賢治の抽斗(第8夜)…法華信仰の世界(後編)2013年06月26日 22時53分19秒

賢治は、昭和5年に知人に宛てた手紙の中で()、法華経を知るための本として、2冊推薦しています。1冊は昨日の島地大等『和漢対照 妙法蓮華経』で、もう1冊が、山川智応による『和訳 法華経』です。

(左:『和訳法華経』、右:『和漢対照妙法蓮華経』)

山川智応(1879-1956)は、日蓮主義者の結社・国柱会を創設した田中智学(1861-1939)の高弟で、賢治が大正9~10年、いかにもカルトに走った青年然として、国柱会の門を叩いた時も、同会の幹部として、賢治からすれば仰ぎ見るような存在でした。

(奥付に押された山川の検印)

(巻頭に置かれた田中智学の識語)

法華経訓読史というのは、それだけで一篇の論文になるぐらい、歴史と広がりを持つもののようですが、その筋の専門家、田島毓堂氏は、この山川智応訳の法華経を、「忠実な訓読を目指しつつ、しかも達意の文章」になっており、「法華経訓読史上、十分留意しておく必要」があると、かなり高く評価しています(※※)。

(手元の本は大正5年の第8版。この本は新潮社から出たのですが、後に新潮文庫の一冊に収められるほど好評を博しました。)

試しに、昨日の「見宝塔品」の冒頭で比較すると、上が島地訳、下が山川訳ですが(いずれも用字や送り仮名を、平易なものに改めました)、確かに後者のほうが、こなれた日本語になっていると感じます。

「その時に仏前に七宝の塔あり。高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり。地より涌出して、空中に住在す。種々の宝物をもって、これを荘校せり。五千の欄楯ありて龕室千万なり。無数の幢旛、以て厳飾と為し。宝の瓔珞を垂れ、宝鈴万億にして、その上に懸けたり。」


「その時、仏のみ前に七宝の塔ありて、高さ五百由旬、縦と広さとは二百五十由旬なり。地より涌き出でて、み空の中に宿りつ、さまざまな宝もてしかもこれを飾り収めたり。五千の手摺りありて、部屋千万なり。あまたの旗のぼりを以て、いつくしき飾りと為しつつ、宝の瓔珞を垂れ、宝の鈴万億もてすなわちその上に懸く。」

   ★

さて、こうして賢治が目にし、手に取った法華経の本を2冊脇に置いて、賢治の思いを想像してみるのですが、うーん、やっぱりよく分からないですね。

彼の他者救済の思想的バックボーンが、法華信仰の菩薩行にあったことは、理屈では分かりますが、結局、この連載の最初に取り上げた、鉱物趣味や天文趣味、あるいはより広く理科趣味と、その信仰心とはどう結びつくのか?
「それはそれ、これはこれさ」という話なのか、「いやいや、そんなんじゃなくて、もっと密接な内的連関があるのだよ…」という話なのか?

賢治を理解する上で、あまりにもベーシックな疑問ですが、私には依然よく分かりません。でも、いずれもが賢治の持つ顔には違いなく、「賢治の抽斗」に無くてはならぬ存在であるのは確かでしょう。

(よく分からないまま、ひとまずこの項終わり)


)3月10日付、伊藤忠一宛て。
 原文は、渡辺宏氏「宮沢賢治Kenji Review」の以下のページ参照
 http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/258.html

※※)田島毓堂「法華経訓読史研究の諸問題」、名古屋大学文学部研究論集. 文學.  
 v.42, 1996, p.233-250
 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/5473/1/BB004213233.pdf