東京天文台の一断章2014年02月25日 22時28分19秒

忙中閑。バタバタに負けず記事を書いてみます。

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ちょっと紙っぽい話が続いたので、ソリッドなモノに登場してもらいましょう。


重厚というよりは、むしろ鈍重な印象さえ受ける鋳鉄製の日時計。日時計としての実用性はおそらく無くて、これは文鎮として机上に置かれたものでしょう。
デザイン的にはちょっと垢抜けませんが、この日時計(型文鎮)が意味を持つのは、裏面の銘です。


これは三鷹の東京天文台(現・国立天文台三鷹キャンパス)の本館が完成したのを記念して、1966年(昭和41)に配られた記念品なのでした。

(ちょっと以前の東京天文台本館付近。出典:『東京大学 東京天文台の百年 1878-1978』、東京大学出版会、1978)

もちろん東京天文台にはそれ以前から立派な本館がありました。しかし戦争末期の昭和20年(1945)に火災で焼失してしまい(誤解されやすいですが、空襲被害ではありません)、その頃はもう世間も天文台どころではなかったので、戦後も長くにわか作りの仮庁舎で業務を続け、新本館が完成したときには、戦争が終わってから早や21年が経過していました。

(戦前の絵葉書。左:完成間近の旧本館(1917年ころ)、右:空からみた東京天文台全景(1930年代か))

(旧本館付近拡大)

(旧本館立面図。出典:『東京天文台の百年』)

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東京天文台は明治11年(1878)に設立された、東京大学理学部観象台をルーツとする、日本で最も古い近代式天文台です。その後、明治21年(1888)に本郷から麻布に移り、さらに大正6年(1917)から7年がかりで、東京府下三鷹村に順次機能を移転しました。もちろん、当時の三鷹は都塵を遠く離れた武蔵野の真っただ中で、観測適地として特に選ばれたわけです。

東京天文台がスタートを切った1878年というのは、もちろんグリニッジやパリのような伝統のある天文台に比べれば、はるかに新参には違いありません。しかし、世界的に見れば、それほど後発というわけでもありません。にもかかわらず、同所に日本の近代天文学史を伝える資料が乏しい(ように見える)のは、度重なる移転、改組、そして何よりも上記の炎禍によるところが大きいのでしょう。

江戸と明治の断絶によって、それこそ天地明察の頃にまでさかのぼるであろう近世天文学の遺産が、明治以降の学界に引き継がれず、その多くが散逸してしまったことと並んで、天文学史に興味を持つ者にとって、これはいかにも残念な出来事でした。

コメント

_ S.U ― 2014年02月26日 19時46分03秒

>文鎮
 昔は、引出物に(結婚式でというわけではありませんが)「文鎮」というのがけっこう多かったですね。重いので今ならたいへんな不評になることでしょう。

>近世天文学の遺産~散逸
 以前に国会図書館で高橋景保の旧蔵書の一つを閲覧した際に、その本の移転の経路が知りたくて、司書の方に尋ねたのですが、いつ景保が入手して・・・どうして国会図書館にやってきたか、そういうことはわからないということでした。
 こういう古書の移転を追跡する学問とか記録形式というのはないのでしょうか。それともこれは「詮索」や「捜査」であって学問のうちではないのでしょうか。

_ 玉青 ― 2014年02月27日 06時28分57秒

この文鎮を足の上に落としたときは、思わず私も呪詛の言葉が口をついて出ました。(笑)

古書の来歴を調査・記載するのは、たぶん書誌学の領域に入るのでしょう。
これは想像ですが、江戸期の公文書類は、討幕派の諸藩に関しては、後身である県に移管されて、今も公文書館や県立図書館に残されている確率が高く、佐幕派(=「賊軍」側)のそれは確率が低いんじゃないでしょうか。とすれば、「賊」の頭目である幕府文書の残存率が低いのはやむを得ないのでしょう(繰り返しますが、これは全くの想像です)。幕府に関しては、終戦時の日本のように、幕府自身の手で廃棄された文書も多かったかもしれませんね。

_ S.U ― 2014年02月27日 18時16分05秒

>「賊」の頭目である幕府文書
 そうですか。幕府の資料の引き継ぎがうまくなされなかった...
それでも、暦制を握れるとなると、かなりの権力、権益となると期待して暦学資料が幕府から後世に引き継がれてもよかったと思うのですが、幕末の天文方や朝廷の暦道関係者にはそのような権力も(あるいは資料を理解する学力も)なかったということかもしれません。今から思えば、江戸の天文学でも航海や国防に役に立ったはずですが、一から西洋に習うのが早いと思ったのでしょうね。

_ 玉青 ― 2014年03月01日 19時19分41秒

お返事が遅くなりました。
近世天文学の展開は、才あふれる人々が、限られた環境の中でいかに多くのことを成し遂げるかを示す感動的な例ですね。
しかし、例の高橋景保の最期を思うにつけ、その「限られた環境」がいかに苛酷な制約であったかということも、同時に痛感します。
もし彼等が壮年で明治を迎えていたら…歴史に「もしも」はないと言いますが、でもつい考えてしまいます。

_ S.U ― 2014年03月02日 11時36分15秒

>高橋景保の最期
 そうですね。国防の禁を犯したということで投獄されたのですが、開国に向けて生かせておいたら、この人の知識ほど外交の役に立つにものはなかったかもしれませんね。
 シーボルト事件のあと、蛮社の獄、安政の大獄と続くのですが、このあたりですでに幕府の命運はつきていたのかもしれません。幅の広い学問文化を疎んずるようになってきたら、その政権はもう長くないということではないかと思います。

_ 玉青 ― 2014年03月02日 16時49分12秒

>幅の広い学問文化を疎んずるようになってきたら、その政権はもう長くない

現今の世相を見るとそろそろ…という気がしなくもありませんねえ。

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