真実のかけら2014年06月24日 06時57分52秒

一昨日の記事は、私自身以外には、特に何の意味もない記事でした。
ああいうふうに自分の心を掘り返すのは、とてもしんどいことですが、ただそれが不可避の場面もあって、そういうときは往々にして自己との対決の様相を呈します。文学では普遍的なテーマだと思います。

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ここで鉱物の話題に連想が飛躍します。
人がなぜ鉱石(いし)に惹かれるのかを考えると、暗い地下の世界に下降し、途中危険な目に遭いながらも、最後に光り輝く石を手に入れ、地上へと帰還するプロセスが、人間精神の探求のアナロジーにもなっているからではないでしょうか。

もちろん、今ではコレクターにとって鉱物は「買う物」ですし、自採する人にしても、そのために暗い坑道に入っていくなんてことは滅多にないでしょうが、古来の鉱石の受容のされ方を考えると、上のようなことも、まんざら有り得なくもないかな…と思います。

以下は、クール(von Kurr)著、鉱物の王国(Das Mineralreich』(1874)表紙絵より。(全体はこちらを参照。http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/11/24/3973846

 (下降)

 (探求)

 (発掘)

 (帰還)

 (手にしたものの輝き)

ここで、鉱物が「真実」の、特に「心的真実」のアナロジーになっていることは言うまでもありません。私はパワーストーン系の人とは全く接点がありませんし、話が合うとも思いませんが、でも彼らがなぜ鉱石にメンタルな意味を持たせたいのかは、分かる気がします。そしてその文化的根はかなり深いものだと思います。(ひょっとしたら占星術と同じぐらい古いかもしれません。)

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おまけ。


カリフォルニアのオクスナードという町にあった(今もある?)鉱物愛好倶楽部のピンバッジ。たとえ自採がマイナーになっても、シャベルとつるはしは、今後も鉱物趣味のシンボルであり続けることでしょう。