ジョバンニが見た世界…小さな望遠鏡(1)2013年01月09日 20時35分29秒

「またその〔=星座早見の〕うしろには三本の脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光って立っていましたし…」  (四、ケンタウル祭の夜)

時計屋のショーウィンドウの奥に鎮座する望遠鏡。
「黄いろに光って」とありますから、真鍮製の望遠鏡にちがいありません。真鍮製のアンティーク望遠鏡は、それこそ無数に存在しますから、ここでは「小さな」という条件だけに注目して、それらしい望遠鏡を適当に置けばよいことになります。

とはいえ、それでは話がすぐに終わってしまってツマラナイので、以下に若干考証めいたことを加えます。

   ★

あの場面を考える最大のヒントは、賢治自身が文章を書きながらどんな望遠鏡を思い浮かべたかを知ることでしょう。そのためには、彼の望遠鏡体験がどんなものであったかを考える必要があります。

草下英明氏は、宮澤賢治と星(学芸書林、1975)に収められた賢治の天文知識についてという論考の中で、次のように書いています。(原文は全体が1つの段落。引用にあたって適宜改行を入れました。)

「次に賢治の天文に関する知識が書物の上や星座の趣味程度に止まらなかった例証として、望遠鏡でも天体を覗いてみたことのある事実を挙げてみよう。

大正13年3月25日に作られた『晴天恣意』という作品には(水澤緯度観測所にて)という副題があって、これが木村栄博士のZ項発見で名高い水沢の緯度観測所を訪れた時の作品であることが分る。

賢治は水沢の観測所をこの時ばかりでなく何度も訪れていたようである。年譜の昭和2年の項にも「凶作の予報あるごとに、盛岡観測所や水沢天文台を訪れて対策を講じ」とあるし、全集第5巻の『風の又三郎』異稿の中に、又三郎が緯度観測所で一休みして、所長の木村博士と技師がテニスをしているのを見て、一寸いたずらをさせている。

けれども賢治が観測所を訪れた目的は、別に望遠鏡を覗く為だけでなく、観測所では天体観測に及ぼす気象現象の影響の研究のため気象観測も同時に行っていたので、主にその方に用事があったからである。だから緯度観測所を頻りに訪れたということが、そのまま望遠鏡を覗いたという証拠にはならない。

しかしながら晩年の手帳詩篇中の『月天子』という作品には、

  盛岡測候所の私の友だちは――ミリ径の小望遠鏡でその天体をみせてくれた

という一節があって、緯度観測所でなく、盛岡測候所の小望遠鏡で月を覗いたことを
教えてくれる。恐らくこの時、月ばかりではなく他の天体、あの『銀河鉄道の夜』に美しくえがかれている白鳥座の二重星アルビレオや、『晴天恣意』で言及しているアンドロメダの連星(多分γ星)等を覗いてみたことであろう。

測候所でもこんな風であったのだから、緯度観測所でも同じ様に再三覗かせて貰ったに違いない。それにしても望遠鏡で得た肉眼では味わえない天体の美を、なぜもっと作品の上に表現してくれなかったかと惜しまれる次第である。」
 (pp.27-28.)

(水沢緯度観測所。過去記事より。http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/02/15/

賢治は地元の測候所や緯度観測所で、何回か望遠鏡を覗いたことがあったようです。
しかし裏返せば、望遠鏡体験をうかがわせる記述が(たぶん)これしかないということでもあり、これはある意味、意外です。

盛岡高等農林学校の研究生時代、あるいは稗貫農学校の理科教師時代に、学校備品の望遠鏡を使用したという話も聞きませんし(※)、稲垣足穂のように身銭を切って望遠鏡を購入することもなかったというのは、「銀鉄」の作者としては、いささか寂しい気がします。

(この項、ねちっこく続く)

(※)賢治が在籍した学校に実際に望遠鏡があったかどうかは、寡聞にして知りません。しかし、賢治よりも早い時期に(=明治の末年)、甲府中学校の英語教師をつとめた野尻抱影は、理科室の望遠鏡を私的に使って、盛んに観望をおこなっていましたから、その頃には教育現場に望遠鏡が普及しつつあったこと、そして教員はそれを自由に使える雰囲気のあったことが伺い知れます。

コメント

_ S.U ― 2013年01月09日 21時30分38秒

 賢治の望遠鏡体験についてですが、以前、玉青さんが本ブログだったか日本ハーシェル協会のほうだったかは忘れましたが、「魚口星雲(フィッシュマウスネビュラ)」の由来に関連して、作品「土神と狐」の狐の話をご紹介されたことがあったように思います。その狐の話には「それは立派ですよ。僕水沢の天文台で見ましたがね」という言及がありますので、これは賢治がこの星雲を見たことを報告しているとも読めるのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年01月10日 06時14分58秒

あ、早々と「土神と狐」が。これは油断がならない。(笑)
狐については、今日の記事にも登場しますので、それを踏まえてさらに議論を深めていけましたら幸いです(まあ、今日の記事も駄法螺全開ですが;)。

駄法螺といえば、あの狐の発言は、全体が罪のない法螺、大言壮語という設定なので、あまり真に受ける必要はないと思うんですが、どうでしょう。
以前やりとりをさせていただいた折の記憶を思い起こすと、賢治のフィッシュマウスネビュラに関する記述は、純粋に本から得た知識に相違なく、しかもその記憶がかなり混線気味である、というようなことではなかったでしたろうか。
…と思いつつ検索したら、以下の記事でした。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/06/5142359

_ S.U ― 2013年01月10日 07時53分19秒

>「土神と狐」
 私のあやふやな記憶は、油断がならないかは別にして、他の方々にご迷惑をおかけすることが多々あるようです。「土神と狐」は"/2010/06/06/5142359 "の本文で引用されていたので、一応記憶としては当たってました。今後は出来るだけ原典を確認したいと思っています(笑)。

 本日(1/10)の記事で紹介された「ツァイス」は単なる「耳知識」に違いないのでしょうが、ここで賢治が狐にわざわざ「水沢の天文台で見た」と自慢させているのが気になりました。賢治も水沢で星を見せてもらったことが自慢だったのだと思います。そこで星雲を見たかどうかは別問題ですが、まあ賢治だったら、観測所の職員に奇体な形をしている星雲を見せてくれとねだりそうな気はします。本の知識で天体に憧れた人はだいたい星雲を見たくなるものではないかと思います。でも、それを確認するのは難しそうですね。

 畑山博著『教師宮沢賢治の仕事』にある農学校での授業の思い出話に、天文の話をしたことが見当たらないのも気になります。星の話をすれば憶えている生徒もいてよさそうに思いますが、たまたま何らかの事情で取材にかからなかっただけなのでしょうか。それとも学校で生徒に話せるほどの天文の情報を賢治は持っていなかったということになるのでしょうか。

_ S.U ― 2013年01月10日 21時44分58秒

関連してもう一点書かせて下さい。前のコメントの続きとお考え下さい。
 
 以前に、玉青さんのお助けを得て、稲垣足穂の「天文普及活動」について考察(URL)した際に、足穂がリアル天文に触れた期間として、30代の明石時代から昭和20年代までを挙げ、その後はまた「精神世界」の天文に帰って行った、というようなことを書きました。これによると、足穂は20年程だけリアル天文をやっていたことになります。(ここでリアル天文というのは、通常の「アマチュア天文学」をやったという意味に取っていただいてかまいません)

  20年というのは一般的には短い期間ではありませんが、足穂は10代から死ぬまでの60年余、基本的に同じような作品活動を続けて続けてきた人なので、この20年は長くはないと思います。また、宮沢賢治の同様のことについてはよく知らないとその時に書きました。

 それで、今回ふと思いついた推測なのですが、賢治においてもリアル天文に触れた期間は活動期間に比べてかなり短かったということはないでしょうか。つまり、宇宙や星雲への観念的な思想は別にして、彼が一般の人はあまり知らないような天文知識を吸収した期間、そのような知識を他人に語った期間を短く絞ることは出来ないでしょうか。

 この問題については、ご引用の『宮沢賢治と星』の中の「賢治の天文知識について」が参考になりますが、たとえば、その期間を中学時代と東京から農学校に移った前後1921~1924年の間だけ(←これは根拠のないただの例です)とかに限ることができるかもしれません。もし、彼のリアル天文の知識が短期間に一気に蓄積されたすると、彼の天文知識が偏っていたり、作品への反映が悪い理由を考えることができるのではないかと思います。

_ 玉青 ― 2013年01月12日 20時02分01秒

お返事が遅くなりました。

「土神と狐」で、わざわざ水沢という固有名詞を出しているのは、よほどそこでの経験が印象深かったのでしょうね。ちょっと微笑ましい気がします。

さて、賢治の天文知識については、私も草下氏の本に書かれている以上のことは知らないのですが、それを読む限り、一貫して興味が持続したというよりは、間欠的に複数回のマイブームがあった感じですね。

草下氏の文章をつまみ食いすると、ブームの最初は、まだローティーンの中学2年生のころ(明治43年)で、盛んに星空を眺めたり、手作りの星図を作って得々としていた時期です。次いで、旧制中学を卒業した18、9の頃(大正3年)にも星座熱が再燃したらしく、この頃の歌には繰り返し天体が登場します。そして、賢治最大の天文ブームが、20歳代半ばの大正10年から13年にかけて(すなわちS.Uさんが挙げられた1921~24年)で、吉田源次郎の『肉眼に見える星の研究』に感服したり、天文知識を友人知人に吹聴して回ったり、水沢緯度観測所に出入りしたりしていた時期です。賢治の天文知識は、こうした各時期に、わりと一般的な通俗天文書から仕入れたものが多かったようです。

賢治は専門の農芸化学分野はもちろんプロですし、鉱物なんかもセミプロ級の知識があったようですが、こと天文に関してはごく素人臭い部分があって、授業で進んで語ろうとしなかったのは、こう書くと僭越ですが、ちゃんと「分を弁えていた」のではないかなあ…と想像します。

_ S.U ― 2013年01月13日 08時57分46秒

>マイブーム
 そう、まさに「マイブーム」ですね。この賢治には似つかわしくない軽い語感がいいです。
 
 この賢治のリアル天文の知識には、ご指摘の専門分野、自然科学全般、宇宙観、教職、宗教、文学的才能...他にもあるでしょうが、それらの考えがずらーと裏打ちされているようですから、薄いのか厚いのかなかなかわからないです。

_ 玉青 ― 2013年01月13日 11時39分42秒

仮に賢治の天文知識の大半が通俗的なソースに拠っていたにしろ、そこにいろいろな素材・味付けが加わることで、出来上がった作品はきわめて滋味豊かなものになっていますから、それこそが賢治の「腕」であり、尽きせぬ魅力でもありますね。

_ 霜ヒゲ ― 2013年01月14日 21時17分23秒

玉青様、こんばんは

水沢ですと山崎正光氏が技師として赴任していた時期(1923.12~)と少し重なりますね。
山崎氏の手記によると、氏は私物のウィリアム・モギーの10㎝屈赤(一時期町田市立博物館等に展示していたもの)や20㎝山崎式コメットシーカー(水沢でクロンメリン彗星を発見)を観測所に持ち込んでいたようです。(山崎正光「私の天文学経路」 天文ガイド別冊「彗星」に所収)

銀河鉄道の夜のイメージとは少し離れてしまうかもしれませんが、賢治がこれらの機材を使用している様を勝手に想像するのも中々楽しいです。(山崎氏もこれらの望遠鏡を堂々と持ち込んだものでもないようですし、それを部外者の賢治に使わせることは可能性としては極めて低いんでしょうけれど)

_ 玉青 ― 2013年01月15日 21時13分40秒

コメットシーカーを覗く賢治。
透明感のある、なんとも素敵なイメージですね。
山崎氏も天文史においては異色異能の人ですし、ぜひ両者に接点があってほしいです。
(まあ、たとえ深い付き合いはなくとも、廊下ですれ違ったことぐらいはあるかも…)

_ S.U ― 2013年01月16日 06時22分38秒

すみませんが、もう一点、しつこく食い下がらせて下さい。
 草下氏の『宮沢賢治と星』のご引用部分に、「賢治が観測所を訪れた目的は、別に望遠鏡を覗く為だけでなく、(中略)気象観測も同時に行っていたので、主にその方に(中略)望遠鏡を覗いたという証拠にはならない。」と書かれているのが気になります。

 ここで、草下氏は、単に、賢治は(農業との関連で)気象観測の結果についての情報を得るために水沢観測所や盛岡測候所を訪れた、(その場合は特に天文とは関係ない)、ということを述べているのだと思います。私はこの主張におおむね異存はありませんが、しかし、それだけで済ませてしまって問題ないでしょうか。

 賢治が太陽黒点活動と気象を結びつけて考えた可能性を、以前に玉青さんにご紹介いただきました。彼が天文と気象のつながりについて考えたことと、これらの観測所の訪問に何らかの関係がなかったかのでしょうか。また、緯度観測所と言えば地球自転の変動問題ですが、その原因が気象状況にあるという説もあったようです。

 解明の難しい問題だとは思いますが、まず史実の順序と賢治の考えの発展を整理して考える必要があり、このあたりについてできればいずれ整理して考えてみたいと思います。よろしければ、またお考えをお聞かせ下さい。

_ 玉青 ― 2013年01月16日 22時25分30秒

たしか関連記事は以下でしたね。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/02/23/4901471

地球自転の変動はひとまずおいて、太陽黒点の問題は、状況証拠の示唆するところ、まず間違いなく賢治の念頭にあったことと思います。ただ、直接証拠が乏しいので、その辺を跡付けるのは、かなり大変な作業になるかもしれませんね。
何か書簡に関連する記述がないか…とも思ったのですが、賢治の書簡というのは、大正11年から14年にかけての3年間(まさに本件で肝となるはずの3年間!)が欠落していて、現在に至るまで、ただの1通も発見されていないそうです(←筑摩版・新修全集解説)。不思議と言うか、残念と言うか、とにかくその間の彼の思索の跡は、ちょっと謎めいている感じですね。

_ S.U ― 2013年01月17日 06時58分07秒

なるほど、この問題の解明はやはり難しそうですね。お調べありがとうございます。
こうなると、観測所側の記録から探るのがよいのでしょうか。当時は、広報担当などあったはずがありませんので、こちらも期待できないでしょうね。

 以前も書いたことがありますが、「永訣の朝」(1922)に「銀河や太陽、気圏...そらからおちた雪」という美しくも印象的なフレーズがあって、これは科学的に見れば天文と気象をいっしょくたにした暴論なのですが、彼の太陽黒点についての考えを聞いてもっと深い科学的な思想があった可能性を考えました。賢治の宇宙観については、宗教的側面と科学的側面が一体になっていると考える人が多いかもしれませんが、愚見では、やはり一度はリアル天文学に基づく思考が切り離せるか検討することが必要だと思います。

_ 玉青 ― 2013年01月19日 16時14分01秒

>銀河や太陽、気圏...そらからおちた雪

広大無辺な世界から舞い落ちた一片の雪。
賢治は白く透明な雪の向こうに、はるか天上の銀河を直覚したのでしょうか。

ふと連想したのは以下の記事です。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/06/27/4394800
ここで賢治は、一片の雪を凝視することで、逆に分子・原子という極微の世界へと入り込んでいきます。彼は結晶化した水に、マクロ・ミクロの宇宙全体を通底する普遍的な理を見て取ったのかもしれませんね。と同時に、愛する者との別れの場面にあって、それは「聖い資糧」、「天上のアイスクリーム」でもあり、その間に何の矛盾もない…というのが、彼の世界なのでしょう。

賢治にとって科学と宗教は、「一体化」していたというよりも、別のレイヤーに属するものとして「重ね書き」されていたのかなという気もするのですが、でも一段高いところから見れば、やはり一体化していたのかもしれず、結局よく分かりません。いや、本当はよく分かるのですが(賢治に限らず人間は大抵複数の世界を同時に生きつつ、そこに矛盾がないという意味で)、言葉にしようとすると、ちょっと上滑り気味になって、なかなか正体をつかまえづらいです。

_ S.U ― 2013年01月19日 20時49分24秒

 私は科学と宗教の間の機微には多少鈍感なようで、玉青さんのお感じになっているところが捕らえられているか心許ないですが、雪片を見、銀河を見る賢治の目に、ご指摘の「現代原子物理学」的観点があったかどうかは重要な視点だと思います。我々は、ガモフ、ホイル、チャンドラセカール以降の時代の天文学の徒ですから、我々の身体を構成しているのは恒星中で合成された元素、より具体的には原子核であり、その意味で、我々は言葉そのままの意味で「星の子」であることを知っています。このような考えを賢治が早くも感じ取っていたかという問題は実に興味があります。

 彼は、恒星内での元素合成は知らなかったでしょうが、ご引用の図を見るに原子核は知っていたわけですね。食物も人体も無機物と同様すべて同じような形をしている原子からできているということを知ってそれに考えるところがあったと推測しますが、はたして賢治が自らの感覚でそれを発展させ、宇宙と生命は「同体」であるという「星の子」の認識にまで到達していたのでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年01月22日 22時13分31秒

難しい問題ですね。
現時点では、十分な論をお示しできないことを遺憾とします。
ただ、「星の子」論を介在させずとも、永劫に続く(と当時は考えられていたであろう)物質循環という科学的概念や、あるいは仏教的な生成流転の説を、賢治は熟知していたはずですから、彼が宇宙と生命が同体であることを強く意識していたのは間違いないと想像します。

_ S.U ― 2013年01月24日 07時13分46秒

現代科学が精神活動に果たした役割をできることなら分離して見たいのですが難しいようですね。現代科学も、その精神的作用のかかり方は、諸派一般の哲学や宗教と変わらないのかもしれません。

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