スキャパレリの肉声…『アストロノミア・ポポラーレ』2013年10月21日 20時36分30秒

読めない本といえば、これなんかもそうです。


火星研究史において、「運河論」の火付け役として忘れることのできない、イタリアのジョヴァンニ・スキャパレリ(1835-1910)― 彼の存在を身近に感じたいという、ただそれだけのために買った本。

Giovanni Schiaparelli(著)、Luigi Gabba(編)
 Le più belle pagine di Astronomia Popolare. (一般天文学精選集)
 Hoepli(Milano)、初版1925.  371p.(第2版1927.  456p.)

左側のきれいな方が1925年に出た初版で、右側はその2年後に出た第2版です。
初版を買った後で、第2版の方が図版が多いことに気づいて買い直したという、ずいぶんご苦労な話なんですが、最初からあまり意味のある買い物ではないので、無駄ついでに買ったようなわけです。

(第2版タイトルページ)

この本はスキャパレリの没後に出たものですから、当然書き下ろしではなく、彼が生前、雑誌等に発表した文章を編んだ選集です(たとえば火星についての章は、1893年にミラノで出た「Natura ed Arte(自然と芸術)」誌が初出)。

スキャパレリ(スキアパレッリとも)と火星の運河論争については、以前以下のような記事を書いたので参照していただければと思いますが、ともあれ彼の主張は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、天文学者たちを大いにエキサイトさせた一大テーマなので、彼の「生の」言葉とスケッチに触れたいという思いは前からありました。

抜き書き・火星論争 in 英国
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/09/09/


(スキャパレリが見た運河のオリジナルスケッチ)


 Queste linee o strisce sono i famosi canali di Marte di cui tanto si e parlato. Per quanto si e fino ad oggi potuto osservare, sono certamente configurazioni stabili del pianeta.

「これらの線ないし縞模様が、かの有名な火星の「カナリ」(水路)であり、これについては多くの語るべきことがある。観測可能な限りにおいて、現在〔注:1893年〕に至るまで、カナリは確かにこの惑星上に安定的に存在するパターンである」云々。
…グーグル先生によれば、大略そんなようなことが書かれているようです。

まあ、グーグル先生がいなければお手上げなのは確かですが、タイトルの「Astronomia Popolare」が、英語の「Popular Astronomy」に相当し、「アストロノミア・ポポラーレ」と読むのだろう(いかにもイタリア的語感です)ということは辛うじて分かるので、「読めない」と言っても、そこにはいろいろ程度の差があります。

少なくとも、スキャパレリの体温はこの本から十分感じ取ることができるので、素朴な天文史の愛好者としては、それを以て満足すべきなのでしょう。

コメント

_ .S.U ― 2013年10月22日 07時57分49秒

これが、「『運河』の火付け人」による出版なのですね。ご引用の歴史の概要によると、この「カナリ」は1890年以前にすでに指摘され議論されていたと思うのですが、スキアパレッリの没後の1925年になっても同じ状況の文言で一般向けに表現されたというのは、その間は、ずっと彼の主張が定説であったということでしょうか。それとも何か別の含みもあるのでしょうか。

 運河のスケッチでは、スキアパレッリもローエルもいいですが、私は、アントニアディのがリアリズムの迫力があって気に入っています。Wikipediaによると、アントニアジは、運河を錯覚(英語版で optical illusion)と見破ったことになっています。議論され尽くしていると思いますが、このへんの心理学的テーマを含む観測の歴史というのは興味深いです。

 Schiaparelli のカナ化で、イタリア語は原則は二重母音・二重子音を生かして発音するようなので、「スキアパレッリ」のほうがイタリア語のカタカナ化原則には合っているように思います。他言語の発音は片仮名で表現できないし、名前は実際に本人がどう発音していたかが最優先、という事情の上での話ですが、○○語の人名はこういうふうにカタカナ化する、という原則を世間で確立していただきたいものだと思っています。

_ 蛍以下 ― 2013年10月22日 15時05分36秒

S.U様

>○○語の人名はこういうふうにカタカナ化する、という原則を世間で確立していただきたい

私も賛成です。「ニクソン大統領」なのか「ニクスン大統領」なのか。
「へーラクレース」とか「ポセイダイオン」とかも慣れないうちは戸惑いますね。

ちょっと逸れますが、日本では例えば「apple」を「エポォ」などと表記せず、「アップル」と表記して「あっぷる」と発音しますよね。
アルファベットを見てカタカナに変換したからこういうことになったのでしょうか。もし明治時代がヒアリング重視であったら、今頃「エポォパイ、エポォジュース、エポォコンピュータ」などとなっていたのでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年10月22日 22時29分58秒

〇S.Uさま

1925年の段階では、運河論争はほぼ決着が付いていて、運河の存在は既に過去のものとなっていたはずですが、それをあえて採録した意図は何だったのか。この点については、この本のどこかに編者の解説があると思うのですが、言語の壁によって接近を阻まれています。あるいは単なる歴史的回顧なのかも。。。


〇ご両人さま

外国の文物の日本語表記についてですが、これはそれこそ「ギョヲテとは俺のことかとゲーテ言い」の昔から続く悩みで、先人もずいぶん知恵を絞ったはずですが、いまだ満足な答はなさそうです。結論からいえば、日本人が50音を使っている限り、万人が納得する解決法はないんじゃないでしょうか。

日本語の音韻体系にない音、例えば二重子音、三重子音を、日本語のカナ表記でどう書くのが「正しい」のか、そこに絶対的な正解はありませんし、常に曖昧さはつきまとうでしょう。

これは結局のところ、どういうルールを採用するかに依拠する話であり、S.Uさんや蛍以下さんの願いも、統一的なルールの確立という点に眼目があると推察しますが、どんなルールを採用すべきかに関するグランド・ルールは存在しませんし、ルール選択に関しては最後まで恣意性を逃れ難い…というのが、根本的な難所としてありそうです。

現地音主義や本人主義は有力な案ですが、例えば宮沢賢治を海外に紹介するとき、Miyazawa KENZU とすべきなのだろうか?とか考え出すと、外国の固有名詞にも似たような問題はいくらでもあるでしょうし、「標準語」の立ち位置も国によって様々ですから、なかなか容易に答は出そうにありません。

今見たら、ウィキペディアには「Wikipedia:外来語表記法」(↓)というページが作られていました。でも、いかにも心細げで、まだまだ表記の揺れは続きそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%A4%96%E6%9D%A5%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E8%A8%98%E6%B3%95

_ S.U ― 2013年10月23日 07時17分41秒

オヤジギャグに気を取られて(未記入)の定期便をしてしまいました。すみませんが前便削除お願いします。
--------------------
○外国語人名のカナ標記について
 確かにグランドルールで一通りに収束させることは不可能でしょう。原則は、(1)本人の発音(2)各言語ごとに標準的音訳の規格を作る くらいで、これでも(1)と(2)は相反する場合も多いでしょうし、(1)内部でも地方的な発音の問題があり(オーストラリア人テイバーかタイバーか)、(2)でも強勢による変化を考慮するか(ロシア人ゴルバチョフかガルバチョーフか)という揺れがあります。これらは許容範囲とせざるをえず、本国の発音規則からのはずれの比較的大きい読み方を排除する、という考えになると思います。
 そうすると、ドイツ人ギョエテはありえずせいぜいゴェーテ(ゲーテのほうがよろしいが)にしかならないでしょうが、オランダ人ゴッホはホッホになってしまいます。でも、そうするべきでしょう。「ホッホのひまわり」です。

○スキアパレッリの火星運河説
 スキアパレッリは、自分が見たカナリを死ぬまで信じていたでしょうし、彼は別にそれを火星人の人工物と信じていたわけではないでしょうから、少なくとも彼の著書としては大きな問題はなかったのかもしれません。また、その時代の大勢では、何らかの筋状構造があることは否定されていなかったと思います。
 ところで、スキアパレッリはカナリの幅をどのくらいあるとしていますでしょうか。 「かなり幅が広い」とかオヤジギャグを言うつもりはありませんが、望遠鏡の分解能とスケッチの様子から、数十kmはあることになると思います。人工にしても自然にしてもこんなに広い直線状の水路があるはずがない(造る動機も出来る道理もない)、という心理が働いて否定されていったものではないかと私は推測します。

_ 玉青 ― 2013年10月24日 06時30分41秒

「ホッホのひまわり」となると、ずいぶん印象が変わりますねぇ。(笑)
ご当人には甚だ失礼ですが、あの暗い顔つきの自画像も「ホッホさん」と聞くと、ちょっと間が抜けて見えるような気がしなくもありません。

言葉には得体の知れない<慣用>というのがありますから、原理原則をすっきりと貫徹しがたいところがあって、いっそ全て慣用で決まればいいのですが、慣用自体、融通無碍で、あまり頼りにならないというか…何とも悩ましいところです。

(人名と云えば、私はどうも「カンパネルラ」と書いてしまうんですが、賢治さんに忠実であろうとするならば、当然「カムパネルラ」とすべきですね。この場を借りて原作者にお詫びします。)

>カナリの幅

「幅が数十kmもある水路を作れるとは、火星人は何と高度な文明を持っているのだろう!」という、ややこしい思考を働かせた人もいそうですね。ローウェルはたぶんそうでしょう。
スキアパレッリ自身が、この点についてどう考えていたかは、どうもよく分かりません。イタリア語の「カナリ」は、水の流れていない単なる溝でもいいそうですから、自然地形ならば、それぐらい大きくても全然問題ないと考えていたかもしれませんね。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック