天文学史のイベント2題(その2) ― 2015年02月06日 06時45分50秒
東に続いて西の話題。
こちらは先月からすでに始まっており、今月いっぱい続くイベントです。
こちらは先月からすでに始まっており、今月いっぱい続くイベントです。
■企画展 「江戸時代の天文学」
○日時: 1月20日(火)~3月1日(日) 9:30~17:00
○会場: 大阪市立科学館 展示場4階 (大阪市北区中之島4-2-1)
MAP → http://www.sci-museum.jp/info/access.php
○展示テーマと主な展示資料:
1 日本の天文学(江戸~明治期の暦、『天文大成管窺輯要』ほか)
2 江戸時代の星座(『天経或問註解』、『天文図』ほか)
3 江戸時代の天体観測(『烏刺奴斯諸数並図』、『平天儀図解』、
○会場: 大阪市立科学館 展示場4階 (大阪市北区中之島4-2-1)
MAP → http://www.sci-museum.jp/info/access.php
○展示テーマと主な展示資料:
1 日本の天文学(江戸~明治期の暦、『天文大成管窺輯要』ほか)
2 江戸時代の星座(『天経或問註解』、『天文図』ほか)
3 江戸時代の天体観測(『烏刺奴斯諸数並図』、『平天儀図解』、
最古の惑星スケッチほか)
4 西洋天文学の導入と暦作り(ラランド『天文学』原本および天文方による翻訳本)
4 西洋天文学の導入と暦作り(ラランド『天文学』原本および天文方による翻訳本)
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大阪と天文学は深い結びつきがあります。
近世後期の日本の天文学をリードした麻田剛立(あさだごうりゅう 1734-1799)は、元・豊後杵築藩の御殿医でしたが、天文研究への思い断ちがたく、ついに脱藩して大阪に至り、私塾・先事館に拠って、自ら研究に没頭すると同時に、多くの逸材を育てました。
後、江戸にあって天文方に任じられた高橋至時(たかはしよしとき 1764-1804)と、地元大阪の富裕な質商、間重富(はざましげとみ 1756-1816)はその代表格で、この二人の力で、寛政の改暦(1798)という偉業は成し遂げられました。
ちなみに、映画になった『天地明察』の主人公、渋川春海(1639-1715)が行ったのは、貞享の改暦(1685)です。渋川春海と麻田剛立は、ともに天才肌の理論家と言っていいでしょうが、時代が100年離れているので、直接のつながりはありません。
ただ、上記・高橋至時の次男、景佑(かげすけ 1787-1856)は、後に渋川家を継ぎ、家筋としては初代春海から数えて九代の後裔になります(若死にする人が多かったのか、代替わりが非常に早いです)。そして、この高橋改め渋川景佑が、天保の改暦(1844)を成し遂げた…というわけで、こういう人のつながりは、あるいは文化的遺伝子(ミーム)の発現例なのかもしれません。
さて、かようなわけで大阪は剛立以降、天文学のメッカでもありましたので、その遺風を慕って大阪に足を運ぶことは、大いに意味のあることです。
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こちらも同じく大阪市立科学館で併催。
■企画展 「はやぶさ帰還とイトカワの石」
○日時: 2月5日(木)~2月22日(日) 9:30~17:00
○主な展示物: イトカワの石(微粒子)実物 大きさ 55マイクロメートル
○主な展示物: イトカワの石(微粒子)実物 大きさ 55マイクロメートル
以下、引用。
小惑星イトカワの石(微粒子)の実物を、関西で初公開します。
これは、2010年に地球に帰還した小惑星探査機「はやぶさ」により世界で初めてもたらされた、小惑星の試料です。来館者には、この地球外の物質を顕微鏡で直接観察していただきます。
また、あわせて、世界で初めて小惑星の石(微粒子)を地球に持ち帰った「はやぶさ」の地球帰還に関する資料や隕石などの地球外物質に関する展示も展開します。
これは、2010年に地球に帰還した小惑星探査機「はやぶさ」により世界で初めてもたらされた、小惑星の試料です。来館者には、この地球外の物質を顕微鏡で直接観察していただきます。
また、あわせて、世界で初めて小惑星の石(微粒子)を地球に持ち帰った「はやぶさ」の地球帰還に関する資料や隕石などの地球外物質に関する展示も展開します。
「マイクロメートル」のことを、私は今でも「ミクロン」と脳内変換するんですが、55ミクロンといえば0.055ミリ。グーグルの教えるところによれば、ヒトの毛の平均の幅が80マイクロメートルだそうですから、毛をスパッと切って、その上に余裕で乗っかるぐらいの大きさです。
しかし、この一粒の資料を持ち帰るために、人々とハヤブサが経験したものの総量を考えると、これこそまさに「偉大なる微塵」と呼ぶにふさわしい。
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江戸の苦闘、平成の苦闘。
人は苦闘を重ねて、宇宙に挑んできたことが、モノを通して実感される催しです。
人は苦闘を重ねて、宇宙に挑んできたことが、モノを通して実感される催しです。
と同時に、この200年足らずの間に生じた技術的革新に、改めて目を見張ります。
その変革もまた苦闘の連続から生まれたのであり、あまり苦闘していない自分としては、後ろめたさを感じるほどです。
その変革もまた苦闘の連続から生まれたのであり、あまり苦闘していない自分としては、後ろめたさを感じるほどです。
コメント
_ かすてん ― 2015年02月06日 11時25分04秒
_ S.U ― 2015年02月06日 12時14分11秒
>『烏刺奴斯諸数並図』
おっ、これは間重新による天王星(ウラヌス)の観測星図ですね。
「諸数」については未詳なのですが、何の数なのか知りたいです。
おっ、これは間重新による天王星(ウラヌス)の観測星図ですね。
「諸数」については未詳なのですが、何の数なのか知りたいです。
_ 玉青 ― 2015年02月07日 08時37分46秒
○かすてんさま
かすてんさんにとって、大阪は青春の地なのですね。
後から振り返って「惜しいことをした…」と思うことは多いですが、そう思えるのは、視野が広がった証拠ですから、ある意味幸せなことなのでしょう。
かすてんさんにとっては天文空白時代だったそうですが、浪花の風景とご自分の青春時代、そこにさらに日本の天文学の青春時代を重ね合わせて、なにがしかの感慨を抱く…というのも、なかなかいいのではないでしょうか。
○S.Uさま
再びこの話題に戻ってきましたね。
今、渡辺敏夫氏の『近世日本天文学史』を見たら、引用されている景佑の書簡(文政7、1824)に、「…暗厄里亜航海暦ニ新緯星烏刺奴斯ノ経緯度南中時分等精細ニ書載スルヲ見得タリ 其諸数ヲ重新ニ授与シテ其南中ノ諸数ヲ測験セシム」云々とありますので(p.667-8)、この「諸数」とは、航海暦に記載されている一連の数値(南中時刻、南中時の赤経・赤緯etc)を指すようです。
かすてんさんにとって、大阪は青春の地なのですね。
後から振り返って「惜しいことをした…」と思うことは多いですが、そう思えるのは、視野が広がった証拠ですから、ある意味幸せなことなのでしょう。
かすてんさんにとっては天文空白時代だったそうですが、浪花の風景とご自分の青春時代、そこにさらに日本の天文学の青春時代を重ね合わせて、なにがしかの感慨を抱く…というのも、なかなかいいのではないでしょうか。
○S.Uさま
再びこの話題に戻ってきましたね。
今、渡辺敏夫氏の『近世日本天文学史』を見たら、引用されている景佑の書簡(文政7、1824)に、「…暗厄里亜航海暦ニ新緯星烏刺奴斯ノ経緯度南中時分等精細ニ書載スルヲ見得タリ 其諸数ヲ重新ニ授与シテ其南中ノ諸数ヲ測験セシム」云々とありますので(p.667-8)、この「諸数」とは、航海暦に記載されている一連の数値(南中時刻、南中時の赤経・赤緯etc)を指すようです。
_ S.U ― 2015年02月07日 09時12分06秒
かすてん様、
私は大阪ミナミは詳しくないのですが、ご参考までに、間重冨は長堀冨田屋橋北辺の生まれだそうです。このへんに彼の商家があったのでしょう。観測も近くで行ったそうです。冨田屋橋という地名は現在はありませんが、古い地図によると昔は長堀に橋がかかっていて、現在、駅と交差点のある四つ橋、西大橋のへんにあたるようです。橋が観測地になっていた可能性もあります。西大橋駅の近くには間重富の碑があるそうです。かすてんさんにはどこかおわかりになりますか?
玉青様、
情報ありがとうございます。渡辺敏夫氏の研究は本当にたすかります。この説では、数値は英国で計算された位置予報値ということですね。
問題は、この景佑の発案が1824年として重新の観測は1826年ですから、「暗厄里亜航海暦1826年用版」のデータを持っていたかが問題だと思います。暗厄里亜航海暦は本来の年の3年前に刊行されていたようで1824年には1826年の天体暦が刊行されていたことになり話は合います。そうだとすると、重新は2年観測を待ったことになるのでしょうか。実際に、これは数値を見て暗厄里亜航海暦の数値と一致しているか確認しないといけませんね。
江戸時代日本での天王星観測は、当時の「知られざるビッグ科学プロジェクト」だったと思うので(しかも策謀うごめき、観測には成功したものの、結局、暦法としては日の目を見なかった)、このへんの手順がどう進んだのかはたいへん興味があります。
私は大阪ミナミは詳しくないのですが、ご参考までに、間重冨は長堀冨田屋橋北辺の生まれだそうです。このへんに彼の商家があったのでしょう。観測も近くで行ったそうです。冨田屋橋という地名は現在はありませんが、古い地図によると昔は長堀に橋がかかっていて、現在、駅と交差点のある四つ橋、西大橋のへんにあたるようです。橋が観測地になっていた可能性もあります。西大橋駅の近くには間重富の碑があるそうです。かすてんさんにはどこかおわかりになりますか?
玉青様、
情報ありがとうございます。渡辺敏夫氏の研究は本当にたすかります。この説では、数値は英国で計算された位置予報値ということですね。
問題は、この景佑の発案が1824年として重新の観測は1826年ですから、「暗厄里亜航海暦1826年用版」のデータを持っていたかが問題だと思います。暗厄里亜航海暦は本来の年の3年前に刊行されていたようで1824年には1826年の天体暦が刊行されていたことになり話は合います。そうだとすると、重新は2年観測を待ったことになるのでしょうか。実際に、これは数値を見て暗厄里亜航海暦の数値と一致しているか確認しないといけませんね。
江戸時代日本での天王星観測は、当時の「知られざるビッグ科学プロジェクト」だったと思うので(しかも策謀うごめき、観測には成功したものの、結局、暦法としては日の目を見なかった)、このへんの手順がどう進んだのかはたいへん興味があります。
_ 玉青 ― 2015年02月08日 10時48分05秒
すみません、私の1つ前のコメントを訂正します。
「文政7(1824)」は手紙の日付ではなくて、景佑が暗厄里亜航海暦を目にした年でした。
さらにまた、これは書簡ではなく、景佑の観測記録「霊憲候簿」の添え書き「霊憲候簿附言」の内に書かれた文章で、天保10(1839)時点での回想によるものでした。
前後を省略せずに再引用します(句間のスペースは私が入れました)。
「文政甲申(7年)初春臣景佑 偶暗厄里亜航海暦ニ新緯星烏刺奴斯ノ経緯度南中時分等精細ニ書載スルヲ見得タリ 其諸数ヲ重新ニ授与シテ其南中ノ諸数ヲ測験セシム 然ニ其星体タルヤ微小ニシテ肉目ノ見ルヘキナシ 故ニ重新又重富創製ノ遠鏡子午儀ノ図式ト新巧暦書ノ遠鏡子午儀ノ図説トニ依テ更ニ遠鏡子午儀ヲ仮製シ コレヲ測験シ其測得数ヲ来ス」
結局、景佑が暗厄里亜航海暦を見たのは1824年、重新が天王星を観測したのは1826年で動かないのですが、その間のどの時点で景佑が重新に観測を命じたかは、これだけだとよく分かりません。
+
…と長々と書いたところで、ふと既視感があったので調べたら、これはそもそもS.Uさんに教えていただいたことでしたね。(笑)
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/Uranus_Tables_by_Adachi_Nobuyori.html
贅言&釈迦に説法、どうぞお許しください。
どうも認知症は将来のことではないようです。
「文政7(1824)」は手紙の日付ではなくて、景佑が暗厄里亜航海暦を目にした年でした。
さらにまた、これは書簡ではなく、景佑の観測記録「霊憲候簿」の添え書き「霊憲候簿附言」の内に書かれた文章で、天保10(1839)時点での回想によるものでした。
前後を省略せずに再引用します(句間のスペースは私が入れました)。
「文政甲申(7年)初春臣景佑 偶暗厄里亜航海暦ニ新緯星烏刺奴斯ノ経緯度南中時分等精細ニ書載スルヲ見得タリ 其諸数ヲ重新ニ授与シテ其南中ノ諸数ヲ測験セシム 然ニ其星体タルヤ微小ニシテ肉目ノ見ルヘキナシ 故ニ重新又重富創製ノ遠鏡子午儀ノ図式ト新巧暦書ノ遠鏡子午儀ノ図説トニ依テ更ニ遠鏡子午儀ヲ仮製シ コレヲ測験シ其測得数ヲ来ス」
結局、景佑が暗厄里亜航海暦を見たのは1824年、重新が天王星を観測したのは1826年で動かないのですが、その間のどの時点で景佑が重新に観測を命じたかは、これだけだとよく分かりません。
+
…と長々と書いたところで、ふと既視感があったので調べたら、これはそもそもS.Uさんに教えていただいたことでしたね。(笑)
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/Uranus_Tables_by_Adachi_Nobuyori.html
贅言&釈迦に説法、どうぞお許しください。
どうも認知症は将来のことではないようです。
_ S.U ― 2015年02月08日 12時03分02秒
いえいえ、この記述については、そもそもは玉青さんからさらにその前に教えていただいていて、それから私がご引用下さった文献を書いたというのが順序です。この文献の私の「謝辞」の最後の部分がそれを指しております。こちらこそ具体的な内容を書いておらず失礼いたしました。
こちらも認知症が目睫に迫っておりますが、再掲して下さったお陰様でいろいろと思い出しました。
『寛政暦書』によると足立信順が文政七年(1824)に天王星を観測しており、景佑の「プロジェクト実施令」が1824年に出たことはたぶん間違いないと思います。なぜ、重新ではなく信順が先に観測なのかは荻原哲夫氏の研究があります。
だとすると、1824年用の予報もあったことになりますので、1826年の重新の「諸数」には、「英国航海暦1826年版の値そのまま」という可能性のほかに、渋川景佑あるいは足立信順による改良予報、重新自身による数値、という可能性もあり、確認の必要があると思っています。
こちらも認知症が目睫に迫っておりますが、再掲して下さったお陰様でいろいろと思い出しました。
『寛政暦書』によると足立信順が文政七年(1824)に天王星を観測しており、景佑の「プロジェクト実施令」が1824年に出たことはたぶん間違いないと思います。なぜ、重新ではなく信順が先に観測なのかは荻原哲夫氏の研究があります。
だとすると、1824年用の予報もあったことになりますので、1826年の重新の「諸数」には、「英国航海暦1826年版の値そのまま」という可能性のほかに、渋川景佑あるいは足立信順による改良予報、重新自身による数値、という可能性もあり、確認の必要があると思っています。
_ 玉青 ― 2015年02月09日 19時59分38秒
あれれ、そうでしたっけ?
認知症の主症状は記憶障害ですから、もはや認知症の王道を行ってますねえ…。
ともあれ、この一点の資料だけもかくの如し。
今回の大阪の展示は、地味ながらなかなか奥が深いようです。
認知症の主症状は記憶障害ですから、もはや認知症の王道を行ってますねえ…。
ともあれ、この一点の資料だけもかくの如し。
今回の大阪の展示は、地味ながらなかなか奥が深いようです。
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大阪で生活した大学生活+αの7年間は、天文からまったく離れていたため、大阪市立科学館の前身、電気科学館へ足を延ばすことすらありませんでした。別のことで埋まっていたのではありますが、私の天文空白時代のはじまりでした。