貧窮スターゲイザー、草場修(10)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編2015年04月11日 20時14分08秒

以下は長めの補遺です。今後のために、今回新たに分かったことをメモしておきます。いずれも前々回の記事のコメント欄で、S.UさんとHaさんに教えていただいたことです。

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草場を盛り立てた山本一清による草場評が、天界」昭和9年(1934)12月号に載っています。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166929/1/tnk000164_041.pdf

これは興味深い一文で、ここには、これまで知られていなかった草場星図の成立事情が書かれています。
それは、昭和8年夏に、草場が初めて山本を訪問した際に持参した星図と、翌年の東亜天文協会総会に提出した星図は違うものだった…という事実です(以下、引用は現代仮名遣いに変更)。

 「書き終えた大星図が、花山へ運ばれたのは昨1933年の夏であったが、此の図は普通の地図と同じ座標形式で画いたために、天球儀の如く、天を裏かえしにした珍物であった。此の欠点を注意された同君は直ちに最初から画き直す決心をし、尚お星の名や文字の配置などに改良を加えつつ、今秋又々立派なものを花山に持って来た、それは我が東亜天文協会の総会の日であった。」

これは大変な労力を要する渾身の大業と言ってよく、草場の情熱とエネルギーを雄弁に物語ります。そして、草場は自分の星図に、絶対の自信を持っていただろうことを窺わせます(この点については、以下で再度触れます)。

また、

 「昨秋〔=昭和8年〕の全国的な獅子座流星群のシーズンには、同君は京都帝大病院に入院中の窓から多数の観測報告を齎〔もたら〕した。」

とあって、彼はこの時期、病気療養をしていたことが知れます。
病気の種類は分かりませんが、京大病院に入院したのは山本の配慮でしょう。1933年はしし座流星群の当たり年で、草場は病躯をいとわず、それを病室から熱心に観測していた…というのは、草場をノベライズするとしたら、欠かせないシーンじゃないでしょうか。

 「又、最近の近畿地方大風害には我が身を忘れて復興事業に参加した―そのひまに、過去数年来購入愛読しつつあった書物を大部分盗まれて了った!!」

草場は、図書館を利用するばかりでなく、自分の懐でコツコツ書籍をそろえていたことが証されます。
以前も書きましが、草場はまだドブさらいだった貧しい時代、丸善を通じて、ドイツで出たスツーカー星図(Stuker, Stern Atlas, 1924-26、全3巻)を入手しており(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955#c6427489)、これは文字通り衣食を削って買ったものに相違なく、盗難は大変な痛恨事だったでしょう。(とはいえ、この時期は、草場の未来が開けつつあった時期ですから、絶望の底に落ちて、再び放浪の旅に出る…なんてこともなく済んだのは幸いでした。)

最後に山本による草場の人物評。

 「大阪の、近代的な悪魔社会に住みながら〔←すごい書きぶりですね〕草場君は、夜毎の星を友とすることによって、極めて明朗善真な精神を持ちつづけ、義理厚く、礼儀正しく、まれな高潔の心を保ち、常に微笑を以て人と相対し、誠に美しい印象を周囲に与えている。〔…〕吾人は〔…〕同君の人格が更に美化され、あらゆる意味に於いて学界の名花とならんことを望むものである。」

これはべた褒めに近く、単なるリップサービス以上に、草場に惚れ込んでいたことを物語るものでしょう。

なお、例の「婦人之友」の記事の末尾で、草場の方は「山本先生に対して感じていることは?」と聞かれ、こう語っていました。どういっていいか分かりません。ありきたりの美しい言葉で幾らいってもダメですから」。
草場の方も、当然ながら、言葉にならぬ恩義を感じていたようです。

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「天界」の同じ号には、別の筆者も草場について書いています。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166920/1/tnk000164_072.pdf

「或る日の花山」と題する記事で、筆写は萑部進・萑部守子とありますが、これはおそらく仮名でしょう(見る人が見れば誰か分かったと思います)。この記事も実に興味深い内容です。

 「草場星図氏―半月前の総会で御目に掛ってから二三夜を経た或る朝、草場氏の名は忽ちにして津々浦々まで響いた。
  「目を覚ますと、いつの間にか世は挙(こぞ)って私の名を口にして居るのだ!」これは正に草場氏に適用さるべく予てバイロンが用意して置いた言葉でもあろう。「世界一」と云う讃辞を「ルンペン」という焦点にピタと合わせた手際は流石にヂャーナリズムである。大風一過、種無き新聞としては思いも掛けざりし大ヒットであった。」

 一読、棘を含む文章です。

 「斯くして、
   一、新聞は売った。
   二、苦学者は報いられた。
   三、世道人心は益せられた。
ひとり山本一清博士のみは淋しく残されたのではないか?とにかく、恐らく「世界一」の一語のために!これをルンペンならぬ「ルンペン」にくくつけた〔ママ〕のは新聞の罪だ。然し世に恐るべきはインテリゲンツィアの群れではある。翻って私共は山本博士に対する満腔の同情と信頼を持ちながら上記の如く一夕花山へと足を運んだのである。」

草場が世上もてはやされることを面白くなく感じ、肝心の本尊である山本先生が無視されているじゃないか!…というのを口実に、草場を排撃する声が、早くも起こっていた気配があります。山本への敬意を口にはしていますが、この筆者の心を支配していたのは、明らかに嫉妬の感情でしょう。

草場と山本の親密さを、面白からぬ思いで見ていた人が身近にいたのは確かだと思います。

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それから4年が経った「天界」18巻210号(1938)に、草場の「星座の日本学名に対する私見を読みて」という評論が載っています。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167717

「天界」の前の号に掲載された、他者の論考に対する批評文です。
その舌鋒は鋭く、内容も辛辣を極めます。何となく「温順で控えめな人」というイメージのある草場像に対し、これは修正を迫るものです。

その後記には、「1938年8月7日 清水下にて」という署名があり、「自分は京大並びに花山天文台在籍中は色々の意昧で自発的に遠慮して、一切私見は書かず、天界利用を差しひかへる立前を採っていましたけれども、今後はその必要もなくなりましたので」…云々とあって、この時点では、既に京大を退いていたことが分かります。

これは師である山本が、1938年春、京大辞職に追い込まれたのに連座したものでしょうが、その理不尽さへの憤りが、草場にこのような激しい言葉を書かせたのかもしれません。

ともあれ、この後記は草場の激白というべきもので、彼が京大時代、どんな仕打ちを受け、どんな思いで耐えていたかを、はっきりと示すものです。

 「又全く別の事ですが愚作の星図に就きましくも種々の不評は知っています。それに就ても一言、いや云い度いことは山程ありましたが,言わぬが花と沈黙を守って来ました。尚又、星図に関するものに就ても既刊星図ノルトン、ボン、シューリギョッツ、其他五種ばかり、アラ探しもしてあり、材料は持ていますが、それを書けば他の揚足取リと見られるので遠慮しているに過ぎません。愚作の星図がキタナイと云うことは僕自身が当初から大いに宣伝していることでありまして、是れは最初の予定が斯様な印刷法にする為ではなかったことに起因します。然し星図は消耗品でありますからキタナイと云う事は星図の利用価値がなくなる事にはならない筈です。」

草場がどれほど苦労をして、あの星図を作ったか。
そして、草場がそれにどれだけの自信と愛情を抱いたか。
にも関わらず、周囲にはそれを「キタナイ」と悪しざまに言ってのける人が、チラホラいたのでしょう。それがいかに草場の心を傷つけ、怒らせたか。

この一文は、京大を退き、もはや誰にも遠慮のなくなった草場が、その思いを一気呵成に吐き出している観があります。
あるいは、この時の草場は、いささか捨て鉢な気持ちになっており、本来の彼はやはり温順な人だったのかもしれませんが、その辺の真相解明は、今後の課題です。

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天上の美から、一気に地上の人事の話題に落ちましたが、しかし草場という人間を知る上では貴重なエピソードと思い、あえて書きつけました。