長い長い19世紀 ― 2014年05月25日 11時48分30秒
昨日の中世風時祷書から、さらに連想したこと。
あの本には1873年から1898年までの夫婦の思い出がつまっていました。
しかし、皆さんは1873年と1898年という年次を見てどう感じられますか?
あるいは、もっと幅を取って1870年と1919年だったらどうでしょう?
■オペラ座の怪人(2004)予告編
ジェラルド・バトラーがファントム役を演じた、2004年の映画「オペラ座の怪人」。
その導入部で、観客はまず1919年のパリに連れて行かれます。そこは、画面がチラチラするような古ぼけたモノクロフィルムの世界。そこではオペラ座にちなむ品が次々にオークションにかけられており、競りに参加している老人たちが、司会者の口上と共に鮮明な記憶をよみがえらせた瞬間、舞台は一転して1870年のオペラ座へ―。
1919年は現代からすれば遠い過去です。そして更に半世紀遡った1870年は「遠い遠い過去」のはずですが、かつてファントムと対決した老子爵の記憶がそうであったように、そこは極彩色のあでやかな世界として描かれています。
★
さて、ここで話題にしたいのは映画のストーリーではなくて、歴史感覚のことです。
他の方はどうか分かりませんが、私の感覚では19世紀の後半から20世紀の初頭までは一連なりになっていて、あまり時系列の先後を気にしないところがあります。
いや、もちろん頭では違うと分かっているのですが、感覚的にゴチャゴチャっと固まっているというか、同じ色に染まって見えるというか、そんな感じです。
1870年と1919年というと、日本ではそれぞれ明治の初めと大正の半ば。これも大雑把に「明治大正」といった括り方をすると「ひと色の世界」に見えたりします。
確かに社会の成り立ちという点からいうと共通する部分があるので、そういう括り方に道理がないわけでもないと思いますが、しかし当時の世界をリアルタイムで生きた人々にとっては、長い長い時間の経過があり、両者がまったく違った世界に感じられて当然です。まあ、50年もたてば、おぎゃあと生れた赤ん坊に孫ができようかという頃なので、結構な時間にはちがいないですね。
当り前のことなんですが、こういうことは日ごろ忘れがちで、私も文章の中でつい「19世紀の○○」と無造作に書いてしまいます。でも、この辺はもう少しこまやかな扱いをしたほうがよさそうですね。
(これまた余談ですが、ウィキペディアの「銭形平次」の項を読んで、あまりといえばあんまりな…と思いました。平次は妖怪なんでしょうか。「作品の舞台が江戸時代のいつ頃かははっきりしない。原作の最初の頃は寛永期(1624年-1645年、江戸初期)を舞台にしていたが、第30話から文化文政期(1804年-1830年、江戸後期)に移っている。」)
あの本には1873年から1898年までの夫婦の思い出がつまっていました。
しかし、皆さんは1873年と1898年という年次を見てどう感じられますか?
あるいは、もっと幅を取って1870年と1919年だったらどうでしょう?
■オペラ座の怪人(2004)予告編
ジェラルド・バトラーがファントム役を演じた、2004年の映画「オペラ座の怪人」。
その導入部で、観客はまず1919年のパリに連れて行かれます。そこは、画面がチラチラするような古ぼけたモノクロフィルムの世界。そこではオペラ座にちなむ品が次々にオークションにかけられており、競りに参加している老人たちが、司会者の口上と共に鮮明な記憶をよみがえらせた瞬間、舞台は一転して1870年のオペラ座へ―。
1919年は現代からすれば遠い過去です。そして更に半世紀遡った1870年は「遠い遠い過去」のはずですが、かつてファントムと対決した老子爵の記憶がそうであったように、そこは極彩色のあでやかな世界として描かれています。
★
さて、ここで話題にしたいのは映画のストーリーではなくて、歴史感覚のことです。
他の方はどうか分かりませんが、私の感覚では19世紀の後半から20世紀の初頭までは一連なりになっていて、あまり時系列の先後を気にしないところがあります。
いや、もちろん頭では違うと分かっているのですが、感覚的にゴチャゴチャっと固まっているというか、同じ色に染まって見えるというか、そんな感じです。
1870年と1919年というと、日本ではそれぞれ明治の初めと大正の半ば。これも大雑把に「明治大正」といった括り方をすると「ひと色の世界」に見えたりします。
確かに社会の成り立ちという点からいうと共通する部分があるので、そういう括り方に道理がないわけでもないと思いますが、しかし当時の世界をリアルタイムで生きた人々にとっては、長い長い時間の経過があり、両者がまったく違った世界に感じられて当然です。まあ、50年もたてば、おぎゃあと生れた赤ん坊に孫ができようかという頃なので、結構な時間にはちがいないですね。
当り前のことなんですが、こういうことは日ごろ忘れがちで、私も文章の中でつい「19世紀の○○」と無造作に書いてしまいます。でも、この辺はもう少しこまやかな扱いをしたほうがよさそうですね。
(これまた余談ですが、ウィキペディアの「銭形平次」の項を読んで、あまりといえばあんまりな…と思いました。平次は妖怪なんでしょうか。「作品の舞台が江戸時代のいつ頃かははっきりしない。原作の最初の頃は寛永期(1624年-1645年、江戸初期)を舞台にしていたが、第30話から文化文政期(1804年-1830年、江戸後期)に移っている。」)
コメント
_ S.U ― 2014年05月25日 16時34分53秒
_ 玉青 ― 2014年05月26日 06時33分52秒
銭形平次に関して、最も蓋然性が高い解釈は、銭形の血筋は子孫連綿と平次を襲名して、代々岡っ引きをやっていたというものです。当然その系譜上にあの銭形警部もいるのでしょう。そしてまた、彼らは周囲の者にも襲名を強要する傾向が強く、子分の「八五郎」や女房の「お静」も当然複数いたことになります。
銭形警部は戸籍名こそ「幸一」で、平次を名乗ってはいませんでしたが、6代目の子孫に当たるそうで、寛永から6代で現代に達するとは、銭形の家系はよほど長寿・晩婚の者が続いたのでしょう。それが証拠に、大川橋蔵版平次では、ガラッ八は2人、お静に至っては3人も途中交代しており、上の解釈に従えば、これは決してプロダクションの都合などではなく、歴史的にリアルな描写を心掛けた結果だと思います。
(なんだか我ながら暇そうですが、でもそうでもないのですよ・笑)
銭形警部は戸籍名こそ「幸一」で、平次を名乗ってはいませんでしたが、6代目の子孫に当たるそうで、寛永から6代で現代に達するとは、銭形の家系はよほど長寿・晩婚の者が続いたのでしょう。それが証拠に、大川橋蔵版平次では、ガラッ八は2人、お静に至っては3人も途中交代しており、上の解釈に従えば、これは決してプロダクションの都合などではなく、歴史的にリアルな描写を心掛けた結果だと思います。
(なんだか我ながら暇そうですが、でもそうでもないのですよ・笑)
_ S.U ― 2014年05月26日 07時43分22秒
なるほど、そう考えると話のつじつまが合いますね(何が・・・)
なお、寛永通宝波銭を投げていた頃に、奉行所から「天下の御通用銭を投げるとは不届き」とお叱りを受け、失職はなかったもののしばらく謹慎したことがあるそうです。その後、波銭を投げることは無くなりました。
子孫が大正の一時期、二銭銅貨を秘密の小道具として使うことがあったそうで、これについては江戸川乱歩に取材を受けているようです。(以上、すべてフィクションです)
なお、寛永通宝波銭を投げていた頃に、奉行所から「天下の御通用銭を投げるとは不届き」とお叱りを受け、失職はなかったもののしばらく謹慎したことがあるそうです。その後、波銭を投げることは無くなりました。
子孫が大正の一時期、二銭銅貨を秘密の小道具として使うことがあったそうで、これについては江戸川乱歩に取材を受けているようです。(以上、すべてフィクションです)
_ 玉青 ― 2014年05月27日 07時02分29秒
あはは。
そういえば、銭形警部ではなかったと思いますが、その一族の者が先日のビットコインの一件に関わっていたとか、いないとか。
そういえば、銭形警部ではなかったと思いますが、その一族の者が先日のビットコインの一件に関わっていたとか、いないとか。
_ S.U ― 2014年05月28日 07時20分12秒
は~なの お~江戸~は 八百八町~
きょうもき~めての きょうもき~めての
ビットコインが~飛~ぶ
(どないに飛ぶんでしょう)
きょうもき~めての きょうもき~めての
ビットコインが~飛~ぶ
(どないに飛ぶんでしょう)
_ 玉青 ― 2014年05月28日 22時21分45秒
今日の記事に書いたような次第で、お礼言上もできず申し訳ありません。
復旧の暁にはまた改めて参上仕ります。平に。<(_ _)>
復旧の暁にはまた改めて参上仕ります。平に。<(_ _)>
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>「銭形平次」
(笑)それは、いいかげんなことですね。寛永通宝が江戸期の長期間発行されていたことによるのでしょうか。ちなみに寛永通宝は、慶應年間まで鋳造されていたそうで、そのころは、寛永時代から230年ほど経っています。幕末に「寛永通宝」を鋳造するのは、平成の現代に「天明通宝」を発行していることに相当し、これもすさまじくおっとりした時代感覚だと思います。
なお、私の調べたところ、平次が投げるのは真鍮當四文銭(波銭)という種類の寛永通宝で、これが発行されたのは1768年以降ということだそうですので、これが投げられている限りは、江戸時代前半ではありえません。