古川龍城を知っていますか2014年07月13日 11時36分28秒

日本の天文趣味をたどるために、明治大正の本を何冊か手元に置いています。


その中に古川龍城(ふるかわりゅうじょう)という人の本が何冊かあります。
画像は左から、

  『天文界之智嚢』 (中興館、改訂11版、1933/初版1923)
  『星のローマンス』 (新光社、1924)
  『星夜の巡礼』 (表現社、1924)


の3冊。出版年をご覧いただければお分かりのように、大正12~13年のごく短い期間に、立て続けに出た本です。

「日本の天文趣味をたどる」と云うわりに、私は著者である古川その人について何も知らずにいたのですが、たまたま以下の報告に接し、「へええ、そうだったんだ」と思ったので、ここに挙げておきます。

冨田良雄、「古川龍城と山本一清」
 第3回天文台アーカイブプロジェクト報告会集録 (2012), pp.24-27.

 http://hdl.handle.net/2433/164305 (←リンク先ページからダウンロードをクリック)

冨田氏の報告によれば、古川は山本一清の弟子に当たり、山本が京大で助教授だった頃、彼はその下で助手を務めた、本職の天文学徒だった由。私はてっきり彼を在野の文筆家と思っていたので、そのことがまず「へええ」でした。そして東亜天文学会(当時の天文同好会)の会誌「天界」のネーミングも古川の発案だそうで、不肖の会員である私は、そのことも知らずにいました。これまた「へええ」です。

とはいえ、彼の学究生活は長く続かず、大正11年(1922)に、京大から東京麻布の天文台(三鷹の旧東京天文台の前身)に転じたあと、翌年の関東大震災を機にそこも辞し、純粋な小説家として立とうとしたり、地震学に興味を示して、東大地震学教室に一時籍を置いたり、かと思うと鳥類学に手を伸ばして、昭和に入ると「国民新聞」の記者をしながら、その方面の文章を書いたり、冨田氏によれば、「鳥の研究者からは天文学出身の謎の人物とされており、かたや天文学分野からみても謎の多い人物」という存在になっていました。

その最期もはっきりせず、晩年は郷里の岐阜に帰り、昭和30年(1955)頃に亡くなったそうです。

   ★

何だか不思議な人ですね。

古川と入れ替わりに日本の天文シーンに登場し、戦後も永く君臨しつづけたのが野尻抱影であり、古川は謂わばその露払いの役を務めたと言えます。
日本の天文趣味史において、その果たした役割は決して小さくないはずですが、そのわりに知名度が今ひとつですので、ここにその名を記しました。

コメント

_ S.U ― 2014年07月14日 20時42分01秒

古川龍城という人は、これまで聞いたことがありませんでした。古川緑波なら何度か聞きましたけど。

 変わった人というのか、たまにはありそうな人なのかそれすらも謎ですが、文才はあったのでしょうね。本の中身はいかがでしょうか。

 それにしても「星のローマンス」とか「巡礼」とか野尻抱影のラジオ番組名や著書名に似ています。これは抱影がこれらから拝借したということでしょうか。まあ普通の名詞ですので、拝借していけないということはないでしょうが、時期的にはほとんど違いませんね。

_ 玉青 ― 2014年07月15日 20時54分48秒

「ローマンス」や「巡礼」は、まさに「時代の言葉」かもしれませんね。

大正13年に出た龍城の『星夜の巡礼』と同14年に出た抱影の『星座巡礼』を読み比べてみると、前者は「である」体、後者は「ですます」体を基調にしているという違いもありますが、それ以上に文章の呼吸が違って感じられます。龍城のほうは表現にしても、語彙にしても、生硬で、いかにも「科学エッセイ」風なのに対し、抱影の方は当初から「抱影節」全開で、文学味が濃いです。(とはいえ、どちらかの本の一節を抜き出して、どちらが書いたものか当ててみろと言われたら、ちょっと難儀するかも…。それぐらい素材と扱い方は似ています。いずれも似たような海外の類書を参照しているせいでしょう。)

_ S.U ― 2014年07月16日 07時23分12秒

>「科学エッセイ」
 いわゆる教科書、時代的な啓蒙書ではなく、「文学的」娯楽書でもなく「科学エッセイ」的教養書とすると、けっこうその時代では先進的なものなのでしょうか。

 古川龍城がどういう立ち位置で文筆業に移ろうとしたのか興味があります。若い理系の研究者がサイエンスコミュニケーターとして科学普及の才能を発揮することが増えましたが、これはここ10年くらいのものと見ています。(現在では、政策的にバックアップ体制ができたためですが、そういう志望の人は昔からいたはずです) そういう人のとてつもない先駆けという可能性もあるように思います。

_ 玉青 ― 2014年07月16日 20時43分09秒

S.Uさんもお読みになったと思いますが、冨田氏の報告で引用されている龍城の述懐。
あれは随分屈折した心情吐露で、真意をつかみかねる部分も多いですが、要は「天文学は自分には向いてなかった」という告白でしょうか。
龍城は山本一清に嘱望されたほどの人ですから、非常に才能豊かな人ではあったのでしょう。しかし、結果的に天文学も、文学も、鳥類学も、彼の才能を開花させる土壌ではありませんでしたし、彼自身も終生不全感を感じ続けたように想像します。
そういう人は世間に少なくないのかもしれませんが、まあ何にせよ寂しく、かつ残念なことには違いありません。機会があれば、虫すだく夜、その話を静かにうかがってみたいですね。

_ S.U ― 2014年07月17日 05時34分21秒

>龍城の述懐
 これを読んでもわからないことが多いです。ある職業が自分に向いている向いていないということは普遍的にあるとして何ら問題はありませんが、学問研究に向いていないということはどういうことなのか。たとえば、理科系の基礎科学分野で、大学で助手になる、現在ならそこまで行かなくても大学院で修士号を取る、そこまで行けば、それは常人とは並外れたその分野の才能があったことは間違いなく、その学問への熱意があったことも疑いの入れようがないのですが、それでもなおかつ「向いていない」ということがあるのか、あるとしたらどういうことなのか、というのが問題です。

 たとえば、サッカー、野球のようなスポーツ、または、ピアノやバイオリンのような楽器奏者の場合はどうか、プロの入口まで来ておりながら「向いていない」と自らあきらめる人がいるのかどうか、スポーツや器楽の世界は、プロのリーグとかコンサートでトップアーチストとして客を呼べる人の数は限られているでしょうから、「一流どころのプロになれない」という意味ならわかります。

 しかし、アカデミックな研究は、スポーツや器楽とはそうとう違うように思います。分野が広いので、プロの一流チームに入らなくても十分に世界に伍する研究はできますし、プロも大学の先生に限りません(龍城の時代でも、民間での発明研究や、科学ジャーナリストはあった)。また、ここでは、世界に向けて十分な成果が出せる地位にあった人までがそう言っているのだから、明らかに問題が違うように思います。

 しかし、私は、それでも「この学問に向いていない」という気持ちは理解できるように思います。成績の善し悪しとか就職の可否といった表面に出るものとは違う、何か、人間の心の奥に複数の要素があり、その噛み合い方の違いという問題がありそうです。「そこそこ良くできて、楽しいのだけど、何かちょっと違う」というものですが、これが研究者と他の職業で、同じ構造を持っているのか、そうではないのかはわかりません。

 ところで、一方では、専門分野でなくても文筆での解説が魅力的だったり、名選手が名監督になれなかったり、ろくなオリジナル作品が作れない人が他人の作品の批評や添削は第一級であったりするので、本当にこのへんは微妙なメカニズムが働いていると見ざるを得ません。

_ 玉青 ― 2014年07月19日 10時05分59秒

龍城は文学に惹かれ、それで身を立てようと思ったぐらいですから、自己の内面を常に見つめるタイプの人だったのでしょう。そして割と潔癖でもあったんでしょうね。自分の思いに常に忠実であろうとしたといますか。彼は研究にしても何にしても、燃えるような手ごたえ、芭蕉が言うところの「この一筋に連なる」感覚を欲し、それを求めて終生試行錯誤したのかなあ…とボンヤリ想像します。

まあ、普通の人であれば、「そうは言っても生活もあるし…」と、分別を働かせるところですが、幸か不幸か彼は才能豊かな人だったので、思い切ったチャレンジを繰り返しました。しかし、彼はすべてのチャレンジに必ずしも結果が伴うわけではないことの生きた例証にもなっています。

まあ、そんな皮肉な言い方をしなくても(私は龍城に嫉妬しているのかもしれません)、彼の場合、世間的な評価など最初から度外視して、自分自身の満足度こそ行動基準だったわけですから、その点でどう思っているのか、そこを聞かないといけませんし、聞いてみたい気がします。(破顔一笑、「満足?そんなもんするわけないでしょう。それよりね、今度元気になったら、ボク、○○に挑戦しようと思ってるんだけど…」と、臨終の床でも言ってくれたらなあ…と、これは私の勝手な願望です。)

_ S.U ― 2014年07月20日 11時26分35秒

 「向いている・向いてない」ということは容易にわからない、あるいは議論自体に意味はないかもしれず、とにかく一筋にやることが尊いと考えたのかもしれませんね。

 いっぽう、現代では、自己の適正診断などといいつつも、結局は、現実の社会に広く目を向けさせること、コミュニケーション能力を磨くことを一様に求め、大学は就職予備校化してゆく、それは多数派の若者の要求に答えているつもりなのでしょうが、これで、本当に若者の多数派が幸福になってゆくのか、そろそろ反省が必要な時期だと思います。

_ 玉青 ― 2014年07月20日 12時35分09秒

何事もそうでしょうが、仕事の向き不向きというのも本当に「やってみないと分からない」ことが多いですね。というよりも、自分を含むたいていの人は、ずば抜けた能力もない代わりに、そこそこ適応能力があるので、仕事自体は一筋にやれば何とかなることが多くて、むしろ問題は周囲との人間関係だ…という例が多いようです。そういう意味で「適性診断」というのは、人間の可塑性を過小評価しているようで、あまり好きになれません。コミュニケーション能力というのも、まあ普通にあれば十分で、特別磨くようなものでもありませんし、磨かないといけないぞと若い人を強迫的に駆り立てるのは罪なことだと思います。

_ くろがね ― 2014年08月07日 21時47分21秒

この部屋にノックさせて頂きます

古川龍城氏の本で、「天文学と人生」(大正13年想泉閣)
という本が発刊されておりますが、 この中P49に
「大きな声では言えないが著者が東京天文台に在った時
天気が良いと毎夜毎夜 芝居も活動写真もそっちのけで、
ノコノコと天文台に出ていかねばならぬ 中略 初めのころこそは
面白かったが、だんだん慣れてくると その仕事が馬鹿らしくなり
ああ人は歓楽の巷に思うまま咆哮しているのに 中略 自分は
器械が不従順に動くのにむしゃくしゃせなばならぬのかとそぞろ
長嘆息したこと幾度か・・・」という文面があります。

また天文学者の心の裡は、こんなものとも書かれてます^^

この文面からも 天の星より 巷の星に心が動いていたのかも
しれません。

なお この「天文学と人生」は、国会図書館デジタルコレクションに
入ってますので、インタネットで、読めます。

長文失礼しました。

_ 玉青 ― 2014年08月08日 06時48分48秒

くろがねさま、これは興味深い情報をありがとうございます。

>天の星より 巷の星に心が動いていたのかも

あはは。記事ではいろいろ忖度しましたが、存外この辺に彼の真意があったのかもしれませんねえ。文章の呼吸からすると、半ば冗談のようでもありますが、でも、きっと冗談ばかりでもないでしょう。

大正13年というと、彼が天文台を辞めて間もない頃ですね。ここでは東京天文台の名が挙がっていますが、彼がそこに在籍したのはごく短期間ですから、実はもっと以前、京大にいた頃から、巷の星に心動かされることが少なくなかったのかなあ…とも思います。(ある意味、健全な若者ですよね。)

「天文学と人生」、さっそくブックマークさせていただきました。

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