「昔の理科室」 と 「昔むかしの理科室」2013年07月01日 20時28分15秒

今日から7月。
百日紅(さるすべり)が咲き出し、酷暑の季節の幕開けを告げています。
でも、今日は朝露にぬれた露草の濃い青に、七月の到来をいっそう強く感じました。

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このブログもそうですが、「古い理科室」という言い方を、わりと気軽に使うことがあります。しかし、「‘古い’って、いったいどれぐらい古いことなの?」と、あらためて考えると、あんまりはっきりしない場合が多いことに気づきます。

特に人間、齢をとると、「今の理科室と違って、昔の理科室はねえ…」みたいに、なんとなく「昔」というものを、我が身一身に背負って、熱弁をふるいたい気分になったりするものですが、でも、老人のいう「昔」は、往々にして時間的にはごく限られた幅しか持たない、狭い経験に過ぎないことが多いものです。

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理科室絵葉書の収集を続けていると、ときに「おや?」と思う経験をすることがあります。

たとえば、以前、金沢市にある「味噌蔵町小学校」の明治時代の理科室絵葉書を紹介しました。


その後、同じ小学校の、昭和戦前の絵葉書を偶然手に入れました。


明治と昭和戦前。
「古い」といえば両方古いし、「昔」といえば、いずれも昔の光景です。
しかし、この2つの「古い理科室」の様子は、驚くほど違います。

いっぽうは階段教室で、教卓での演示実験がメイン。
他方は、現在と同じく、少人数で机を囲んでのグループ実験が主です。
実験設備の量的充実や、教授法の進歩のしからしむるところなのでしょう。

授業のスタイルもまったく違うし、生徒たちの服装も、これが同じ国の光景かと思うほど違っていて、昭和ともなれば、和服の子はもう一人もいません。
両者に共通するのは、(たぶん)先生が背中をぐっとそらせて「オッホン」と咳払いをする様子ぐらいでしょうが、それにしたって、明治と昭和では先生の背中のそらし具合に、微妙な差があったかもしれません。

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は常にせいぜい数年の幅しかありませんが、は百年・千年―場合によっては百億年ぐらい―の幅があるので、話の中で「昔」が出てきたときには、「あなたの言う‘昔’とは、いったいどれぐらい‘昔’なのですか?」と、常に問う必要がありそうです。
(私も安易に「昔」と言わないように、自戒せねば…。)

細見・味噌蔵町小学校2013年07月03日 19時52分00秒

雨脚が強まってきました。
梅雨の夜話に、今日は2連投です。まずは1本目。

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一昨日ご紹介した味噌蔵町小学校の理科室。

昭和編の方は、明治との時代差を見る目的で掲出したのですが、教室そのものに注目すると、コメント欄で蛍以下さんが仰ったように、これはなかなか素敵な理科室なので、改めて細部に注目してみます。
以下、図中に数字を振ったので、画像を拡大してご覧ください。


の凝った機械は、当時の理科室が誇ったハイテク装置、大型の実験用電源装置です。実験内容に応じて、交流・直流別に一定の電流・電圧を作り出し、各実験机に供給するためのものです。この装置にもいろいろなグレードがありましたが、この味噌蔵町小のものは、操作パネルの複雑さから想像するに、最も強力な部類だと思います。

は隣接する理科準備室への扉でしょう。
立派な理科準備室がありながら、(人体解剖模型)(人体骨格模型各種標本備品棚)が理科教室に置かれていたのは、先生の教育方針もあったかもしれませんが、備品自体の量が多くて、準備室に収まりきらなかったことをうかがわせます。
それぞれのケースや棚の造作も非常に立派ですし、同小学校は、少なくとも理科室には相当お金をかけていたようです。

いちばん感心したのは、実験机で、危なくないように、角に丸みを持たせてある(いわゆるアールが付いている)ことです。こうしたタイプの理科室机は、他に見た記憶がありません。椅子も、回転させることで高さを調整できるタイプのように見えますし、こういう細かい工夫は、子供本位で考える人でないと、なかなか発想が浮かばないと思うので、味噌蔵町小学校の設計・デザインをした人の優しさを、そこに感じます。

そんなこんなで、これは文句なしに良い理科室だと思います。

「おじいさんが子供だった頃は」…歴史を生きるということ2013年07月03日 20時02分03秒

(2連投の2本目です。)

一昨日の記事には、もう1つS.Uさんから素敵なコメントが付きました。

私自身は、「今」と「昔」という、本来非対称なものを、あたかも対称的なものとして語る思考の雑駁さを、いくぶん咎めだてする意図で、あの記事を書いたのですが、S.Uさんは、そこにちょっとした工夫さえあれば、そうした「昔がたり」は、むしろ生き生きした、豊かな歴史イメージを喚起しうるものだ…ということを、実例を挙げて教えてくださいました。

曰く「お父さんが子どもだった頃は…」、「おじいさんが子どもだった頃は…」、「ちょんまげを結ってた頃は…」、「これは、わしが祖父さんから聞いた話じゃが…」、etc。

ええ、確かに私が子供のころは、そういう語り聞かせがあった気がします。きっと、今でもあるのでしょうけれど、私自身は、最近そういう手間を惜しんで、単に「昔は…」で済ませがちなので、上の批判は、実は過半が自己批判でもあったわけです。

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S.Uさんのコメントを読んで、鮮やかに思い出したエピソードがあります。
以前、失われた化石記録(講談社現代新書、1998)という、初期の生命進化を扱った本を読んでいて、大いに感銘を受けた話です。



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この本の著者は、J.ウィリアム・ショップというUCLAの古生物学の先生で、上でいうエピソードとは、ショップ氏の個人的な思い出ばなしとして、p.160以下に出てきます。

(ジェイムズ・ウィリアム・ショップSchopf (1941-) 出典:上掲書)

ときは1976年。
当時、オパーリン ― 生体を構成する物質の「分子進化」を詳述し、生命の起源を解き明かす上で指導的役割を果たした、あの偉大なロシア(旧ソ連)の生物学者が、UCLAの客員教授として、ショップ氏の研究室に2か月間滞在したことがあったそうです。
 
(アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・オパーリン(1894-1980)
出典: http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Oparin )

ショップ氏と10人あまりの学生たちは、毎週1回、オパーリン夫妻と昼食を共にする習慣があり、あるランチの席上、この碩学は自分がどうして生命の起源に関心を持つようになったのか、親しく語ってくれたそうです。
以下、長文ですが、その内容を引用します(一部漢数字をアラビア数字に改めました)。

「ヴォルガ川に沿ったモスクワの北方、木造家屋、農民市場、ガス灯、馬引き荷車、どろんこ道などのあった田舎の中心地のひとつウルグリッチに暮らしていた若い頃、オパーリンは植物学に熱い興味を抱いていた。その土地の植物を収集し、植物の生長に関する簡単な実験さえ行っていた。

 1912年に国家試験に合格し、モスクワ州立大学に在籍する機会を与えられた。ここは今日でも、全ロシアの高等教育でもっとも名高い機関である。その年の春、高校の理科の教師は、彼が大学を訪問する手はずを整えてあげた。しかし指定された日、二人は朝の汽車に乗り遅れて遅刻してしまい、講義をひとつしか受けられなかった。

 ひとつの授業だけ聴講する機会が与えられたオパーリンは、当時一流のロシア人植物学者K・A・ティミリャゼフ(1843-1920年)の授業を選んだ。オパーリンは常日頃、有名な植物学者にして古典的教科書『植物の生』の著者について話していたので、この選択は高校教師にとって驚くものではなかった。ちなみにオパーリンはこの本をそらんじていた(そして著者を「最高の先生」としてとても尊敬していた)。そのうえティミリャゼフ教授は70歳近い年齢であったにもかかわらず、科学を分かりやすく説くのには定評があり、一般を対象にした情熱的な講演で広く知られていた。また革新的なダーウィン主義者でもあった。この考えは帝政ロシアではあまり支持されていなかったのだが、若きオパーリンをたいそう魅了した。
 

(クリメント・アルカディエヴィッチ・ティミリャゼフ(1843-1920)
出典: http://en.wikipedia.org/wiki/Kliment_Timiryazev )

 ティミリャゼフは、自分がいかにしてダーウィンの見解を支持するようになったのかという話を講義で行った。『種の起源』出版のわずか10年後に、当時モスクワ州立大学の大学院生になったばかりのティミリャゼフは、ロンドン郊外のケントにあるダウンハウスまで、偉大なるナチュラリストに会いに行こうと旅をした。ここはダーウィンの20エーカーもある田舎の土地で、ゆるく傾斜した丘の中腹にあるので「ダウン」と呼ばれている。

 
(チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809-1882)
出典: http://en.wikiquote.org/wiki/Charles_Darwin )

 ダーウィンは中年以降しばしばそうだったが、この時も病気で、訪問客を受け入れていなかった。しかしティミリャゼフは諦めようとしなかった。ラクステッドロードのパブの2階に部屋を借り、1週間以上も毎日通って、玄関前の階段に座って辛抱強く機会を待った。ついにダーウィンは若きロシアの学者に面会する機会を与えてやった。二人はダウンハウス裏の、ダーウィンが何かを考えるときによく歩いた「砂の散歩道」に肩を並べ、進化について話をした。ゆっくりとした散歩が終わるまでには、ティミリャゼフは確信していた。ダーウィンは正しいに違いないと。

 若きオパーリンは魅了され、彼もまたすぐに確信した。しかしティミリャゼフ教授の話に耳を傾けていたとき、この理論にぽっかり開いた穴のようなものがあるのを彼は見抜いた。ダーウィンは動物の進化をみごとに扱い、ティミリャゼフは植物の進化を扱った。しかし、動物や植物はどこから来たのだろうか。「ダーウィンは本を書いたけれども、最初の一章が欠けている」、そうオパーリンはその日の昼食時に学生に語った。学生たちは、彼が生命の歴史のこの失われた第一章を書くために、いかに長い研究人生を捧げてきたかを語ったとき、すっかり魅了されてしまった。」

ショップ教授は、この経験に強烈な感動を覚え、一文をこう結んでいます。

「その昼食会を私はありありと思い出す。その場にいた学生と私は、自分たちをダーウィンの真の学問上の弟子の内に数えることができるのだと思った。驚くほど短い人間の相互関係の糸によって、幾世代かが結びつけられているのだと感じた。年老いたダーウィンから若き日のティミリャゼフヘ、熟年のティミリャゼフから向上心に燃えた若きオパーリンヘ、初老のオパーリンからランチテーブルを囲んだ者たちへ。ぞくぞくしてくる。」

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歴史とは本の中にあるのではなく、この我々が生きている世界の中にある。
いや、世界そのものが歴史なんだ…ということを、子供たちは、生きた「昔がたり」から学んでほしいと思います。

たとえ、それがダーウィンのような偉人の登場しない、もっとささやかな昔語りであったとしても、「自分も歴史のひとこまなんだ」と気づくとき、子供たちは非常に感動するでしょうし、自分が生きる意味を、それぞれに感じ取ってくれるんじゃないでしょうか。(もちろん、子どもばかりでなく、大人だってそうでしょう。若き日のショップ氏と学生たちがそうであったように…。)

モノと心中しかけた話2013年07月06日 19時28分42秒

しばらく記事を書かずに何をしていたかといえば、部屋の片づけに注力していました。

「もうモノは増やせない、もうモノは買えない…」ということは、たぶんこれまで10回ぐらい記事にしたと思いますが、それでも増えつづけるモノをどうにかするため、今回は本棚の脇の15センチほどの細長い隙間に、某メーカーの隙間ラックを入れることにしました。そんな姑息なことをしても、本当の間に合わせにしかならないし、そのために安物の家具を買うというのも、なんだか気が進みませんでしたが、背に腹は代えられません。

しかも、その隙間が現在「遊休地」というわけでは全然なくて、今でもやっぱりモノは置かれているのです。それらを整理しつつ、さらに高密度に詰め込もうというのですから、我ながら悲壮な試みであり、重力崩壊が起こるリスクもあるため、非常に危険な試みでもあります。

しかし、あえて挑戦しました。で、挑戦してどうなったか?
結果は言うまでもありません。「机上の空論」「現場の苦労」…そうした言葉の意味を、今回もいやというほど味わいました。
他の方にとって、他山の石となるかもしれないので、以下にあえて細々したことを記します。

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事前のリサーチでは、本棚と壁の間隔は厳密に計っても、15センチを2~3ミリ上回っていたので、ラックが入らないことは原理的に起こりえないはずでした。しかし、皆さんも周囲をとくとご覧いただきたいですが、洋間には床から壁が立ち上がる部分に、巾木(はばき)という細長い木材が打ち付けてありますね。私はあの存在を完全に忘れていたのです。

さらに巾木の存在を無視しても、実は本棚と壁との距離は、高さによっても微妙に変化しており、我が家の場合、床上30センチ以下になると、両者の間隔が、明らかに15センチを下回ることが判明。結局、どんなに無理をしても、用意したラックが入らないという、悲惨な結果に陥りました。

もう、こうなっては観念するしかありません。
苦労して組み上げたラックを、再度ばらして、全体の幅を縮めるために、各部材をカットすることにしました。我が家には電動工具なんてありませんから、全部手作業です。今日は全国的に熱中症患者が多発する中、屋外でひたすらギコギコと、合板を切って切って切りまくりました。途中で意識がもうろうとして、本当に死ぬかと思いました。

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(向かって右が問題のラック)

今はこうしてエアコンの風に当たりながら、ぴたりと収まったラックを、ある種の満足感をもって眺めているわけですが、最終的に何とかなって、本当に良かったです。

しかし、これほどの苦労をして、果たしてどれだけ新たなスペースが生まれたのかを考えると、全然労力に見合ってない気がするので、もう本当にモノを増やすのは止めにしようと思います。

仮に、これ以上モノを買うとしたら、「モノを捨てながら買う」という、あたかも美食を口にするために、「吐きながら食べた」古代ローマ貴族のような病的な状態に陥るほかありません。さすがにそんな行動はごめんです。

涼しい場所へ2013年07月08日 20時07分17秒

昨日は七夕でした。
天文を名乗るブログであれば、何か言及があって然るべきところですが、本当に疲れてしまって、何も書けませんでした。むやみと暑いし、心身の疲労も重なり、早くも夏バテ気味です。

そんな中、今日は一気に梅雨明け。
地上は酷暑ですが、空では一日遅れの逢瀬を楽しんでいるのか、銀砂子を撒いたような天の川の脇で、織姫と彦星がいつもより一層まばゆく輝いています(…と心眼には見えていることにしてください。それにしても、この頃では天の川の存在が、ひょっとしたら“都市伝説”じゃないかと思える折があります)。

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さて、真夏になると頭をもたげる極地への思い。
消夏の工夫として、今年は早々と極地モノを登場させることにします。


滔々と流れる氷河と純白の氷原。
そこを歩く黒々とした男のシルエットが印象的な写真です。


彼の正体は、1912年に人類史上初めて南極点に到達したノルウェーの探検家、ロアール・アムンセン(1872-1928)


この品はアメリカのキーストーン社製のステレオ写真で、時代的には1930年頃のものだと思います。


涼しげな銀色のビューアーで覗けば…


氷原を踏みしめるザクッザクッという靴音と、凍て付く風の音だけが聞こえてくるようです。

塵吹けど2013年07月09日 20時13分34秒

暑中お見舞い申し上げます。
なにやら殺気さえ感じられる暑さが続き、アムンセンに登場してもらっても、追っつかないぐらいですが、どうぞ皆様ご自愛くださいますように。

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今朝、部屋の定位置に腰かけて、ふと目を上げたら…


以前書いたように、書斎の雰囲気づくりのために、使いもしない古いタイプライターが机の上に鎮座しているんですが、ちょっと気を抜くとこんな有様です。


本来、涼感を呼ぶはずのグロッシー・ブラックのボディも、こう無遠慮に埃が積もっては、暑苦しさが一層つのります。

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ここから連想するのが、元禄の俳人・上島鬼貫(おにつら)の句。

   なんと今日の暑さはと石の塵吹く

詩魂のある人にかかれば、卑俗の中に雅が、散文的な光景のうちにも、ある種の情緒が生まれるようです。とはいえ、ものぐさで掃除をサボっているだけの部屋に、情緒の生まれる余地はなく、ふっと息をかけても、綿ぼこりが舞い飛び、暑さは弥増すばかり。

まあ、こんなことを呟く手間で掃除をすればいいんですが、暑いとそれさえ物憂く…

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一服の涼を求めて、美しい天文古書の世界に分け入ったり、長野まゆみさんの『天体議会』の世界をモノによって視覚化するという企画を考えているのですが、こう暑くては、それも一時沙汰止みです。

独逸の少年は青金の天文書を手にす2013年07月10日 21時49分40秒

昨日は只でさえ暑いのに、暑苦しい記事&画像で申し訳ありませんでした。
今日は口直しに、ちょっと涼しげなモノを載せます。

ここしばらく天文古書の購入冊数が減っていたのですが、今年の前半は、久しぶりに小まめに買っていました。それも「美しい天文古書」という点にこだわって購入していた気がします。その中でも表紙絵だけでいうと、たぶん最美の1冊がこれ。


 S. Seiffart,
 Astronomische Jugend-Abende
 Julius Imme’s Verlag (Berlin), 刊年なし(1874頃)
 20 x 14.5cm、160p.

この書名は『若き天文の夕べ』とか、あるいはいっそ『少年天文読本』と訳していいかもしれませんが、ともかく少年向けの天文入門書です。

画像がすぐに準備できなかったので、とりあえず↑は商品写真(※)をそのまま流用しています。その愛すべき内容も含めて、自然光できれいに撮れたら、改めてご紹介することにしましょう。


(※)実は手元にあるのは、この写真の品そのものではなく、これを見て、さらにリーズナブルな価格のものを探して手に入れたものです。ですから、撮影者の方にはちょっとお詫びせねばなりません。

『少年天文読本』2013年07月11日 20時18分25秒

(昨日のつづき)


昨日と同じ本ですが、表紙にシミもないし、状態はこっちのほうが良さそうです。
この本は、ドイツではなく、アメリカの古書店から買いました(だから需要も少なくて、ごく安価でした)。


本の見返しには、1874年に「Onkel(=Uncle) George」が、「親愛なる William 君」にプレゼントした本である旨、ペン書きされています。
本当は「ゲオルグおじさん」から「ヴィルヘルム君へ」となるのでしょうが、名前が英語化しているのは、この2人がドイツ系移民で、本のやりとり自体、アメリカに来てから行われたからでしょう。19世紀の後半に、大西洋の波濤を越えた、あるドイツ人一家の物語がなんとなく想像されます。


見返しには、これまたドイツ系らしい姓の、ニューヨークの書肆のシールが貼られています。


これがタイトルページ。Neue Ausgabe(新版)と書かれています。

うっかりしていたのですが、実はこの本、手元に既に初版がありました。このタイトルページを見て、やっとそれに気付いたのですから、ずいぶん迂闊な話です。


こちらが初版。刊年は、こちらにも記載がありませんが、序文が1865年になっているので、たぶんその頃に出たのでしょう。

(以下、内容に踏み込みつつ、さらに続く)

続 『少年天文読本』2013年07月12日 20時10分39秒

(昨日のつづき)

初版の扉絵は、また新版と違っていて、こんな絵になっています。


山中の不思議な天文台(構造的には無理がありますが)に集う4人。


左端のかっぷくの良い人物はヴィルマン先生で、その説明を熱心に聞いているのは、オットー、エドゥアルト、リヒャルトの3名の生徒たち。この本は、彼ら4人が会話をしながら、「第一夜」から「第十夜」まで夜話形式でストーリーが進みます。

(「第三夜」冒頭)

(星座を学ぶ「第九夜」)

内容は、上のサンプルページからも分かるように、オーソドックスな天文入門書なのでしょう(ドイツ語なので、内容は想像するしかありません)。
ただ、この本で「いいな」と思えるのは、ところどころに挿入されている砂目石版の挿図です。

(初版の表紙や、新版のタイトルページにもなった月夜の景色)

砂目石版というのは、文字通りザラッとした砂目が版面全体に散った、ややもすると雑な感じを与えがちな技法ですが、この本の挿絵には、むしろ非常に繊細な印象を受けます。



流星雨↑と月面図↓(全体と部分拡大)



どうでしょうか。文章を読めないのが至極残念ですが、なかなかいい風情の天文授業ではないでしょうか。不思議な天文台で過ごす「天文の夕べ」。
いかにも足穂的であり、長野まゆみ的であり、クシー君的でもあります。

(巻末に挿入されている折込星図)

(ちょっとしつこいですが、新版と旧版のツーショット)