石田五郎氏のこと (1)2013年02月13日 00時53分47秒

雨の音を聞きながら風呂に入っていたら、途中からシャリシャリという音がまじり出し、どうやら雨がみぞれに変わったようです。冷たい滴が空から無性に降ってきます。

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かなたに星に惹かれる歌舞伎役者あれば、こなたに歌舞伎に惹かれる天文家あり。
団十郎の天文趣味について書いていて、ふと思い出したのは故・石田五郎氏(1924-1992)のことです。

石田氏は岡山の天体物理観測所に長く勤務され(1969年以後は副所長)、その経験を洒脱な文章でまとめた『天文台日記』は、私の大のお気に入りの本で…ということは、以前書いた記憶があります(今も中公文庫BIBLIOに入っているので手軽に読めます)。

石田氏が「万年副所長」に甘んじたのは、学界の種々の事情があったのかもしれませんが、思うに予算と人事に消尽させられるトップよりは、氏の精神活動をより自由ならしめるには、かえって好都合だったのではないでしょうか(本当のところは分かりませんが)。

まこと石田氏は、研究者の枠に収まらぬ、幅の広い趣味人でした。

少年時代から野尻抱影に私淑し(中学1年の時に、4か月分の小遣いをためて、抱影の『星座神話』を買い込んだというエピソードがあります)、のちに直接親交を結ぶと、自然そこには師弟の関係が生まれ、後に石田氏は翁のことを「初代天文屋」と呼び、自らは「二世天文屋」を名乗るようになりました。豊かな知識を背景にした星のエッセイストとして、両者は師弟であり、畏友でもありました。

二人を結びつけたものは、星に寄せる思いは言うまでもありませんが、芝居(歌舞伎)好きという共通の要素があったことも大きかったようです。抱影は浜っ子、石田氏は江戸っ子(生家は上野の商家)で、ともに洒脱なことが大好きで、芝居好きもその延長だったのでしょう。

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手元に、『天文屋 石田五郎さんを偲ぶ』という、ご友人たちが出した私家版の追悼文集があります。そこには「天文関係」、「出版関係」、「親族」といった寄稿者の区分と並んで、特に「歌舞伎関係」の一章が設けられています。

石田氏は十七代目の市村羽左衛門(2001年没)と昵懇の間柄で、岡山で羽左衛門と梅幸の芝居巡業があったときには、特に許されて黒衣(くろこ)姿で舞台袖に座ったそうですが、これは素人としては破格のことで、それだけ石田氏が芝居に入れ込んでいた証しでしょう。

(口絵頁より。左・黒衣姿の石田氏、右・市村羽左衛門)

また羽左衛門の息子、当代の市村萬次郎さんも根っからの天文好きで、岡山の天文台には巡業のたびごとに10回訪れたと文集にあります。その関係もあって石田氏と羽左衛門とは家族ぐるみの付き合いがあったということです。以下はその萬次郎氏の文章より。

 「父〔=羽左衛門〕が芝居の質問に手紙で答えたのが切っ掛けでした。この出合いは、物理・天文好きの私としては願ってもないことでした。事実、歌舞伎の地方巡業で岡山へ行った時には、必ずといっていい程、鴨方の天文台へおじゃますることになりました。たとえ台風が来てて、どしゃぶりの雨となり、雷が落ちて停電になろうとも、ロウソクの明かりの下、星と芝居の話に花を咲かせました。

 後に先生が人に紹介して下さる時に、「僕より星のことにくわしいよ」と冗談を言われましたが、「先生の方が私よりずっと、芝居のことにくわしいです」とこれは本気で答えました。実に細かに芝居のことを御存じでした。それは決して表面的に数多くのことを知っているということではなく、芝居のことが心から好きだったからこそ、自然と身についた知識であったと思います。」

雨の宵、天文学者と歌舞伎役者が、ろうそくの明かりを点して、夜通し星と芝居の話題で語り明かす…。何とも風情がありますが、「主」が石田氏でなければ、とてもこうはいかないでしょう。

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いろいろ湧いて出る思いに誘われて、石田氏の短文集『天文屋渡世』(筑摩書房)を手に取って、以前は気付かなかったことにいくつか気づいたので、ちょっとメモしておきます。

(この項つづく)

石田五郎氏のこと(2)2013年02月13日 22時26分16秒



石田五郎氏の『天文屋渡世』。
この本は昭和63年(1988)、筑摩から出ました。昭和20年代から60年代まで、石田氏があちこちの新聞・雑誌に書いたものを集めた文集です。

この本を再読して、改めて「へええ」と思ったことがいくつかあります。それらはいずれも野尻抱影に関することで、星そのものよりは、いくぶん人事寄りの話題です。

(1)『星恋』はかつて稀書であった。

抱影と山口誓子の句文集『星恋』は、今では古書検索サイトにいけばいつでも買うことができます。しかし、この本はかつて「幻の書」と呼ばれたらしいです。

 「久しく幻の書といわれていた抱影・誓子の珠玉集『星恋』がこのほど復刊された。星座研究の野尻抱影と俳句の山口誓子とが星に対する思いのたけを競い合うように文字にしたもので、初版は昭和二十一年六月、鎌倉書房の刊行、用紙も造本も敗戦直後の粗末なものであったが、星好きの人々には希望となぐさめとを与えるこよなき贈り物となった。再版は昭和二十九年、中央公論社の新書版で、あまり世に騒がれずに姿を消した。両者とも古書展などで目にとまる機会はほとんどない。このたび『定本・星恋』として深夜叢書社から復刊されたのは慶賀にたえない。」(p.35)

そうと知ってみれば、本棚の隅に立っているこの本が、いっそう有難いものに見えますし、同時にネット時代になって、一部の古書が値崩れを起こしている理由もよく分かる気がします。

(2)石田氏と抱影とは3度しか会ったことがない。

初代と二世の「天文屋」である両者は、生前深い親交を結んだことは間違いありません。しかし、直接会ったことは生涯に3度しかないと聞いて、ちょっと驚きました。
上記『星恋』の誓子と抱影にいたっては、一度も顔を会わせぬまま、この名著を上梓したそうですが、星つながりというのは、なかなか常識では律しきれぬものがあります。

 「星の大家の抱影先生にはじめて会ったのは昭和三十二年三月、東京渋谷の駅前に新築なった五島プラネタリウムの開館レセプションの折であった。大勢の人込みの中で科学博物館の村山定男氏から紹介され、おそるおそる名乗りをあげると、
「石田君テ、もう少しやせた人かと思った」これが私のきいた端正な老先生の第一声であった。当時、私が朝日新聞にかきつづけていたコラム「星の歳時記」の文章には目を通しておられるようで、二、三の感想をのべられた。
 その後間もなく、日本放送のラジオの対談の相手にとよび出された。また私自身のプラネタリウムでの講演の時に出会い、生前お目にかかったのはこの三度きりである。やがて私は岡山県の山奥の観測所に赴任し、以後ハガキの文通がはじまり、昭和五十二年に亡くなられるまでに三百通を超えるハガキが岡山に届いている。」
(pp.198-99)

(3)抱影は足穂の小説を読みとおしたことがない。

足穂は抱影のまことに純なファンで、戦後、草下英明氏の引き合わせで一度だけ顔を合わせた際も、含羞からまともにやりとりできなかったといいます。抱影は抱影で、足穂のことを「高踏派」と呼んで、手に余るものを感じたらしいですが、その後日談として、石田氏は抱影の次のような私信を紹介しています。

 「昭和五十二年十月三十日に御他界、奇しくもその五日前の十月二十五日に宇宙論の詩人稲垣足穂氏が死去しているが、「タルホ君は昔小宅を訪れ、漢代出土の白玉の杯でビールを飲ませたところ喜んでゐました。全集(?)が出た時も寄稿を頼んで来たが、小説を貰つても内容がややこしくて読み通したことがないので断りました。」(46・6・29付)。早足の抱影先生のこと故、御両所はあるいは六道の辻あたりで会われたかもしれない。」 (p.206)

どうも、最後まで足穂の片思いに終わった気配です。見ようによっては、微笑ましいエピソードと言えなくもないですが、抱影もつれないといえばつれない。