銀河ステーションを定刻発2015年04月14日 22時45分21秒

再びそういえば、昨日の写真に写り込んでいた懐中時計。


これは旧ソ連製だそうで、値段もごく安価なものですが、兎にも角にも裏面のデザインに魅かれて購入しました。


「銀河鉄道の夜」の本文とは、直接関係ないとはいえ、いつか時計屋の店先を再現するときが来たら、是非その隅にそっと置きたいと思ったからです。


それに、いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原」とは、おそらくこんな色をしていたんじゃないかと、ふと思ったりします。


そして物語のラスト、息子の死を一見冷厳に告げた、カンパネルラのお父さんの手には、竜頭も折れよとばかり固く時計が握りしめられ、その表面はぐっしょりと汗で濡れていたはずだと思うのです。


コメント

_ K.T. ― 2015年04月15日 20時55分17秒

懐中時計、よい味わいですね。文字盤は琺瑯でしょうか。渋く育った様子が、写真からも伝わって参ります。この青い針を震わせたであろう、石畳の街路の冷たい残響まで髣髴とさせるあたりは、若干にがいですが。

ところで以前、玉青様は賢治の「悪文」に切歯扼腕、まさに悶絶しておられましたが、技法上のこんな疑問点もあります。それは『銀河鉄道の夜』の語り手が、全編を通じてただ一カ所、

「鷺の方はなぜ手數なんですか。」カムパネルラは、さつきから、訊かうと思つてゐたのです。

と、カムパネルラの内面について証言している条です。そもそも、語り手はジヨバンニの目や耳や体を借り、それらを通して物語を進めている訳ですから、語り手や読者が感情移入や同化を許されるのは飽くまでジヨバンニに限られ、それ以外の人や物の心の内に関しては朧げに推量するのみ、というのが作品の雰囲気から言っても鉄則のはずです。したがって当該の記述は、

「鷺の方はなぜ手數なんですか。」カムパネルラは、さつきから、訊かうと思つてゐたやうでした。

とでもすべきでしょう。ところが語り手は、一貫性を突如として放擲し、何故かここだけカムパネルラの側から叙述してしまっており、視点の混乱を齎していると言わざるを得ません。敢えてそうせねばならぬ表現上の必然性があるようにも見えません。ミスであるとすれば小さなミスでしょうが、読むたびに文章の流れが妨げられ、神経に障って仕方ありません。以前から多くの方々が指摘されている事かも知れませんが、評論方面には疎いままに、清水の舞台云々のつもりでコメントいたします。貴ブログに既出の場合は、更なる御海容を。

_ 玉青 ― 2015年04月16日 05時46分29秒

ありがとうございます。
恥ずかしながら、どうも時計のことがよく分かっていないのですが、K.T.さんにそう仰っていただくと、このささやかな品が、とても味のあるものに見えてきます。

   +

ときにカムパネルラ(私はすぐカンパネルラと書いてしまうんですが、カムパネルラですね)の心理描写。私はボンヤリ読み過ごしていましたが、まさに正鵠を射たご指摘だと思います。作品の基本構造に照らして、明らかにこの箇所は矛盾をはらんだ、異質な描写ですよね。

言ってみれば単純なケアレスミスなのかもしれませんが、それまで慎重に「~しているようでした」、「~しているように見えました」etc. と書いていたのに、この箇所に来て急に叙述が乱れたのは何故なのか、少なからず気になります。何か賢治なりの無意識の論理が働いていたのかどうか?

後付けで忖度すると、ジョバンニとカムパネルラは、銀河鉄道の旅の途中でも、心の距離が近づいたり、離れたり、微妙なあやを演じますが、この鳥捕りの章は、二人の心が非常に近づいた箇所であるため(直後に「やっぱりおなじことを考えていたとみえて」とあるのが目につきます)、書き手である賢治にとって、こうした表現が不自然に感じられなかった…ということかもしれません。(まあ仮にそうだとしても、表現上のミスであることは免れないでしょう。)

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