別次元の賢治翁に問う ― 2014年06月17日 21時35分01秒
じっとりとして、また一雨来そうです。
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1896年8月27日に生まれた宮沢賢治。
再来年が生誕120周年です。
亡くなったのは1933年9月21日、昨年は没後80周年でした。
彼は37歳で病に倒れ、最後まで農民のために力を尽くした人として、死後、聖人化が進みましたが、しかし、もし彼がその後も長寿を保ったら、どんな塩梅になっていたでしょう。昨日、寝床の中でぼんやりそのことを考えていました。(彼の結核は相当進んでいたので、これは純然たる「もし」に過ぎません。)
仮に賢治が齢八十に及んだとしたら、亡くなったのは1976年(昭和51年)です。
子ども時代の私は、賢治と同じ時代を共有できたことになり、光栄には思いますが、彼の文名が果たして今のように挙がっていたかどうかは定かでありません。もし彼が市井に埋没していたら、私は賢治のことも、その死も知らずにいたでしょう。
(なお、これは私の個人的な思いですが、30代で亡くなった彼は、自ら老いを経験することはありませんでした。賢治文学は基本的に青年の文学であり、老いに対してどう処すべきか、あまり教えてくれません。私はそのことを憾みに思います。たしかに病によって自分の力が衰えていく経験はしたし、そのことを悲しみもしたでしょう。しかし、「老い」は、「病」とまた別の感慨を人にもたらすものです。)
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昭和8年(1933)、あの病患を辛うじて逃れた賢治。
ようやく床離れできたのは、明くる昭和9年の初夏のことでした。
夢見がちな彼は、知人のつてをたどって再び上京し、かろうじて雑誌社の隅に職を得て、しばらくは気ままな東京暮らしを続けました。もちろん、かつての詩稿を東京で活字化する夢も捨ててはいませんでしたが、それが易々と実現する程、現実は甘くありません。
そうこうするうちに、故郷の両親と悶着が持ち上がります。当然、話題になったのは、彼の結婚問題と家業の継承問題です。
昭和11年、40歳を前にして、彼はとうとう結婚を承諾させられます。2年前に妹トシの13回忌も済ませ、彼の中で一つの区切りがついたことも、老父の願いに強く抵抗しなかった理由です。
故郷で待っていたのは、一回り下の女性でした。賢治もその顔には見覚えがありました。彼女は家庭の都合で婚期が遅れたものの、女学校を出て教師勤めをしていた、優しく賢い女性でした。彼女の徳によって賢治の「修羅」は矯められ、彼の人生はようやく安定したものとなったのです。
小さい子供たちを抱えて花巻空襲の業火を逃れたこと、焼け跡から店を再建して、昭和25年に花巻の目抜き通りに宝飾雑貨の店をオープンしたこと、晩年の彼にとってはいずれも懐かしい思い出です。
もちろん彼は文学を捨ててはいませんでした。忙しい仕事と両立する活動として、作歌を続けており、一時は地元の歌誌も主宰しましたし、『岩手の歌人たち』、『土を詠む』という本を東京の出版社から出したこともあります。
昭和51年、彼は家族・知友に囲まれて、花巻市内の病院で静かに息を引き取りました。そのとき、かつて彼の心が生み出した『銀河鉄道の夜』のことを話題にする者は誰もいませんでしたが、しかし賢治は幸せでした。
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…とまあ、いい加減なことを書いて天上の賢治の怒りを買ってはいけませんが、人生どう転ぶか分かりません。
賢治が長生きしていたら、そして温和な生活に入っていたら、賢治は今ほど世間の注目を浴びなかったのではないか…という疑いを、私は捨てきれません。
あるいは高村光太郎や草野心平の研究者によって、その周辺にいた人物として簡単に紹介されたかもしれませんし、東北の農村芸術運動の指導者の一人として、社会学的観点から関心を持たれることもあったかもしれません。でも、「偉大な天才詩人」となりえたかどうかは…?
残酷な言い方ですが、賢治の夭逝は我々にとって幸せな出来事でした。
しかし、賢治にとってはどうだったでしょう。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
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