理科とホラー2014年09月14日 15時02分11秒

先日、理科趣味の話題が出たときに、理科趣味と怪奇漫画には、何かその間に糸を引くものがあるのでは…というコメントをいただきました。理科室がしきりに舞台となった、かつての怪奇漫画に親しんだ経験は、その後の理科趣味涵養に影響を及ぼしているのではないか? という問いかけです。

これは、大いにありそうなことです。

はじめに少し概念を整理しておくと、いわゆる理科趣味には、透明な鉱石や、白く煙る銀河、カラフルな蝶のような、美しい存在に憧れる「カラッと明るい理科趣味」と、人体模型や骨格標本、瓶詰標本のようなダークな理科室世界に憧れる「ジメッと暗い理科趣味」があります。

まあ、この辺は個人差もあって、蝶の標本に暗く不気味なものを感じる人もいますし、生物の精妙な骨格構造に、鉱物と同質の美を感じる人もいるでしょう(いったん化石化すると特にそうですね)。その辺の細かい出入りはあるにしても、理科趣味に「明るい理科趣味」と「暗い理科趣味」があることは、多くの人の感じるところだと思います。

ホラーとの関係でいうと、もちろん「暗い理科趣味」はそれに直結しています。
いささか安易な気はしますが、「ジメッと暗い」がゆえに、ホラーの舞台や道具立てに理科室が用いられるのは、ごく自然な方向性です。今の理科室は知らず、少なくとも昔の理科室は、不気味なムードに事欠きませんでした。

(楳図かずお、『漂流教室』より)

さらにまた、ホラー作品には、ジキル博士、カリガリ博士、フランケンシュタイン博士、『ドグラマグラ』の正木博士のような、「黒い博士」の系譜がありますが、魔術師めいた彼らの存在も、ダークな理科趣味とホラーを結びつけるものとして、無視できないところです。

   ★

さて、ここで次のような問いを問うてみたいと思います。
「暗い理科趣味」がホラーと関係があるのは事実として、では「明るい理科趣味」はホラーとは無縁なのか?

これは理科趣味というものの深い部分に関わる問いだと思います。
コメント欄でのやりとりでは、日常を超えた世界、常ならぬものへの好奇心が、科学的探究と怪奇趣味を媒介しているのではないか…ということが語られました。要するに「不思議なものへの憧れ」という一点において、両者には共通点があるということです。

ホラーというのは、あからさまに不気味だったり、グロテスクだったりするところに成立するばかりではなく、清澄で穏やかな場面にも、ふと立ち現われることがあります。
鉱石のきらめきの奥に、真夜中の空に白々と横たわる銀河に、無数に並ぶ蝶の鱗粉の表情に、皆さんは、ふと怖さを感じることはないでしょうか。

素の自然と向き合うとき、人はご都合主義的な癒しばかりではなく、深い畏怖の念を覚えることがあります。そして、そこに幻想の花が咲くこともままあるでしょう。

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最近出た賢治本を読んで、上のことを強く感じました。
賢治といえば、明るい理科趣味御用達の観がありますが、彼自身の世界の捉え方には、涼しげを通り越して、何となくヒヤッとするものがあることを、下の本に教えられました。



東雅夫編、『宮沢賢治怪異小品集 可愛い黒い幽霊』(平凡社ライブラリー、2014)

賢治には、なんだか執筆意図のよく分からない作品があることは感じていましたが、それを「怪異」という視点で編んだのが、このアンソロジーです。ここに収められている作品群は、牧歌的・教訓的な童話作家のそれではなしに、賢治の幻視者としての実体験に基づくであろう「奇妙な味わいの作品群」です。

本の帯に書かれた文句は、賢治の次の作品から取ったもの。
(全文は青空文庫所収の『春と修羅』で読めます。http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html


小岩井農場 パート九

〔…前略…〕
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……はさつき横へ外れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  (( 幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ ))

わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  (( あんまりひどい幻想だ ))
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきつと斯ういふことになる
きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです
〔…後略…〕



分かるといえば分かるし、分からないといえば分からない詩です。
ユリアとペムペルが、地質年代のジュラ紀とペルム紀に由来するらしいと聞いても、依然謎めいた感じが強いです。

小岩井農場を徘徊しながら、彼の脳髄には、過去と現在の、そして現実と夢の記憶が交錯し、彼はリアリティの変容とともに、自分と周囲の境界が徐々に溶融していくような経験を味わったのでしょう。そして、そんな経験を、彼は幼い頃から繰り返していた気がします。

   ★

この本の「編者解説」を読み、賢治には、いわゆる神秘体験が少なくなかったことを知りました。

月夜の早池峰山中で、疾風のように駆ける黒衣の僧を見たとか、亡くなった妹のために読経したら、妹が枕元に立ったとか、トラックの荷台から、追いすがる赤い肌をした鬼の子の群れが見えたが、観音様の巨大な白い手に救われたとか、賢治は真顔で人に語っていたそうです。

理科趣味と怪異経験に必然的な、不可分のつながりがあるとまでは思いません。
ただ、賢治の例のように、一個の鋭敏な感受性が、一方では繊細な理科趣味の発露となり、他方では怪異な世界への親和性を見せる例は他にもある気がします。
そして、賢治を通じて理科趣味に親しむ多くの人々は、その怪奇な幻想性の影響を知らず知らずのうちに受けていることも、また確かだろうと思います。