透明考2014年11月18日 22時19分21秒



理科趣味と親和性の高い概念がいくつかあります。
例えば、「青」とか「透明」とか「硬質」とか。
わりとヒンヤリした感じ。いわば、精神をヒートアップするのではなく、クールダウンする方向に作用する感覚刺激ですね。

理科趣味はその根っこに「知」への憧れがあり、それはクールで、熱い「情」とは対立するものだ…という前提がそこにはある気がします。
もちろん研究には情熱が必要で、学問とは熱いものなのでしょうけれど、理科趣味(ここでは理科室の空気に憧れる、といった程度の意味)がイメージする理科の世界は、どちらかといえば「情」を滅却した世界です。

さらに(これは私だけかもしれませんが)理科趣味の徒は、その憧れの対象を、すでに完成された静的な体系であると見なしがちです。何となく、鉱物結晶の美を愛でるように、理科と向き合っている気がします。実際には、すべて現在進行形の、動的な存在であるわけですが…

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さて、ここで、その「透明」ということについて。
「透明感のある文体」とか、「透き通った声」とか、透明というのは、おおむね良い意味で使われます。でも、なぜ透明はプラスの価値を持つのでしょう?

他方、「濁った〇〇」というのは、悪い意味になりがちですが、でも「水清ければ魚住まず」の言葉通り、濁りには豊饒なイメージもあって、猥雑な文体や、つぶれた濁声(だみごえ)を売り物にする作家や歌手もいるし、濁りを前面に出して「旨みとコク」をアピールする飲料もあります。

それでも、人が透明を尊ぶのは、見通しの良さは何よりも身の安全を保障するものであり、そこに進化生態学的な意味があったからではないでしょうか。見通しが利かないこと、視界がクリアでないことは、ヒトの祖先にとって間違いなく危険であり、これは暗闇を恐れる心にも通じます。

なお、「透き通った声」のように、透明性が音の比喩にも使われるのは、明らかに人間が視覚優位であることの帰結でしょう。



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以上、何の根拠もない、単なる思い付きです。電車の中でボンヤリ考えたことを書き付けました。