悲しみよこんにちは2013年06月08日 21時19分52秒

最低限の日常生活は何とか送っているものの、趣味的な活動までは手が回りかねる…そんな1週間でした。

で、せっかくなので、この機会に考えてみました。
悲しみとは何であるのか。ヒトはなぜ悲しむのか」と。


喜怒哀楽…人間の感情を考えてみると、恐怖、それに恋愛感情は、その起源がはっきりしています。要するに、それぞれ攻撃逃走という個体生存に資する仕組みと、配偶者選択という種族維持に資する仕組みを反映したものです。
ですから、これらの感情は非常に原始的な、ひょっとしたら一部の無脊椎動物とも共通する部分があると思えるような反応です。

それに対して悲哀という感情は、ごく新しい、おそらくはヒトを含む一部の霊長類にしか備わっていない感情ではないかと思います。
問題は、なぜこんな厄介なものをヒトが持っているかです。

   ★

仮に、他の属性がすべて同じだとして、Aという種族には悲哀があり、Bという種族には悲哀がないとします。ちょっと考える分には、Aの方が生存に有利だとは到底思えません。

何せ悲哀にとらわれている間は、一種の不活期であり、個体の維持にも、種族の保存にも、まったく役に立たないように思えるからです。むしろ悲哀を持たないBの方が、何があってもバンバン積極的に行動し、生存や繁殖には有利なのではないか?個体のレベルで考えたって、悲しむことで得をすることなんて、何一つないように思えます。

もちろん、痛覚と同じように、悲哀を避けるよう行動することで、間接的に生存に有利になることは考えられますが、しかし悲哀は痛覚とは違って、明らかに快の性質も持っています。その証拠に、ヒトは自ら悲しい物語や映画を見聞するなど、積極的に悲哀を求める行動を示します。(ややこしくなるので、SM的嗜好はちょっと脇に置きましょう。)

   ★

じっと考えているうちに、答らしきものが見えてきました。
要は、個人よりも周囲の反応にあるのだと思います。

つまり、重要な他者(親や子、配偶者)を失ったり、負傷した個体(=生存に不利な状況に陥った個体)が示す悲哀反応は、周囲の援助行動を引き出す解発刺激として作用し、結果的に生存に有利な条件が作られるのではないでしょうか。

周囲にとっても、悲哀反応を示す個体を援助することは、集団としての適応性や凝集性を高め、その利益が間接的に自分に返ってくるのでしょう(…情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため)。上述した、ヒトが悲しい物語や映画を好んで見るという不思議な行動も、ここに由来するのではないかと想像します。

…という風に考えると、やっぱり長い目で見ると、悲哀を持った種族Aの方が、生存には有利であり、種族Bは淘汰される運命にあったのかもしれません。

   ★

悲哀はすぐれて社会的な感情であり、悲しい時は大いに悲しみ、人の情けを大いに受けるべきだ…というのが、本来の姿ではないかと思いました。そして、皆様のご芳情に、感謝の意を新たにした次第です。

(どうでもいいことを書き綴るだけの元気は取り戻しつつある様子)

コメント

_ S.U ― 2013年06月09日 06時01分25秒

悲哀の中に居られながら悲哀を客観的に分析される魂胆はただならぬことと存じます。でも、自分の心をコントロールすることが難しいと思う時は、こうしていろいろと策を探してみるものですね。

 なるほど言われてみれば、他者の悲哀を見た時に抱く、同情感、連帯感は、社会の存続のために有利に働くのでしょうね。「情け知らず」の社会は遠からず滅びるべきでありましょうから、それは当然であるかもしれません。

 それに加えて、人はさらにその悲哀に「美」を見いだします。これはなぜでしょうか。不幸自体はそう美しいはずはないのですが、悲しい物語や音楽は美しいものです。人の悲哀に同情し連帯し、それで安心を得て心が浄化されることは、演歌や浪曲の効用の示すところですが、悲哀は、単に他人の悲哀の姿が美しいのではなく、自分の不幸ですらしばしば美しく、悲恋の歌や不幸な運命に弄ばれる情話演劇は、そのような悲哀を身に沁みて知る人にこそ最高に美しいものであろうと思います。

 私にはこれの究明は困難ですが、この美的感覚は人間の何らかの最高レベルの精神作用に関係していて、それを自ら崇高なものと認めることによって人類が立ちゆくもの何かがあるのだと思います。

_ 玉青 ― 2013年06月09日 15時58分33秒

悲しみは時に崇高な感情と結びつきますね。
たとえば「慈悲」という言葉。
あの場合の「悲」は、他の苦しみを取り除きたいと願う心を言うのだそうです。
つまり、「悲」という文字は、実は本人の嘆きのみならず、その苦しみを救いたいと願う周囲の心をも包摂しており、いわば「共苦」の心を指すようです。
それは本来、誰もが持っている心なのでしょうが、それが外部に投影され、理想化されると、悲母観音とか、ピエタとか、崇高な宗教的表現を生むことにもなるのでしょう。あるいはさらに一歩進めると、魂の救済を説く宗教そのものが、「悲」の心に端を発しているのかもしれません。

_ 蛍以下 ― 2013年06月09日 17時02分27秒

あらゆる人間が平等に共有できる感情は、究極的には悲しみだけなんだろうと思います。
何かを獲得すると喜びが生まれますが、獲得し、勝利し続けていくことは不可能ですからそれも一時のことです。
生きていく以上、喪失と敗北しか最終的に残されていないのだから、まったくとんでもない話です。「でも事実だから仕方ない、美に昇華してやろう」といった感じなのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年06月10日 20時06分00秒

人間誰しも、いつかは自らの有限性を自覚しないわけにはいきません。
端的に言えば「死」。
それは寂しく、悲しい事実には違いありませんが、これぞ万人に共通する真理であり、相互理解のベースともなりうるものでしょう。
この真理を前に、人はいろいろな行動を取りえますが、個人的には、それが永遠や無限への憧れを生み、限りある人生を意味有らしめるための努力の基となってほしいです。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック