ジョバンニが見た世界…銅の人馬(2)2013年01月05日 13時42分45秒

(昨日のつづき)

もちろん、単純に「ケンタウルス」という語が、ハイカラ好みの賢治の耳に心地よく響いただけだという可能性もあります。
しかし、もしそれ以上の意味があるとすれば、ケンタウルスが有する、まさに「獣人性」が、賢治の心の琴線に触れたのだと想像します。

ちょっと連想が飛躍しますが、賢治は同じ大正6年、異形の存在が舞い踊る岩手の民俗芸能に取材した「上伊手剣舞連」連作や、「原体剣舞連」の歌を詠んでいます。これが後に『春と修羅』所収の名作「原体剣舞連」の詩へと発展しました。

〔…〕
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho!Ho!Ho!
〔…〕
太刀は稲妻 萱穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

身体の内部からあふれ出る生命の力、人間の中にひそむ自然そのもの、勁く荒ぶる修羅の心、そうしたものを当時の賢治は、ケンタウルスに感じ取ったのではないでしょうか。

とすると、「ケンタウルス、露をふらせ」というフレーズは、従来言われるごとく単純な雨乞いの文句ではなしに、もっとストレートに生と性の発露という意味合いを持っているのかもしれません。
ケンタウルスには、古来「好色で粗野」というイメージがつきまといました。手元の『イメージ・シンボル事典』(大修館)にも、「抑えられない情念、情欲、獣力」などが挙がっています(同時に「魂と知性との結合、宇宙の力、本能」も挙がっていて、そのイメージは多義的です)。そこに雨乞いのイメージを重ねると、古代人が、降雨現象を父なる天空と母なる大地の聖婚と考えたことも連想されます。

(虎を狩るケンタウルス。ローマ時代のモザイク画。
出典:http://www.lessing-photo.com/dispimg.asp?i=10010869+&cr=31&cl=1

先ほどの銀河鉄道の車内の光景に戻ると、あの場面には、幼い姉弟を庇護する青年牧師風の家庭教師が出てきます。彼はジョバンニと唯一神をめぐる問答を交わし、キリスト教的神の存在をジョバンニに得心させようとしますが、ジョバンニは納得しません。キリスト教的神観念を超えた、もっと根源的な「神」があるに違いないとジョバンニは考えているからです。

その直前に、ジョバンニよりもさらに幼い男の子が、「ケンタウル、露をふらせ!」と叫んだわけですが、私は最初、この箇所に強い違和感を覚えました。ケンタウル祭は、キリスト教的伝統の中では、明らかに異教的性格を持つものであり、敬虔なキリスト教教育を受けたはずの男の子が、なぜ「ケンタウル、露をふらせ!」と叫んだのか不思議に思ったからです。

銀河鉄道は死者を運ぶ列車ですが、ストーリーを裏打ちしているのは、強烈な生の観念であり、そこには、生と死を止揚した命のドラマがあるように思います(男の子の姉が語った蠍の説話も、「自己犠牲ノススメ」というよりは、自己の命を滅却して他者の命を燃やす、「命のリレー」という点に力点があるのかもしれません)。

幼児という、より「自然的存在」が、キリスト教的議論を無化するように、星界に向かって「ケンタウル、露をふらせ!」と叫んだことは、やはり大きな意味があるように私には思えます。

…さて、以上の考察を踏まえて、時計屋のショーウィンドウに戻ることにします。

(この項つづく。なお、この項はどこまで真面目でどこから冗談なのか、自分でもよく分からないので、適当に読み飛ばしてください。)


【おまけ】

賢治が学生時代に読み得た、盛岡高等農林の天文学関連の蔵書の中で、ケンタウルス座の表記がどうなっているか、今分かる範囲で調べると、以下の通りです。

・明治12年『洛氏天文学』(ロックヤー著/内田正雄・木村一歩訳)
…センタウルス、センチュアル
・明治38年『天文講話』(横山又二郎著)
 …せんたうるす
・明治39年『宇宙研究星辰天文学』(ニウコンム著/一戸直蔵訳)
 …せんとうるす
・明治43年『恒星解説』(日本天文学会)
 …ケンタウルス
・明治43年『最新天文講話』(本田親二著)
 …ケンタウルス

ケンタウルスの名称は、明治43年以後、日本天文学会がお墨付きを与えてから普及したもののようですが、いずれにしても、ケンタウルス座にまつわる星座神話のたぐいは、上記の諸書には書かれていないので、賢治がケンタウルスに託したイメージは、賢治独自のものだった可能性が高いと考えます。(まあ、文学・神話のコーナーで読んだかもしれませんが…)