種子を眺める2014年11月23日 09時41分01秒

(昨日の続き)

「ズラッと感」とは何か。具体的なモノに即して、それを見てみます。
例えばこの箱。


見た目は地味な紙箱ですが、この中身がズラッとしています。


どうです、ズラッとしているでしょう。

(蓋の裏に書かれた説明書き)

内容はデンマーク製の穀類種子の標本セットです。
箱のサイズは約30×14cm、その中に40本(内4本は空)の種子サンプルが入っています。売り手の見立てでは1900年頃のもの。


私はもちろん種子の研究者でも、コレクターでもありません。たしかに、植物の繁殖戦略や、進化の妙を考えると、その多彩な形態はとても興味深いと思いますが、物事の順序として、種子への興味がまずあって、それを受けてこの標本を購入したわけではありません。

実際には、この標本に魅かれて、そこから種子への興味を喚起されたわけです。そして、なぜこの標本に魅かれたかといえば、まさに「THE 標本」という、その相貌のゆえです。ですから、本当は壜の中身は、種子でも、昆虫でも、貝でも、とにかく同一カテゴリーに属する多様なヴァリエーションが一望のもとに見渡せれば良かったのかも知れません。そして、それこそが「ズラッと感」の正体だと思います。


コルク栓とラベルの風情が、また標本チックで佳いですね。

   ★

…というふうに「ズラッと感」に注目したところで、改めて中身に目を向けてみます。


ここに集められたのは、いずれも種子を利用する目的で、人間が品種改良したものであり、そこに一種の興味を覚えます。


野生の植物の種子は、非常に変化に富んだものでしょうが、穀類というのは、より沢山、より大きく、より収穫しやすい方向に改良(人間にとっての改良)された結果、みな非常につぶつぶしいものになっています。余分なトゲとか、綿毛とかもないし、わりと粒径もそろっています。


純然たる植物への興味と同時に、ヒトと農の関わりを感じさせる品でもあります。

   ★

ところで、この手の標本は、どんな場面で活用されたのでしょうか。
私自身は学校時代にまったく見た記憶がないのですが、昔は植物学と農学が近しい関係にあったので、植物学の授業でこういうものが使われる機会があったらしく、デロールの昔のカタログにも、似たような品が載っていました。

(1938年4月発行のカタログより)

上の画像中央の「GRAINES(種子)」の項に注目。「ガラス管に入った種子標本の箱入りセット。食用20種、飼料用20種、産業用20種、穀物20種、各セットいずれも55フラン」というようなことが書かれています。

ついでに日本ではどうかと思って、やはり1938年発行の理科教材カタログ(前川合名会社)を見たら…


さすがは豊葦原(とよあしはら)瑞穂の国、お米の標本が冒頭にデンと出ています。
さらに「米類標本」と「米種子標本」が別になっていて、その品目まで事細かに謳われています(前者は精米後の状態、後者は籾入りの状態を標本化したと思うんですが、前者は産地別、後者は品種別の表示になっている理由は不明)。

米であれ、麦であれ、豆であれ、今の人間社会があるのは種子のおかげですから、種子にはいくら感謝しても感謝しすぎということはありません。
その発酵液にお世話になっている人はなおさらです。

コメント

_ S.U ― 2014年11月23日 11時27分31秒

この「ズラッと感」の価値は、「カタログ趣味」の者としてはよくわかります。古書店にとても売れそうにない本まで所狭しとズラッと並んでいますが、あれは、その多くを売ろうとしているのではなく、いろいろな本があるというズラッと感をアピールしているのでしょう。5枚目のお写真の「ルパン」とは何のことかと気になりましたが、これはルピナスのことのようです。合っていますか。今は種子は戦略物資になりましたから、その標本もなかなかウルサイことになっているのではないかと思います。

 昨日の鉱物の標本を見て一つ思いついたことがあります。それは、足穂が例の「水晶物語」で書いていた「その辺の洟たらしが持っている見本」ということばです。じゃあ校長室や登場少年のコレクションは「見本」じゃないのか、標本なのだから見本だろう、という疑問が私にはあったのですが、ここで、足穂は「カタログ趣味」の人ではなく個々の標本のリアリティにひかれていたのだなぁ、と感じました。私は「ズラッと感」の標本を「洟たらし」の持ち物という気は毛頭ありませんので誤解なきようお願いします。

 またも、話はとびますが、けさのジョルジョ・デ・キリコの美術の番組を見ました。若い時のイメージを、時に斬新なアイデアで時に伝統的な手法で老齢になるまで追い続けた点で、足穂にとてもよく似ていると思いました。足穂の作品にキリコが登場していたかどうかは記憶がありません。日本での紹介が足穂の青年時代に多少遅れたのかもしれませんが、よくわかりません。

_ 玉青 ― 2014年11月23日 16時55分11秒

あ、キリコを見逃した!
午前中はサンデーモーニングを見たり、流れが完全にルーチン化しているので、つい忘れがちです。昔は同日再放送だったので、こういうとき便利でしたが、まあそれも良し悪しですね。とにかく、来週の再放送を待つことにします。

>ルピナス

なるほど、全然意識していませんでしたが、これはルピナス豆ですね。

タルホの行動についてですが、S.Uさんの問題提起を引き取って、私なりに論を進めると、彼は鉱物や岩石を愛したように見えて、実は「鉱物標本」や「岩石標本」を愛していたというのがポイントのように感じます。そして標本に何よりも「標本としてのリアリティ」を求めた。そこが石そのものを愛した賢治と決定的に違う点でしょう。(S.Uさんが足穂の言い分に最初首をひねられたのは、おそらくS.Uさんが賢治的心性の持ち主だからと解しました。)
「洟たらしの見本」は、たしかに子供向けの品かもしれませんが、しかし石としては本物であり、その意味では博物列品室に並ぶ標本と同等のはずですが、足穂少年にしてみれば、そこに「標本らしさ」「標本としてのリアリティ」が決定的に欠けていた、それが我慢ならなかったのだと思います。
こう書くと、何だか足穂は単なるムード先行の人のようにも見えますが、彼のそうした性癖は、キネマ好き、器械好き、模型好きと、おそらく同根で、生の現実よりも、それを一段抽象化したものや、その似姿に強く魅かれていたことと表裏を成すものでしょう。

_ S.U ― 2014年11月23日 19時57分58秒

自然物そのままのリアリティのある標本と、リアリティのない「洟たらしの見本」の間に、「標本としてのリアリティ」というのがあり、足穂が求めたのはそれだったのですね。

 このへんの観念は私には理解しがたいものだったのですが、幸い、足穂は「タッチとダッシュ」という作品(これも私には難解に違いないのですが)があって懇切に解説してくれているので、玉青さんのご説明と合わせて何とか理解できました。足穂によると、タッチとは具体物の出自への感傷、すなわち、鉱物なら自然界から手元に届く過程の痕跡であり、ダッシュとは現実物を別世界のものに投影すること、つまり、鉱物は標本になった段階で、個々の出自から切断されダッシュという別のリアリティを持つようになる、そうあるべきである、ということなのでしょう。

 いっぽう、カタログ、「見本」というものも、無限のバリエーションのある自然物から、有限数でそれなりに完結したセットをつくるわけですから、それなりの考えで工夫されていれば「洟たらし」であっても馬鹿にしたものではないと思います。

_ 玉青 ― 2014年11月24日 11時07分51秒

「タッチとダッシュ」、再読しました。彼の論は分かる気もするし、やっぱり分からないところもありますが、たしかに、そこには今回の標本の話題を解くカギがありそうですね。
彼の言葉を借りれば、結局「鉱物標本」とは「鉱物のダッシュ」であり、天然の鉱物から生み出された「澄明できれいな」、「1つのアーティフィシャルな別世界」というわけでしょう。
となると、忌むべき「鉱物のタッチ」とは、「どこかの隠居の手沢ですべすべになった飾り石」であり、いっぽう「洟たらしの見本」はといえば、それは「標本のまがい物」に過ぎず、「鉱物のダッシュのタッチ」なんだ…という風に、とりあえず理解しました。

_ S.U ― 2014年11月24日 12時33分12秒

足穂の禅問答にどこまでお付き合いしないといけないものかは判然としませんが、長年我慢して読んでいる間に大事そうなことがちょびちょびわかってくるのはうれしいものです。

 「タッチとダッシュ」では、絵画でも原図の肉筆画よりも写真で取った印刷版のほうがいいと言っていますね。件のEテレのキリコの番組でも、キリコと日本人の解説者の方が、「絵」とはどういうものであるかという点でこの「標本」共通する議論をしていたように思います。再放送をご覧になってよろしければまた蒸し返して下さればと存じます。

_ 玉青 ― 2014年11月25日 06時26分36秒

了解です。また追々と語り明かすことにいたしましょう。

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