みんな悩んで現在(いま)がある…理科教師哀話2014年04月22日 06時26分29秒



理科教育は今も大変だけど、昔も大変だった…ということを見るために、当時の本をパラパラめくってみます。まずは、昭和6年(1931)に桑原理助という人が書いた『理科教育の設備と活用』(東洋図書)より。

諸経費三割削減の声を聞いた丈でも心のどこかに暗い影がやどる。まして理科の特別教室もなく、年額四五十円にも足りぬ理科の経費しか有せぬものが、堂々たる設備に加ふるにあり余る経費を以ってし、贅沢三昧の経営をなしつゝある所謂模範的設備を見せつけられては、一時は驚き羨望し、さては自暴自棄にさへ自らを導くのが人間性の常である。 (第3章「理科教室の経営と設備観の確立」)。

他校の素晴らしい理科室を目にしたからといって、別に自暴自棄になる必要もないと思うのですが、戦前にあって、この学校間格差・地域間格差の問題は、非常に大きな影を理科教育に落としていたことがうかがえます。

これまでこのブログでは、明治~昭和戦前の理科室絵葉書をずいぶん紹介しましたが、実は絵葉書を配って自慢したくなるほどの学校は少数派で、ああいう立派な理科室を持たない学校のほうが普通だったことに留意すべきだと思います。

では、こうした状況を前に、教師たるものどうするべきか?

 しかしこの心は自己の信ずる理科教育観に立脚し、之から確信ある自己の設備観を体得せぬ限り脱することの出来ない心的状態であり、又真の理科教育を実現せんと希求する人々の一瞬一刻も早く脱却せねばならぬ一大病根でもあることを思はねばならぬ。
 〔…〕しかし我々がしばらく外的装飾其のものから離脱して、眼を閉ぢ心をひそめて理科そのものゝ本質を究明するとき、理科的設備の如きはあくまでも第二次的なものに属することを察知することが出来であらう。 (同上)

著者は、心頭滅却式の、純粋な精神論で理科室の不備を乗り越えろと主張するのですが、ちょっと苦しいですね。もちろん精神は精神で大事ですけれど、教育にはやはり一定の財政的裏付けが必要であり、こうした面で戦後の理科教育振興法が果たした役割の大きさは、改めて強調されねばならないと思います。

   ★

では戦後民主教育の花が咲いた頃はどうか。
教育技術研究所が編んだ『小学校理科教育事典』(昭和27年、小学館)より、最近の理科教育思潮」の一節から。

 〔…〕終戦後の教育の方針が、アメリカの指導によってたてられたことは、いうまでもない。それは、制度の改革から教科の改革までおよぶ非常に大がかりのものであった。その改革のあらしのなかで以前からあった理科という教科は確かに残った。しかし、それに対立する性格をもつ新しい教科として社会科がうまれた。これは見かたによっては、公民科、地理、歴史などの総合のようでもあるが、それにプラスする何物かがある。そのために、社会科はにわかに堂々たる教科となった。古いものが新しいものにおされるのはごくありふれたことで、古着をまとった理科は社会科の前にまことに見すぼらしく見えた。高度の自然科学を要求した兵器の改良または生産も昔ばなしとなり航空整備兵の教育もいらぬ平和の時代には、しゃちこばった理科教育などに、何の価値も認められないように見えた。全教育に対する理科教育の比重が、終戦後にわかに小さくなったと判断するのは、わたしばかりではないであろう。

こんなふうに理科と社会科が角を突き合わせていたとは知りませんでした。そして理科教育そのものが、戦後教育の現場で非常に軽んじられた時代があったことも驚きです。戦後は戦中にもまして理科教育の重要性が叫ばれ、それが後の高度経済成長につながった…ようなイメージを私は漠然と抱いていました。

とはいえ、そんな逆風にもめげず理科教師を志した先生たちは、理想教育に燃え、日々奮闘していた…かといえば、そこにはまたすぐれて人間的な姿もありました。
以下は同じく「理科教育における望ましい教師」という章からの引用。

〔…〕このように広く全面的な理科学研究をした上に、さらに自己の専門である物理なり、化学なり、生物なり、勉学修業を積むよう努力すべきである。

 そんなことをいっても、今日の小学・中学の教師はとても忙しくてできないといわれるかも知れない。お説全くその通りである。だから急がず怠らず、年期をかけてやればよい。五年十年十五年と気長に根気よくやっておれば、だんだんにできていくものである。

 早く職員間のリーダー格になりたい、などとあせるとできはしない。幸いにこの頃では校長や教頭よりも、平教員でいて月収入の多い人がどしどし現れてきた。もちろん、人間は金銭づくだけで満足できるものではない。殊に教育者の如き聖職ともいわれる職においては然りである。しかし平教員であれば校長と同年位でも同じ学歴でも、月給が非常にちがう、というのでは、妻子を養うのにも大変困ることにもなる。ところが今日この頃では月収入では校長が校内の三番目五番目などという例はザラにある。誠に下品な話のようであるが、普通一般の人間としては、これも重大な一条項である。平教員として道のためにしし営々、安んじているのには大事な一条件が、この頃はみたされているといえよう。

 「教員として直接に子供を毎日教え導くことは、校長や教頭となって、町村の有力者や都教委事務局のお役人と接しようとするよりもむしろ愉快だ。」
という声もよく耳にすることである。

なんだか読んでいて切なくなります。
「聖職」という言葉で我が身を励まし、「むしろ愉快だ」と嘯いても、心と懐のわびしさはいかんともしがたく…。昔の先生たちは(というか、先生たちも)、日々こんなことを考えて仕事をしていたのですね。何にせよ、人が生きていくと云うのは大変なことです。
ちなみに、昭和27年(1952)といえば、小説「二十四の瞳」が発表された年で、小津の「東京物語」の封切りは翌28年。

  ★

天声人語子は、ホルマリン漬けの標本と人体模型が並ぶ暗い理科室を、かつての理科教育を象徴するものとして語りました。しかし、それが国民全体の普遍的な記憶となったのは、昭和30年前後から始まる理科室大躍進期以降のことですし、その影には先生たちの哀切な日常がありました。その後、理科室が明るく再整備され、(主観的にはどうか分かりませんが)貧にあえぐ先生もいなくなりましたが、今度は虫を恐れる理科嫌いの先生が増え…というわけで、みんな悩んで現在(いま)があり、そして今後も悩みは尽きないことでしょう。