土星見物 ― 2015年01月21日 07時07分00秒

(1900年代初頭とおぼしいガラススライド)
峩々たる山稜の向こうに悠然と浮かぶ土星。
土星の衛星から見た光景を想像で描いたものですが、背景の星々が空間に奥行きを感じさせて、墨絵的な趣のある良い絵です。
土星の衛星から見た光景を想像で描いたものですが、背景の星々が空間に奥行きを感じさせて、墨絵的な趣のある良い絵です。
画像の右下にカメラのウォーターマークが入っていますが、これは購入時の商品写真を流用しているせいです。せっかくの「名画」も、ガラススライドだと一様な明るさが確保できなかったり、余分なものが映り込んだりで、なかなか写真に撮るのは大変です。
ふと、PCのディスプレイを、お医者さんがレントゲン写真の読図に使う「シャウカステン」のように使ったら、スライドの写真がきれいに撮れるのではなかろうか…と思いつきました。
しかし、実際にやってみると企画倒れで、肉眼で見る分にはなかなかいいんですが、写真に撮ると、画素の格子模様と干渉縞がもろに出てしまいます。
何かもう一工夫ないものか。
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…という小市民的な記事を書きながら、暗いニュースを耳にしました。
テロの背景についてはここでは論じませんが、1つおや?と思ったのは「自己責任」という言葉です。
テロの背景についてはここでは論じませんが、1つおや?と思ったのは「自己責任」という言葉です。
自己責任という考え方自体は、常識の世界に属するものだと思います。
私も買い物をするときに、「私の責任において、保障なしの安い便で送って下さい」と売り手にお願いすることもあります。
私も買い物をするときに、「私の責任において、保障なしの安い便で送って下さい」と売り手にお願いすることもあります。
ただ、何か事件や事故が起きるたびに自己責任を叫ぶ人は、何だか「己が罪の報いを受けよ!」みたいな形相で語っているような気がしてなりません。しかし、当人が犯したのは、せいぜいが「過失」であって、罪ではありません。果たして自分の命で償わねばならないほどの過失なんてあり得るのか?(「死に結びつく過失」はあるにしても…)
私が違和感を覚えるのは、自己責任論と命とでは釣り合いが取れていないぞという、その一点です。(そしてまた、自己責任が認められたとしても、それを以て他者が全面的に免責されるわけでもありません。)
私が違和感を覚えるのは、自己責任論と命とでは釣り合いが取れていないぞという、その一点です。(そしてまた、自己責任が認められたとしても、それを以て他者が全面的に免責されるわけでもありません。)
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仕事の関係もあって、今週は記事を書きにくい状態が続いています。
しばらく記事が間遠になります。
しばらく記事が間遠になります。
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