天文雑誌に見る1950年代(3)2014年10月21日 21時21分05秒

これまで自然にできていたことが出来ないのは、本当にストレスフルです。
マシンも、人間も、健康とは有難いものですね。

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さて「スカテレ」の日本版ですが、まずは表紙細見。
日本版の第2号(1951年1・2月号)と、色合いの似たオリジナル版の1955年6月号を並べて撮ってみました。


ご覧のように、「スカイ・アンド・テレスコープ」と誌名がカナで添え書きしてある以外、日本版はオリジナル版とそっくりです。(同時期のオリジナル版を持ってないので、直接比較できませんが、おそらく表紙の写真も、先方のをそのまま使っているのでしょう)。
そのことが、まずこの雑誌の性格を物語っています。


これが記念すべき創刊のことば。その内容を見てみると、

〔…〕 スカイ アンド テレスコープ 日本版の発行はアメリカ原誌の編集長フェデラー氏と京都大学の藤波重次助教授とが企画を進めたのであって、日本におけるこの方面の雑誌がまだ経営の基礎条件に恵まれていない事情を認めてもらって、非常に好意的な契約条件のもとに(例えば原誌は毎月刊であるにかかわらず日本版は隔月刊とした如く)、発行を許可されました。

〔…〕 本誌の発行を引き受けられた京都の三一書房、田畑弘氏はこの仕事の意義を認識されて、営利問題をはなれての後援であります。
 日本版の編集と発行監査は藤波助教授が担当し且つ義務を負うているのですが、日本版の編成のための翻訳陣は京都大学理学部宇宙物理学教室の上田穣教授以下の各員が多忙の中をさいて担当して下さっています。

日本版の編成は翻訳記事70%、日本原著30%ほどの割合とする方針です。

…とあって、その発刊の事情が知れます。

翻訳記事主体というのは、後の「サイエンティフィック・アメリカン」と「日経サイエンス」の関係に似ています。これは雑誌の「形式」のみならず、個々のコンテンツ自体に価値を認めたからでしょうが、現実問題として、執筆陣を確保できなかったという理由も大きいのでしょう。


ページをめくっていて、少なからず驚くのは、本文中にアメリカ国内向けの広告が、そのまま載っていることです。当時、アメリカに気軽に商品を発注できたはずはないので、これは完全に「デザイン」として使っているのではないでしょうか。先方から広告料を取っていたとも思えませんし、そもそもメーカーに掲載の同意を得ていたのかどうか…? 

(国内で広告を取り付けたのは、地元の島津製作所などごくわずか。)

創刊の辞を見ると、日本版は、アメリカ原誌の編集長・フェデラー氏と、藤波重次氏の個人的親交によって実現したかのような書きぶりですが、その辺の具体的な事情も、今となっては謎というほかありません。現在ならば、双方の出版社が、エージェントを介して詳細な契約書を取り交わして…となるところですが、当時はこういうおおらかなことが許されたのでしょうか? あるいは日本側にフライング気味のところがあったかもしれません。

ちなみに、藤波重次氏(1915-1979)は、当時京都大学の助教授で、その所属は「理学部宇宙物理学教室」と明記されているので、「工学部」というのは草下氏の勘違いです(このことはガラクマさんにコメントで教えていただきました)。

(自著『星座写真集―写真による星座の鑑賞と学習』(共立出版、1967)に書かれた献呈署名)

下が草下氏も言及していた礼文島の日食記事(第1号所収)。


「本誌 T記者」とありますが、編集部は発行元の三一書房ではなく、京大理学部宇宙物理学教室内に置かれていたので、「T記者」とは京大の教え子に相違なく、弟子に記者を名乗らせて、得々とインタビューに応じるというのは、よく言えば無邪気、悪く言えば「ごっこ遊び」の延長のように感じられます。

いずれにしても、先方はプロの出版社、こちらは世事に疎い「素人集団」ですから、日本版はかなり無理を重ねて出していたことは確かでしょう。


肝心の定価は130円。同時期の「天文と気象」誌は60円ですから、倍以上の開きがあります(ちなみに原誌のほうは当時40セントでした)。

広告収入もなく、オリジナルの記事も乏しく、雑誌作りのノウハウもない…となると、3号雑誌で終わったのは当然で、むしろよく3号もったなと思います。憶測ですが、主唱者の藤波氏は、この間かなりご自分の懐を痛められたんじゃないでしょうか。

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日本版「スカイ・アンド・テレスコープ」のことを一寸けなし気味に書いてしまいましたが、当時にあっては、もちろん大いに壮とすべき事業で、その志は高く買いたいです。ただ、この雑誌の中身と顛末は、やはり50年代の日本の天文趣味のありようを、如実に物語るものと思います。

当時も熱心なアマチュアはいました。そして見事な成果を上げた人もいます。
しかし、面的な広がりにおいて、日本はアメリカに遠く及びませんでした。要するに、天文趣味は日本ではまだマスマーケットとして成立していなかっということです。

状況が変わってきたのは、昭和39年(1964)に「天文ガイド」誌(誠文堂新光社)が創刊されたあたりからでしょう。ちょうど東京五輪があり、新幹線が開業した年です。日本の社会も大きく変わり、それと同時に天文趣味の姿も変わりました。

あれからちょうど半世紀。私自身の人生とも重なるので、なかなか感慨深いものがあります。

(この項つづく)