天声人語子の語る理科室2014年04月20日 10時45分35秒

以下は2007年12月に書いた拙文。

暗い理科室 vs. 明るい理科室  http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/12/07/

その結びで、私は「あの「天声人語」に、理科室と人体模型が載るのは、ひょっとしてこれが最初?で最後かもしれません。それを思うと、これは歴史的な紙面ではありますまいか。」と書いています。「最初」かどうかは不明ですが、先日、これが「最後」ではないことが明らかになりました。

------------ (引用ここから) ---------------


〔前略〕▼虫が冬から目覚める「啓蟄」は、暦の上では3月上旬だが実質は今ごろにあたる。多彩な命がいっせいに蠢きだす。といっても虫が苦手な人は少なくない。新人の先生にも苦戦する人が結構いるらしい▼なんとかしようと、東京都は一昨年から、小学校教員の内定者に講座を開いている。カマキリの捕まえ方を学んだり、モンシロチョウに蜜を吸わせたりした。これで虫にさわれるようになった参加者もいた▼虫に限らず、理科が苦手な先生は増えている。来年から使われる小学理科の教科書は、平均ページ数が約2割増えた。不得手な先生が使いやすいことに配慮したのが一因という▼思い返せば小学生のころ、木造校舎の理科室は近寄りたくない場所だった。ホルマリンの瓶が並び、遮光した薄暗がりにあの人体模型が突っ立っていた。今の理科室は明るくて、設備も充実しているはずである〔以下略〕 
                            (朝日新聞「天声人語」2014年4月15日)
 
------------ (引用ここまで) ---------------

天声人語欄は一子相伝というか、代々一人の編集子が執筆するのが例でしたが、2007年春から2人体制となり、現在に至っていると聞きます。そのお一人が2007年から第12代天声人語子を務める福島申二論説委員で、この2つのコラムは共に福島氏の筆になるものでしょう。福島氏は50代後半だそうで、私よりもちょっと年上になりますが、その経験は私にも一部共有されています。

それにしても、この2つの文章のいかに似ていることか。

◎2007年バージョン
「小学生のころ、木造校舎の理科室は、近づきたくない場所だった。遮光した薄暗がりにホルマリン漬けの標本がひっそり並び、何より、あの人体模型が突っ立っていた。」
◎2014年バージョン
「思い返せば小学生のころ、木造校舎の理科室は近寄りたくない場所だった。ホルマリンの瓶が並び、遮光した薄暗がりにあの人体模型が突っ立っていた。」

「遮光した薄暗がり」、「あの人体模型が突っ立っていた」というフレーズがそっくり繰り返されています。今回のコラムを書くために、わざわざ7年前の文章をコピペしたわけではないでしょうから、これはよほど福島氏にとって印象深い思い出なのでしょう。なによりも「あの人体模型」という語気に、福島氏のトラウマチックな体験がうかがえます。ホルマリン漬けも相当嫌だったみたいですね。

   ★

それと文章の前段に出てくる、「先生の理科離れ」と「虫嫌い」の話。
これもいろいろ考えさせられますし、言いたいことも多々ありますが、まあ、こういう話は得てして「昔は良かった」で終わりがちです。しかし、昔は昔で当然いろいろ問題もあったはずで、「理科教育の黄金時代」などというのは、常に想念の中にしか存在しないのかもしれません。

…というわけで、昔の理科の先生の生の声に少し耳を傾けてみます。

(この項つづく)

みんな悩んで現在(いま)がある…理科教師哀話2014年04月22日 06時26分29秒



理科教育は今も大変だけど、昔も大変だった…ということを見るために、当時の本をパラパラめくってみます。まずは、昭和6年(1931)に桑原理助という人が書いた『理科教育の設備と活用』(東洋図書)より。

諸経費三割削減の声を聞いた丈でも心のどこかに暗い影がやどる。まして理科の特別教室もなく、年額四五十円にも足りぬ理科の経費しか有せぬものが、堂々たる設備に加ふるにあり余る経費を以ってし、贅沢三昧の経営をなしつゝある所謂模範的設備を見せつけられては、一時は驚き羨望し、さては自暴自棄にさへ自らを導くのが人間性の常である。 (第3章「理科教室の経営と設備観の確立」)。

他校の素晴らしい理科室を目にしたからといって、別に自暴自棄になる必要もないと思うのですが、戦前にあって、この学校間格差・地域間格差の問題は、非常に大きな影を理科教育に落としていたことがうかがえます。

これまでこのブログでは、明治~昭和戦前の理科室絵葉書をずいぶん紹介しましたが、実は絵葉書を配って自慢したくなるほどの学校は少数派で、ああいう立派な理科室を持たない学校のほうが普通だったことに留意すべきだと思います。

では、こうした状況を前に、教師たるものどうするべきか?

 しかしこの心は自己の信ずる理科教育観に立脚し、之から確信ある自己の設備観を体得せぬ限り脱することの出来ない心的状態であり、又真の理科教育を実現せんと希求する人々の一瞬一刻も早く脱却せねばならぬ一大病根でもあることを思はねばならぬ。
 〔…〕しかし我々がしばらく外的装飾其のものから離脱して、眼を閉ぢ心をひそめて理科そのものゝ本質を究明するとき、理科的設備の如きはあくまでも第二次的なものに属することを察知することが出来であらう。 (同上)

著者は、心頭滅却式の、純粋な精神論で理科室の不備を乗り越えろと主張するのですが、ちょっと苦しいですね。もちろん精神は精神で大事ですけれど、教育にはやはり一定の財政的裏付けが必要であり、こうした面で戦後の理科教育振興法が果たした役割の大きさは、改めて強調されねばならないと思います。

   ★

では戦後民主教育の花が咲いた頃はどうか。
教育技術研究所が編んだ『小学校理科教育事典』(昭和27年、小学館)より、最近の理科教育思潮」の一節から。

 〔…〕終戦後の教育の方針が、アメリカの指導によってたてられたことは、いうまでもない。それは、制度の改革から教科の改革までおよぶ非常に大がかりのものであった。その改革のあらしのなかで以前からあった理科という教科は確かに残った。しかし、それに対立する性格をもつ新しい教科として社会科がうまれた。これは見かたによっては、公民科、地理、歴史などの総合のようでもあるが、それにプラスする何物かがある。そのために、社会科はにわかに堂々たる教科となった。古いものが新しいものにおされるのはごくありふれたことで、古着をまとった理科は社会科の前にまことに見すぼらしく見えた。高度の自然科学を要求した兵器の改良または生産も昔ばなしとなり航空整備兵の教育もいらぬ平和の時代には、しゃちこばった理科教育などに、何の価値も認められないように見えた。全教育に対する理科教育の比重が、終戦後にわかに小さくなったと判断するのは、わたしばかりではないであろう。

こんなふうに理科と社会科が角を突き合わせていたとは知りませんでした。そして理科教育そのものが、戦後教育の現場で非常に軽んじられた時代があったことも驚きです。戦後は戦中にもまして理科教育の重要性が叫ばれ、それが後の高度経済成長につながった…ようなイメージを私は漠然と抱いていました。

とはいえ、そんな逆風にもめげず理科教師を志した先生たちは、理想教育に燃え、日々奮闘していた…かといえば、そこにはまたすぐれて人間的な姿もありました。
以下は同じく「理科教育における望ましい教師」という章からの引用。

〔…〕このように広く全面的な理科学研究をした上に、さらに自己の専門である物理なり、化学なり、生物なり、勉学修業を積むよう努力すべきである。

 そんなことをいっても、今日の小学・中学の教師はとても忙しくてできないといわれるかも知れない。お説全くその通りである。だから急がず怠らず、年期をかけてやればよい。五年十年十五年と気長に根気よくやっておれば、だんだんにできていくものである。

 早く職員間のリーダー格になりたい、などとあせるとできはしない。幸いにこの頃では校長や教頭よりも、平教員でいて月収入の多い人がどしどし現れてきた。もちろん、人間は金銭づくだけで満足できるものではない。殊に教育者の如き聖職ともいわれる職においては然りである。しかし平教員であれば校長と同年位でも同じ学歴でも、月給が非常にちがう、というのでは、妻子を養うのにも大変困ることにもなる。ところが今日この頃では月収入では校長が校内の三番目五番目などという例はザラにある。誠に下品な話のようであるが、普通一般の人間としては、これも重大な一条項である。平教員として道のためにしし営々、安んじているのには大事な一条件が、この頃はみたされているといえよう。

 「教員として直接に子供を毎日教え導くことは、校長や教頭となって、町村の有力者や都教委事務局のお役人と接しようとするよりもむしろ愉快だ。」
という声もよく耳にすることである。

なんだか読んでいて切なくなります。
「聖職」という言葉で我が身を励まし、「むしろ愉快だ」と嘯いても、心と懐のわびしさはいかんともしがたく…。昔の先生たちは(というか、先生たちも)、日々こんなことを考えて仕事をしていたのですね。何にせよ、人が生きていくと云うのは大変なことです。
ちなみに、昭和27年(1952)といえば、小説「二十四の瞳」が発表された年で、小津の「東京物語」の封切りは翌28年。

  ★

天声人語子は、ホルマリン漬けの標本と人体模型が並ぶ暗い理科室を、かつての理科教育を象徴するものとして語りました。しかし、それが国民全体の普遍的な記憶となったのは、昭和30年前後から始まる理科室大躍進期以降のことですし、その影には先生たちの哀切な日常がありました。その後、理科室が明るく再整備され、(主観的にはどうか分かりませんが)貧にあえぐ先生もいなくなりましたが、今度は虫を恐れる理科嫌いの先生が増え…というわけで、みんな悩んで現在(いま)があり、そして今後も悩みは尽きないことでしょう。

モルー神父の青い星図2014年04月25日 06時45分09秒

新しい職場にまだ慣れなくて、仕事のペースがつかめません。
そんなわけでブログもちょっと滞りがちですが、無理のない範囲でぼちぼち続けていきます。

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さて、今日は星図の話。
先日(4/15)登場したムーア様式の怪天文台の主、モルー神父が編んだ星図集が手元にあります。特に奇をてらった内容ではなくて、どちらかといえば地味な品なので、こんな機会でもなければ登場しないと思い、ここに載せておきます。


Abbé Moreux
 ATLAS CÉLESTE pour chaque mois de l’année. (nouvelle édition)
 G. Doin & Cie (Paris)

(タイトルページ)

手持ちの本には刊年の記載がありませんが、巻末を見ると、1928年に刊行された同師の『天空と宇宙 Le Ciel et l’Univers』が大きく宣伝されており、たぶんその前後に出たものでしょう。(ちなみにフランス国立図書館には同じ星図集が3冊収蔵されていて、それぞれ1925、1945、1967年に出ています。フランスではかなり長期にわたって版を重ねたようです。)


この本は32×25センチの横長の版型で、「本」とは言っても、中身は綴じられていなくてバラバラです。メインは各月ごとの星図12枚、そこに同じ枚数の簡単な星空解説が付きます。


4月の星図。月初めの午後9時、月半ばの午後8時にフランスから見上げた星空が円形星図(真ん中が天頂)で表現されています。こうした体裁は各月共通。

爽やかな青が素敵な、愛らしい星図ですが、こうした形式はすでに19世紀のイギリスに先例があります。たとえば下の記事に出てくるプロクターの星図は、当時大いに人気を博し、他にも模倣する人が出ました。モルー神父もおそらくそこから想を得たのでしょう。

リチャード・プロクター 『星たちと過ごす半時』
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/08/552832


巻末の出版案内。モルー神父が書いた、あるいは監修した本がずらりと並んでいます。全部をチェックしたわけではありませんが、いずれも1925年前後のごく短期間に出た本で、彼が驚くほど多作家だったことが分かります。

そのタイトルを見ると、「天空と宇宙」のようにごく普通の天文書もありますが、「科学と信仰のフロンティア」、「ファラオの神秘科学」、「アトランティスよ、汝は存在したのか?」、「火星の生命」、「現代の錬金術」…etc.、科学・宗教・歴史を混ぜ合わせたキワモノっぽいものも目立ちます。師匠に当たるフラマリオンのその方面の関心を、彼も受け継いでいたのでしょう。

よみがえるコメタリウム2014年04月26日 08時07分10秒

ずいぶん昔の記事に、Sii Taaさんから驚きのコメントをいただきました。

回れ、回れ、コメタリウム!
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/06/

コメタリウム(彗星儀)は18世紀生まれの天文教具で、彗星の公転(および、さらに敷衍してケプラーの第2法則)を歯車を使って巧みに視覚化して見せる装置。上の記事ではその19世紀初頭の版画を紹介しています。

頂戴したコメントは、このたびSii Taaさんがその精確なレプリカを作られたことのお知らせでした。その驚くべき実物は、Sii Taaさんのブログで拝見することができます。


Sii Taaのブログ: Cometarium
 http://kachinet.jp/blog/blog.php?key=49314
 (Sii Taaは元ページではタイ語表記。またリンク先ページの画像をクリックすると
  拡大します。)

機械部分に関しては、より正確な動きを実現するために、オリジナルに改変が加えられているとのことですが、完成品のたたずまいは、まさに200年の時を超えて版画から飛び出してきたかのようです。正確に削り出された真鍮パーツの機械美と、その黄金の輝きに思わず目を奪われます。

Sii Taaさんのコメント欄で、はしたなくも「販売のご予定は?」と質問してしまいましたが、もともと販売は考えていらっしゃらない由。唯一それだけが残念。。。

それにしても、人を羨んではいけませんが、こういう技能と才に長けた方って、やっぱり羨ましいですね。

コメタリウム続報2014年04月27日 20時08分20秒

先ほどまでまったく別の記事を書いていましたが、たった今Sii Taaさんからのコメントで、昨日のコメタリウムの動作がYouTubeにアップされたとお聞きし、急きょ記事を差し替えます。どんな記事であれ、その前には消し飛んでしまいますから。



うう、すごい!!
Sii Taaさんは、コメタリウムの存在を知ってからわずか1か月でこの作品を仕上げられたそうですが、この動画もたった1日で完成されたわけで、これまた驚きです。本当に才能というのは世界に偏在(≠遍在)しているなあと思います。

それにしても美しい。。。。

フランス天文学会の門をくぐる2014年04月29日 08時11分58秒

さて、話をふたたびモルー神父(1867-1954)に戻します。
彼は26歳のときに(1893)、カミーユ・フラマリオン(1842-1925)がその6年前に創設したフランス天文学会(Société Astronomique de France;SAF)に加わり、フラマリオンと親しく接することで、その天文趣味を大きく育んでいきました。

これはモルー神父に限らない話で、フランスの天文趣味は、良くも悪くもフラマリオンとSAFの圧倒的な影響下にありました。これはフランスの国柄とも関係するのですが、フランスは伝統的に中央集権国家であり、あらゆる組織が中央集権的色彩を帯びていた…と言われます。そのため、たとえば同時代のイギリスが、各地に自立的な地方天文協会を生み落とした後に、それらが連合して全国組織を作り出したのに対して、フランスの場合はまずSAFという中央組織が作られ、その後各地に支部が順次成立したという、真逆の状況があったようです(1)。

この19世紀のパリに生まれた洒落た団体は、遠い異国の存在とばかり言い切れません。以前、「明治日本のアマチュア天文家…日本天文学会草創のころ」と題して2回にわたって記事を書いたことがありますが(2)、その第2回で触れたように(その中ではSAFを「フランス天文協会」と訳していますが、同じものです)、草創期の日本天文学会は、SAFの影響を受けていましたから、フラマリオンの影は、意外と身近なところにまで差しているわけです。

そこで―。
私もフランス天文学会の門をくぐってみます。もちろんSAFは今も存続していますから、普通に正面からくぐってもいいのですが、ここは天文古玩的に、過去にさかのぼってフラマリオンその人に会いに行こうと思います。
そのパスポートがこの1枚の紙。


戦前のフランス天文学会会員証。
寸法は8cm×12cmで、名刺より大きく、葉書よりは小さいサイズです。

中央には月桂樹に飾られた天文用具が並んでいますが、ここでもアーミラリーが望遠鏡や八分儀を従えてデンと居座っており、その地位は絶大。さらに、その背後から昇る巨大な太陽の光芒には、フラマリオンが選んだ12大天文家の名前が見えます。

ピタゴラスに始まり、ピロラオス、アリスタルコス、ヒッパルコス、コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートン、ラプラス、ハーシェル、アラゴー、ルヴェリエの12人。なんとなく古代偏重と、フランス人の身びいきが感じられる人選ですが、この辺がフラマリオンの天文観を反映しているようです。

最後のルヴェリエは、フラマリオンが若い頃パリ天文台に勤めていた際の上司。彼は海王星発見の立役者で、天文学者としては一流でしたが、人間としてはいささか狷介・短気な性分で、結果的にフラマリオンも耐え切れずに彼の元を去ることになりました。それでもフラマリオンの天分を最初に見出したのはルヴェリエでしたし、フラマリオンはその恩義と才能に深い敬意を抱いていたと思われます。

なお、同学会の会長はフラマリオンで間違いありませんが、その上に名誉会長を戴いていたらしく、「LE PRÉSIDENT Bonaparte」の名前が右側に見えます。これは第6代カニノ公、ローラン・ボナパルト(1858-1924)のことで、ナポレオン1世から見ると弟の孫にあたる人物。彼は門閥の出であると同時に好学の士で、フランス地理学会会長など、複数の学会に関与していました。


会員証の裏面はこんなふうです。元の持ち主は、会員番号6346/カミーユ・ティオンヴィル氏。本当はサインや写真や証紙などを貼ったり書いたりしないと無効だったみたいですが、いかなる事情か、その辺は全部空白になっています。

フランス天文学会は上述のとおり今も存続しており、エッフェル塔を間近に望む、ベートーヴェン通り3番地に事務局を置いていますが、当時は東に4キロ寄った、シテ島そばのセルポント通り28番地が所在地でした。
セルポント通りは日本語に直せば「蛇小路」。パリでも最も古い地区にある、この妖しい街路こそ、フラマリオンの幻想を託すにはふさわしいような気もします。

【註】
(1)http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/01/15/7193360 に掲出した
   G. Cameronの論文、p.273以下を参照。
(2)http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/26/5609654
   http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/27/5611389

コメット侍再登場2014年04月30日 21時02分35秒

彗星、フランスの天文趣味…と話を続けてきて、ふと、武士の一行が望遠鏡で彗星を覗いている不思議な蒔絵盆を思い出しました。

■1910年、ハレー彗星の思い出(3)

画像を再掲するとこんな品。


で、これについては追加記事を書いて、明治期にヨーロッパで作られた「蒔絵もどき」だろうという結論を下しました。

■過去記事フォローシリーズ…蒔絵風<彗星の図>の正体

実はつい最近、上の結論を強固ならしめ、さらに生産国はフランスと特定できそうな品をeBayで見かけました。

(出品者の商品説明写真を寸借)

ご覧のように、こちらは盆ではなくて蓋つきの箱ですが、絵柄はまったく同じです。
出品者であるフランスの業者によれば、これはナポレオン三世(1808-1873)の時代の品で、「19世紀末の美しい大ぶりの箱。状態良好。彩色の保存状態は完璧。留め具も同様。サイズ23.5×15×5.2cm」とのこと。ナポレオン三世と「19世紀末」ではちょっと時代が合わない気もしますが、1870~80年代頃というニュアンスなのでしょう。素材は木ではなくて紙塑製です。

私も好奇心から入札してみましたが、本来の天文趣味とは距離があるので、あまり気合を込めずにいたら落札しそこねました。最終落札価格は3622円なり。

競り負けたあとで、「ひょっとしたら大魚を逸したのでは…?」と一瞬思いましたが、よく考えたら、同じ絵柄が手箱にも盆にもあるということは、どこかで印刷技法を使って大量生産していたに違いなく、また出会う可能性は十分ありそうです。
それに改めて検索してみると、eBayには似た雰囲気の品がたくさん出品されており、上の品を以て「大珍品」と呼ぶには当たらないようです。(↓参照)





当時のジャポニズムの隆盛を再認識するとともに、あまりにも大量に作られたせいか、今ではこの手の品にまったく人気がないことも知りました。値段は状態が良くても数千円どまりらしいので、あのとき妙な色気を出して、無駄に頑張りすぎなくて良かったと、これは少しほっとしています。