ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(3)2013年05月19日 15時17分49秒

幼いジョバンニが、一家の生活費の足しにとバイトしていた活版所。
それを何とか目に見える形にできないか?というのが、今回の連載の目標です。

(「ぎ」「ん」「が」)

まずは原文から。

「〔…〕 家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

 ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

 六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

 ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。」         

                                     (「二、活版所」 より)


私はこれまで漠然と、「町の印刷屋さん」を想像していました。しかし、改めて本文を読むと、そこは、「たくさんの輪転器」が回り、職人たちが「たくさん働いて居」る、「大きな活版処」だと書かれています。とすると、これは個人営業の小店舗などではなくて、相当大きな会社組織の印刷所のように思えます。

ジョバンニたちが暮らすのは、子どもの足でもすぐ町外れまで出て、そこから先は丘やら林やら広がっているような田舎町です。それでも通りにはネオンが輝き、大きな活版所が盛んに輪転機を回しているくらいですから、大都会とは言えないまでも、「地方の小都市」くらいの規模はあるのでしょう。

   ★

ここから先、ジョバンニが働く活版所を考究するアプローチはいろいろありえます。

1つは「モデルアプローチ」。
つまり、賢治が創作の際に思い浮かべたモデル地(=実在の場所)を探るという方向性です。今の場合だと、たとえば賢治の故郷・花巻を作品の舞台に比定し、彼が『春と修羅』の印刷を頼んだ活版所こそ、ジョバンニの活版所のモデルだとする説などがそうです。

(『春と修羅』奥付。印刷者として花巻の吉田忠太郎の名が見える。)

これについては、花巻商工会議所が開設し、米地文夫氏が案内人を務めるサイト、「賢治・星めぐりの街」(http://www.harnamukiya.com/index.html)に詳細が記されています(以下のページを参照)。

■(24)「銀河鉄道の夜」と活版所跡
 http://www.harnamukiya.com/guidebook/page24.html

(おまけ。『春と修羅』の掉尾を飾る作品、「冬と銀河ステーション」)

   ★

もう1つは「創作アプローチ」です。

「銀河鉄道の夜」の文章そのものに基づき、そのフィクショナルな世界を、想像を交えて再構成するという方向性です。まあ、これはアプローチというより、作品を読みながら、読者がみな脳の中で自然に行っていることですから、読者の数だけ答があって良く、特に正解があるわけではありません。
しかし、さらに進んで、それを絵や映像で表現するとなれば、より多くの読者を納得させる造形なり、ディテールなりが、自ずと決まってくると思います。

そのためには、時代や場所等、作品世界に関する考証が必要不可欠。
「銀河鉄道の夜」の舞台として、賢治は漠然と「南欧あたり」(具体的にはイタリアか)を想定しましたが、いかにハイカラ好みの賢治とはいえ、彼が実際に参照しえた南欧の風景や文物は非常に限られていたはずで、むしろ「かくやあらん」という「空想の南欧」だからこそ、現実の南欧よりもいっそう美しく、夢幻的なストーリーをそこに描くことができたのでしょう。

   ★

これら2つのアプローチのうち、文学史的に興味深いのは前者でしょうが、ジョバンニが見た世界を考えるには、当然後者のアプローチに拠らねばなりません。
とはいえ、モデルアプローチの成果は、創作アプローチの考証材料ともなりますし、創作アプローチで解釈しがたい点は、モデルアプローチに拠らざるを得ない部分もあるでしょう(※)。つまり、両者は相互排他的なものではなく、結局、「モデルはモデル、作品は作品」ですから、2つのアプローチは、基本的に別次元の事柄を扱っているのだと思います。

   ★

さて、くだくだしい前置きが続きましたが、1900年前後のヨーロッパにおける、実際の活版印刷の現場を見に行きます。それらのイメージを重ね合わせた先に、ジョバンニの活版所も浮かび上がってくるものと予想します。

(この項つづく)


(※) たとえば、ジョバンニが靴をぬいで店に上がったり、一枚の紙切れを手掛かりに、小さな平たい函活字を次から次と拾うという作業描写。
 前者はもちろん日本家屋をイメージして書いたのでしょうし、後者の作業工程(文選、ぶんせん)は、欧米の印刷所にはないものですから、これも賢治が身近な印刷所で見聞したことを、作品に生かしたのだと推測できます(さすがの賢治も、欧米の印刷所の具体像を描くだけの知識は持たなかったのでしょう)。

コメント

_ かすてん ― 2013年05月19日 23時54分35秒

自分はわずかの期間と言えどもオフセットの版下作りの機械である写植機メーカーに籍を置いたこともあるので活版を駆逐した側にいるのでしょうが、活字好きとしてはどうも「活版」に望郷的な憧れ、失われた近代を感じます。まぁ、現場は憧れなどとはほど遠い世界だったのでしょうが。

_ 玉青 ― 2013年05月20日 06時01分06秒

え、かすてんさんにそんなご経歴があったとは。

>活版を駆逐

たつきさんにお答えした、私の2つ前のコメントの中で、「そして最近では、印刷も紙もすっ飛ばして、直接データをディスプレイで読む傾向に拍車がかかっていますね」と、今や写植もろとも紙の本自体が駆逐されつつあることに触れました。

で、それを書いた後で思ったのですが、実はこの後にもっと大きな変化が続くのかもしれません。それは情報を直接脳に伝える技術、いわば「文字の駆逐」です。

その時代を生きる旧派の人は、文字に切ないほどの憧れを抱くんじゃないでしょうか。

「…わしの若いころは、さすがにもう紙の本はなかったけれど、まだ端末(キミ、端末は知ってるよね?)を通して本を読むのが普通でね。だから当時は、「書籍」とか「読書」っていう言葉もまだ残ってた。画面に表示された文字を一生懸命目で追いながら、その場面を想像するのは、たいへんだったけど、楽しかったなあ…。今の若い人に、何とかあの楽しさを伝えたいけど、もう無理だろうね。何せ時代が変わってしまったんだから…」

_ かすてん ― 2013年05月20日 08時40分10秒

>活版を駆逐〜写植もろとも紙の本自体が駆逐〜文字の駆逐

私たちの前の世代が使いこなせた文字や語彙の数、私たちがなんとか使いこなせる数、今の若い世代が使いこなせる数、、、文字の駆逐は語彙の駆逐でもあり、語彙の駆逐によって理解・表現の世界がどんどん狭くなっていくでしょう。

この老人の懐古話はSFチックですが、「文字を一生懸命目で追いながら、その場面を想像するのは、たいへんだったけど、楽しかったなあ…。今の若い人に、何とかあの楽しさを伝えたいけど、もう無理だろうね。」時代はすでにそちらの方向へ進み始めている様です。

_ 玉青 ― 2013年05月20日 21時39分51秒

嗚呼…紙の本の運命とか、電子書籍は是か非かとか言ってるうちに、そもそも紙も電子も、本そのものを全く読まない人が増えているという事実を、否応なく思い出しました。いやはやどうも。。。

_ S.U ― 2013年05月21日 06時55分32秒

割り込みで感想ですが、本当に文字が駆逐されるような日が遠からず来るのでしょうか。私が生きている間に確かめられないのは残念ですが、それも歴史の必然なのかもしれませんね。

 電子書籍と言えば「青空文庫」ですが、そのアクセスランキングを見ると、
http://www.aozora.gr.jp/access_ranking/

 XHTML版とテキスト版で多少の異同がありますが、上位に夏目漱石、太宰治、宮澤賢治、夢野久作などの若い人の心をゆさぶるであろう名作が並んでいます。これは、時代を越えて今も若い人が読んでいるのか、それともオジサンが青春を懐かしがってか、それとも若い時に読み損ねたか、とか考えてしまいます。
 XHTML版のほうは、教科書にある名作が多いようです。牧野信一は意外ですが、これはセンター入試に全文が出題されたと言います。少なくともこれらは若い人が読んでいるのでしょう。上位にある作品が教科書に載っているかどうか分析してみると電子書籍の将来が占えるかもしれません。(ちょっと検索すると「人間失格」は抜粋ながらも出ているみたいです。「ドグラ・マグラ」は出ていないでしょう)

 国語の教科書と試験がある限り、当面、文字はなくならないにしても、それと離れた場面では、どんどん「活字離れ」も「テキストフォント離れ」も進んで行くのでしょうね。遠からず、文学なんぞ試験に出しても仕方がない、と切り捨てられる時代が来るかもしれません。

_ 玉青 ― 2013年05月21日 20時58分32秒

へええ、夢野久作は意外ですね。
青空文庫は調べ事には便利ですが、あれを画面上で通読するのは私にはちょっと難しいです。特に夢野久作ときたら、まったく頭に入りそうにありません。でも現にそれだけ多くの人がアクセスしている(そして多分読んでいる)ということは、単なる慣れの問題なんでしょうかね。

_ S.U ― 2013年05月22日 06時34分46秒

>まったく頭に入りそうにありません。でも現にそれだけ多くの人がアクセスしている

 確かに、少なくとも横書きのテキストでPC画面で夢野久作を読んでいると、頭に血が昇って(あるいは頭から血の気が引いて)、今この書を読むるは夢か現世か、読める我ははたして誰なるぞ、となりそうなので、適当な日本語ワープロ(私のお薦めは「一太郎」)に読み込ませて読みやすい字数字幅の縦書きにして印刷プレビューで読むか、あるいは「青空キンドル」のようなwebオンラインソフトを使って縦書きのPDFに変換して読むのが健康によいのではないかと思います。

 印刷して読む人もいるかもしれませんが、今試しに「ドグラ・マグラ」(ルビ有り)を一太郎のA4縦書き10.5ポイントデフォルトに入れると337ページになりましたので、ちょっとたいへんで、それなら文庫本を買うほうがマシということになると思います。
 
 私ごとですが、私は長らくモバイルPCで読んでいましたが、最近キンドルを買いました。少なくとも電気の節約には有効です。

_ 玉青 ― 2013年05月23日 06時31分32秒

あはは。なるほど、横組みの夢野久作にも、独特の怖さがありそうですね。(それと、ネットをテーマにした怪談は、紙の本より、やはり画面で読んだ方が怖いかも。)
S.Uさんの説明を拝見して、私にも青空文庫が楽しめそうに思えてきましたが、望むらくは、寝転がって読むことに最適化した端末機器が早く開発されますように。。。

_ S.U ― 2013年05月23日 07時43分09秒

>青空文庫
 よく見ると、「早わかり」に専用の縦書きビューアが提供されているみたいです。これがお薦めなのでしょう。挿絵とルビの処理については自明でないのでアプリごとにチェックの必要があります。

>寝転がって読むことに最適化した
 もちろん、この点については、キンドルを買って以来何度も綿密に試験いたしました(笑)。
 仰向けに寝っ転がって片手で読めるかは微妙です。男性で、腕・手の筋力と(並みの文庫本よりは重い)、手のひらの大きさが(画面の任意の位置をタッチするため)が人並み以上あるなら可能でしょう(私は手のひらが小さくてやや厳しい)。女性には困難かもしれません(仰向けに寝っ転がって本を読む需要を女性がお持ちかどうかは別問題として)。
 コボもSONYのも同じサイズに見えますので、このへんは同じでしょう。
 でも、本体を何かにもたれさせて立てて、人も横向きに寝っ転がって読むのは全然問題はありません。最適化とは言えないが「じゅうぶん可能」というのが私の結論です。

_ かすてん ― 2013年05月23日 19時26分48秒

>仰向けに寝っ転がって片手で読めるかは微妙です。
 これにはご注意を。読めると思っていても、いざ読み始めると眠りに吸い込まれるんですよ(気持ち良いですからね)。紙の本ならば額へ落下してページにしわが着くくらいで良いのですが、電子デバイスが落下して来たら、、、。横向きはともかく仰向けは危険です。iPadを落下させた経験者は語る。

_ 玉青 ― 2013年05月24日 06時20分11秒

〇S.Uさま、かすてんさま

リアルなレポートをありがとうございます。(笑)
いきなりガツン!は人間・機械双方にとって不幸なことなので、今少し工夫があってほしいところ。
文庫本もそうですが、冬場は布団から手を出すのも億劫なので、何とかぬくぬくと本が読めないかとよく夢想します。そうなるとグーグルグラスのようなウェアラブル端末とか、あるいは小型プロジェクタで壁や天井に本を投影するとか、そんな工夫があるといいのかもしれませんね。(実は、子供の頃はさらに億劫がって、「目を閉じたまま、まぶたの裏に文字が見えたらいいのに」と思いましたが、まだちょっとそこまでは難しいでしょう;)

_ S.U ― 2013年05月24日 08時01分39秒

ガツン!が危ないというご指摘をいただきました。それでは、仰向けに寝て、端末を持つ片手の肘をついて端末を斜め前方(寝っ転がっているから斜め上方)にし、首を少し曲げて読む方法をお薦めしたいと思います。これで、顔上落下は相当回避できると思います。腕力の不足もカバーできます。片手で持てない端末の場合はこの方法は使えません。

 グーグルグラスをかけたまま寝るのも、寝返りでグシャといくかと思うと恐いです。「目を閉じたまま、まぶたの裏に文字が見えたらいいのに」は、いずれ実現する時が来るでしょうね。現状の技術では、後頭部に電線をいっぱい着けるのではなかったかと思いますが、これも寝返りで首に絡まりそうで恐いです。

_ 玉青 ― 2013年05月25日 06時51分40秒

「(むにゃむにゃ)…そういえば、今度の世界仰臥読書学会のプログラムで、S.Uさんとかすてんさんのお名前を拝見しました。いよいよ、一連の成果を世に問う時が来たのですね!各国の研究者がどんな反応を見せるか、今から本当に楽しみです。どうぞ道中お気を付けて…」

「あら、この人、鼻提灯を出して何か言ってるよ。」

_ たつき ― 2013年05月28日 09時18分19秒

玉青様
さきごろ「ビブリオ古書店」というドラマが月9で放送されていました。ここにはいわゆる本の薀蓄がたくさんつまっており、今どきの人もこんなものを面白がるのかかと思い見ていました。店主の女性が人間よりも本が好きだったり、いわゆる書痴や、セドリ屋などなかなかマニアックな世界を繰り広げていました。原作はラノベですが、けっこういろんな世代のたくさんの人に受けているようです。やはり本を読むことと、情報を得るということは違うように思われます。
ちなみにここに「春と修羅」が出てくる回がありまして、賢治が出版のために活版所に通って手伝ったり、活字を町に買いに行ったり、というエピソードが少し出てきます。参考までにこの回だけでもご覧になったらいかがでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年05月29日 06時12分52秒

私は普段ドラマをほとんど見ないのですが、「ビブリア…」はテーマがテーマだったので、珍しく見ていました。でも、古書店のセットや鎌倉の風景にばかり注目していたので、ストーリーはあまり覚えていません(笑)。おかげで、世間ではキャスティングの是非を盛んに言ってたみたいですが、それもあまり気になりませんでした。
『春と修羅』の回ももちろん見ていました。賢治の話題ですから、もっと記憶に残っていてもいいのですが、何となくボンヤリとしか覚えていません。少年が祖父から本をプレゼントされて…みたいな話でしたよね。

>本を読むことと、情報を得るということは違う

まさに然り。
食事を楽しむことと、単に栄養を摂ることは違うのと同じように思います。

_ たつき ― 2013年05月29日 10時58分31秒

玉青様
あのドラマをご覧になっていたのならお分かりと思いますが、エンディングで毎回イラストと字幕で紙芝居風に本の紹介をしていましたよね。「春と修羅」の回はそこに賢治と印刷の関係が紹介されていました。活版所の賢治などのイラストもあったので、お暇があったら過去ドラマを無料で見られるサイトがありますから、ぜひそこだけでもご覧ください。
ちなみにドラマで使われていた古書はみんな本物で、数万もする本が小道具に使われていたそうです。「春と修羅」もそうだったのですかね。しかも、二冊も。玉青さんはお持ちのようですね、うらやましい限りです。
蛇足ですが、ドラマの舞台は私の住む町でした。たしかにきちんと鎌倉を撮ってくれていましたが、位置関係はめちゃくちゃでした。北鎌は山の中なので、ここの人は江ノ電や海とはほぼ関係ない暮らしをしているのに、平気で海辺を走っていたりして、突っ込みどころが満載で見ながら爆笑していました(笑)。

_ 玉青 ― 2013年05月29日 20時01分12秒

>うらやましい限り

いやあ、あれはもちろん「本物」ではなくて、ほるぷ出版の復刻版です(たしか2000円でした)。

>北鎌は山の中なので、ここの人は江ノ電や海とはほぼ関係ない暮らしをしている

え、そうなんですか。一口に鎌倉と言っても広いですね。
ともあれ、鎌倉は憧れの町のひとつなので、それこそたつきさんが羨ましい限りです。

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