩する骨董趣味が、そこに入り込む余地はあるのだろうか―?
「大いにある」と私は思います。天文趣味と同じように、鉱物趣味とは、鉱物そのものを愛でると同時に、「鉱石(イシ)ごころ」も同時に愛でるものと思うからです。

色鮮やかな鉱物画、古い標本箱、壜、手書きの標本ラベル…そういったものと共にあるとき、鉱物がいっそう魅力を放つように思えるのは、そこに古人の「鉱石ごころ」が加わるからではないでしょうか?


   ★

鉱物まわりのアンティークを取り揃えた「骨董鉱物店」。
何と魅惑的な存在でしょう。
本当にそんなお店があったら、一日中座っていても飽きることはないでしょうし、いっそのこと自ら店主になりたいとすら思います(残念ながら、その資金も知識もないので無理ですが)。

リアル世界には到底望みがたい、そんな「骨董鉱物店」ですが、ネット空間には既にちゃんと存在します。

フランスの古いものを、独自の審美眼ですくいとるMachidoriさのオンラインショップ、「ル・プチ・ミュゼ・ド・ル」(http://le-petit-musee-de-lou.com/)。
ここは単一のショップというよりは、いくつか特色のあるショップが集まった「モール」と言ったほうが適切かもしれません。

その中にこのたび新たにオープンしたのが、ずばり「骨董鉱物店」という名前のお店です(http://le-petit-musee-de-lou.com/muscat2c/)。
1週間前の開店と同時に、すべての商品がまたたく間に売れて行ったということは、それだけ鉱物アンティークを愛する人が多いということでしょう。
心強くも、羨ましい話です。

   ★

もちろん私としては、骨董鉱物店と並んで、いつか「骨董天文店」が出現することを願っているのですが、ただ残念ながら、「骨董鉱物店」に本物の鉱物が並ぶことはあっても、「骨董天文店」に本物の天体が並ぶことはないでしょう(隕石をのぞけば)。

天文趣味の潔さ、あるいは切なさは、まさにそこかもしれませんね。

コメント

_ 冬至 ― 2012年12月29日 00時16分15秒

こんばんは。
こちらのサイト、チェックしておりました。
素敵な物ばかりですが、見つけたのが遅かったのか
ほとんど売れてしまっている状態でした。。。

「骨董天文店」なんて素敵なものが(本物ばかりのお店で)できたら
素敵でしょうね~(#^^#)うっとりです

_ S.U ― 2012年12月29日 07時13分22秒

>骨董鉱物店
 またもですみませんが、「水晶物語」で骨董品の石がタルホ少年の前に持ちかけられた件を思い出しました。骨董の石を売りに来た人は人間が触ることによって石は価値が増すと考え、足穂は鉱物は地中から切り出したばかりでないといけないと考えたようです。周辺の道具類はともかくとして、はたして自然の鉱物そのものが価値のある骨董ということがあり得るのでしょうか。

>本物の天体が並ぶことはない
 私も似たような夢を考え、嘆いております。
 科学博物館に行くと、硫黄やらジルコニウムやらオスミウムやらの鉱石や金属塊が周期表の形の棚に並べて展示してあります。ああいうふうに素粒子であるミュー粒子やK中間子や反陽子を並べて展示したいものだと思うのですが、今のところどうにも無理です。

_ 玉青 ― 2012年12月30日 08時11分13秒

○冬至さま

ええ、私も何一つ購入できませんでした(無念…)。
ものすごく商品の出足が早かったですね。皆さん以前からチェックしていたのでしょう。
冬至さんの思いに共鳴して、今日は骨董天文店について記事を書いてみました。(^J^)

○S.Uさま

おそらく「鉱物そのもの」がただちに骨董になることはなくて、「鉱物そのもの」に「名石」のラベルが貼られて初めて骨董になる…要するに、件の人物が言うように、人間が触る(=目利きが折り紙を付ける)ことによって、初めてそこに骨董的価値が生まれるのでしょう。
茶道具なんかでも、元はつまらない日常雑器だったものが、昔の茶人が注目したことによって途端に名品に化けた…なんていう話をよく聞きますが、それと似た事情があるのかもしれません。

件の人物は、鉱物趣味の徒ではなく、昔からあった東洋的「愛石趣味」(中国の玩石趣味や、日本の盆石・水石趣味)の徒でしょうから、同じ石好きとは言っても、両者の隔たりは非常に大きく、そもそも共通言語がないので、(まさにタルホ少年がそうであったように)両者は会話が成り立たない気がします。

>素粒子…を並べて展示

「パパ、見て見て」
「ほう、これがK中間子か。見事なものだな」
…なんて光景は楽しそうですね。(笑)

たしかに、素粒子ってどんな「顔つき」をしているのか、気にはなりますね。
身近といえばこれほど身近な存在もありませんから。
(あるいは上の親子には、素粒子に「見る」という観測行為を及ぼすことの意味を考えてもらったりした方が良いでしょうか。)

_ SPS ― 2012年12月30日 14時48分57秒

初めまして。
『鉱物趣味とは、鉱物そのものを愛でると同時に、「鉱石(イシ)ごころ」も同時に愛でるものだ』におおいに共感します。
足穂と違って、私も自然界にある石より、標本化された石のが好きな部類です。骨董ということでいえば、どこかの(鉱石愛好家の)コレクションに収蔵された時点で、おっしゃる「鉱石(イシ)ごころ」が添えられる気がしますね。古ぼけた理科標本室的雰囲気が伴えば言うことなし。

ただ、この頃はアメリカの鉱物専門誌に写真が載ったり、標本商さんの広告写真に載った類の標本がコレクターの間を転々として、次第にとんでもない値段に吊り上っていくケースが珍しくありません。上記の定義からすると、これも骨董と言えなくはないのですが、私としてはそれは骨董の投機的なパートに過ぎなくて、仮にそれを世の人が(鉱物そのものを見て)「名品」と呼ぶとしても、「鉱石ごころ」をまとっている、とは言いたくない気がします。

_ S.U ― 2012年12月30日 19時10分55秒

>「ほう、これがK中間子か。見事なものだな」~「見る」という観測行為
 
 確かに、粒子加速器を使って収集した実験データを眺めてこういう感慨を持つことは可能ですから、案外、富士山や天橋立の写真を見るのと本質的に同じ意味でK中間子を見ていると言えるのかもしれません。そういう意味では展示は不可能ではないでしょう。K中間子を見事と思うには多少の「修養」は必要かもしれませんが、茶道具や骨董のことを思えばそれも何でも同じかもしれません。

 何でも同じと言ってしまえば、本当に何でも同じのような気がして来て、これ以上考えられなくなってしまいました。

_ 玉青 ― 2012年12月31日 09時07分09秒

○SPSさま

共感をいただき、とても嬉しいです。

鉱物好きの方の中には、雄大な自然の中で鉱物とじかに触れ合うのを好む人もきっといるのでしょう。いや、むしろそれが鉱物好きの王道なのかもしれません。
でも、SPSさんがおっしゃるように、古ぼけた理科標本室的雰囲気をまとった、「標本化された鉱物」にいっそう強く惹かれる人も一方にはいて、もちろん私もその1人です。

これは一体どういう感性によるものか、上では「鉱石ごころ」という言葉で、その一端を説明しようとしましたが、どうもそれだけではないような気もして、この辺はもう一寸考えてみたいです。SPSさんのお考えも、またお聞かせいただければ幸いです。

ときに標本の芳しくない値段高騰について。
何事も投機の対象となってはおしまいですね。そういう「虚しい」価値が上乗せされたバブリーな品には、私もはなはだ苦々しいものを感じます。
(でも、たまたま自分の手元に既にあるものが、ふとした弾みで虚しく高騰したりすると、ちょっと嬉しい気がしなくもないのは、私の―あるいは人間一般の―卑小さを示すエピソードと言えるかもしれません・笑。)

○S.Uさま

なるほど、確かに同じ「みる」のでも、見る、視る、観る…といろいろありますし、「みる」だけではなくて「知る」ことや「識る」ことも大事ですから、直接光学的に見ずとも、対象を展示する工夫はいろいろできそうですね。何はともあれ「感得する」ことが、この場合大切かもしれません。

>何でも同じと言ってしまえば、本当に何でも同じ

あはは…と笑いつつ、悟道に達すればまさに万物一如ですから、これもまた一つの真理かと。

_ S.U ― 2012年12月31日 17時59分09秒

>万物一如
 かけがえのないすべてのモノたちを感得する目を持てますように! また来年もよろしくおねがいします!

_ 玉青 ― 2013年01月01日 15時18分48秒

昨年は(昨年も)本当にお世話になりました!
今年もぜひお世話をよろしくお願いいたします。。。<(_ _)>

_ SPS ― 2013年01月03日 17時25分25秒

こんにちは。お正月からお邪魔します。
「標本化された鉱物」に強く惹かれる感性なんですが、これは(私の場合)対象と自分との心理的な距離の遠さ、が大きく働いている気がします。非日常性(なじみのない異世界)にコンタクトした感触とか、標本の珍奇さ、手に入りにくさ(貴重さ)、といった感覚が混在して憧憬/執着心を呼び起こすのではないかと。
つまり、こちらのブログで折々取り上げられている「ヴンダーカンマー」の要素ですね。

私は産地に鉱物採集に行きますと、そしてあたりに山ほど石が転がっているのを見ますと、とたんにその石に対する執着が萎えるという困った性向があります。こんなにたくさんあるんだったら、いつでも採りに来ればいいし、だいいち自分のコレクションに加える必要性がないではないか、とか思ってしまうのです。

一方、標本を研究の対象というか学問的に扱うような方は、たぶん全然違った感覚をお持ちであろうと思います。(フィールド重視、標本は資料的側面がキモ、みたいな)

_ 玉青 ― 2013年01月03日 22時05分30秒

SPSさんの充実のサイトへのリンクを、どうもありがとうございました。
でも強い既視感があるので、たぶん以前も訪問させていただいたことがあるような…。
やはりこれもご縁でしょうか。ネット界も広いようで狭いですね。

さて、標本化された鉱物の魅力について。
「心理的な距離」あるいは「憧憬と執着心」というキーワードには、大いに共感を覚えます。非日常なればこその訴求力、ヴンダーを呼び覚ますパワーに、標本がその魅力の多くを負っているのは、間違いないところでしょう(これは鉱物に限らず標本一般がそうかもしれません)。

それと、どうも標本好きというのは、図鑑好きと共通する要素があって、その共通する要素とは何ぞや?というと、要は「抽象化された自然」ということかな…と考えたりします。標本や図鑑は、「生の自然」の一部を切り取って、一定の体系の中に位置づける試みであり、元の自然からは、1段階も2段階も抽象度が高い存在のように感じます。そのせいで、目の前にありながらも、何となく距離感を感じて憧れを覚えるということもあるでしょうし、また逆説的ですが、抽象度が高いゆえに「自然そのもの」がより強く感じられるという面もあるのかもしれません(「自然」という概念自体、高度に抽象的なものですから)。

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