図鑑史逍遥(4)…『普通植物図譜』2013年10月09日 20時59分49秒

何となく眉根にしわを寄せたような話が続きましたが、図鑑の揺籃期の姿を眺めることにします。

(明治39年(1906)6月発行の第1巻第1集表紙)

その第1図がこちら。

(クリンソウとサクラソウ)

パッと見どうでしょう、私はずいぶん稚拙な絵だな…と思いました。
他にもたとえば、同年同月に発行された第2集に出てくるミツバツチグリ(左)とヘビイチゴの図。


表現が妙に平面的で、いわゆる「図鑑の絵」には見えません。
各図の部分拡大も見てみます。




一種のデザイン画と見れば、可愛らしくも見えますが、いずれもボタニカルアートと呼びうる水準には達していません。これは村越三千男の原画が拙かったのか、それとも印刷技術の問題なのか?結論から言うと、どうも答は後者らしく思えます。

『普通植物図譜』第1集の巻頭に載っている、「発行の辞」には、「色彩の配合、印刷の方法、吾人の意に満たざるところ多し、会員諸君中また吾人と均しく不満の感を懐くものあらざるなき乎。吾人切に之を憂ふ。」と書かれていますが、これは正直な感想でしょう。

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もう少し『普通植物図譜』の出版事情に立ち入って見てみると、この図譜はその趣意書によれば、「一箇月に少なくとも五十種、一箇年間に六百種、二箇年間に千二百種の標本画を作成せん」という計画でした。しかし、実際に始めてみると、上のような次第で困難が続き、実際に出た第1集には35種を載せ得ただけでした。

(第1集目次)

私の手元には第1巻の第1~12集までしかないので、『普通植物図譜』の全容は分からないのですが、12集までの各冊を見ると、1冊あたりの収録図版数は16~20葉、各葉には通例2種類の同科植物を載せており、掲載種数は全400種です。これだけだと、当初の計画の3分の2と、ずいぶん少なく思えますが、『図譜』は予想以上の長期刊行物となり、最終的には5年がかりで全60集が刊行されるに至りました。第1巻から類推すれば、掲載種数は全体で2,000種内外に達した計算になります。

それだけ息長く続いたのは、もちろん村越の商才もあったでしょうが、出版を続ける過程で印刷の質が大いに向上し、それが読者に歓迎されたという要因もあったと考えます。

これは故なき憶測ではなくて、同じく村越が「東京博物学研究会」の名義で明治41年に出した『有毒植物図譜』を見ると、たしかにそうだと思えるのです。

(この項つづく)