去るモノ、来るモノ2013年03月03日 12時00分44秒


(古書の上にも春は来にけり。先日京都の古書店で買った明治の錦絵)

ジョバンニの話は1回お休みします。
ふと気がつけば、いつの間にやら弥生三月。
寒気がゆるんで、文字通り春を感じるようになりました。

春とともに人間は活動的になるのか、昨日は家具の地震対策をしたり、不要な本を古本屋に持っていったり、近々届くもののためにトントン工作をしたり、一日忙しくしていました。

処分した本というのは、ある有名な思想家の全集で、「いつか読むかもしれない」と思って買ったものの、結局30年近く一度もページを開かなかったという曰くつきのものです。この先も絶対に読まない自信があったので、少しでも床への荷重を減らすため、売却することにしました。

学生時代、かなり無理をして買ったのですが、売価は6千円也。
今は全集ものはダメです。岩波の叢書もひどい。全く荷が動きません。学生が本を買わなくなりましたから。エライ時代になりました。私らも一体どうしたらいいのか…」と、店主氏はしきりにこぼしていました。

店主氏は、主に教養としての読書の衰退にその原因を求めているようでした。
確かにそれも大きな原因でしょう。でも、全集が売れなくなった理由は、ほかにも思い当たります。それはたぶん百科事典が売れなくなったのと同じです。要するに全集が編まれた背景には、「本への愛情」以外の要素、すなわち「情報を便利に取り出すための装置」という要素が少なからずあって、だからこそより便利な装置が登場すれば、淘汰されるのは必然なのでしょう。

これからも「便利な装置」としての本の需要はますます減っていくはずです。それはすべて電子媒体に置き換え可能であり、その方が便利だからです。後に残るのは「愛情の対象」としての本だけかもしれません。

   ★

「近々届くもの」にも、全集と一寸似たところがあります。
かつては便利なものでしたが、今はまったく需要がありません。そして値段の推移も全集のそれをなぞっているかのようです。でも全集と同様、存在感だけはあります。私はそこに愛情を感じて、うやうやしく迎え入れることにしました。結局、部屋への荷重はプラマイゼロ。何だか愚かしい気がしますが、谷崎潤一郎に言わせれば、「愚(おろか)」というのは、それ自体尊い徳であるそうなので、ひとつ徳を積んだと思うことにします。