3.102013年03月10日 12時15分05秒

2年前の今日、このブログでは、栃木県にある「木の葉化石園」について呑気な記事を書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/03/10/5734095)。

当時、私は明日何が起きるか知らなかったし、考えることもしませんでした。日本中の多くの人がそうだったでしょう。「もし知っていたら…」というのは、一見無意味な問いのようですが、しかし決して無力な問いではないと思います。少なくとも、今はその帰結を知っており、しかも知っている者として果たすべき義務が何かも分かっているわけですから。

たしかに過去を書き換えることはできません。しかし、「3.11」は風化を防がねばならない過去なんかでは決してなく、まさに現在進行形の「今」だということを思い起こす必要があると思います。

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…と書きながら思うのですが、ここにはいくぶんか建前もまじっていて、私自身3.11のことを忘れている日があることは認めざるを得ません。どこかで3.11を過去のことだと思っている(あるいは、思いたい)気持ちがあるせいでしょう。

あまりにも大きな困難から逃れたくて、困難にくるりと背を向けても、困難が消えてなくなるわけではない。彼は依然として悪魔のように笑いながらこちらを窺っており、それを半ば知りながら、敢えて知らないふりをしている。今の心の内に広がる、びまん的な焦燥感の原因はそこかなと思います。

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ポスト3.11をめぐる不幸は多々あるでしょうが、「絆」という言葉が多用された結果、それが一種の建前になってしまったことも、大きな不幸の1つだと思います。

今や「復興支援・絆」と聞くと、何となく身構えるというか、政治的思惑や商業主義の影をまず疑ってかかる習慣ができてしまったのは(少なくとも私はそうです)、寂しいことには違いありません。情緒に訴える力が強かった分、安易にお題目として使われ過ぎたのが良くなかったのかもしれません。本当は今でもいちばん大切なことだし、今こそ他者への無関心と想像力の欠如に立ち向かわねばならない時だと、自戒を込めて思います。

今後への具体的な処方箋はさまざまあれど、根幹にあるべきは、素朴な互助の精神だという気がします。

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どうも言っていることがまとまりませんが、私は本音と建前という言葉によって、本音を持ち上げ、建前を腐すことを意図しているわけではありません。そもそも、歴史を動かしてきたのは、多くの場合、本音よりも建前、少なくとも「建前のお面をかぶった本音」ですから、建前は建前で必要だし、その論理を鍛え上げることも大切でしょう。


というわけで、話は冒頭に戻って、ぐるぐるエンドレスになりますが、ぐるぐる回っているうちに心が少し自由になって、見えてくるものもあるような…。
(もうちょっと考えてみようと思います。)