Metaphysical Nightsによせて2015年04月21日 22時03分40秒



「畏友タムラシゲルへ」と題された、南伸坊さんの文章はごく短いものですが、読んでいて、思わず膝を打つことがありました。以下、引用させていただきます。

畏友タムラシゲルヘ●南伸坊

 若い頃、稲垣足穂の童話が好きだった。それで「一千一秒物語」を絵にしてみたいと思ったのだが果たせなかった。足穂はもともと未来派の画家だから、はじめからその文章が絵になっているのだ。もっとも足穂自身の絵も、作り出したイメージを定着できたわけじゃない。
 果たせなかったと書いたけれども、やってみたわけではない。やる前からダメだと思って、やらなかったのだ。こんなことを書き出したのは、タムラシゲルなら、きっとそうしなかっただろうと思ったからだ。
 タムラシゲルは、自分のつむぎ出したイメージを、絵にすることができる。そうすれば絵に出来たことでしか味わえない、楽しさを人々に与えることができるのである。


伸坊さんは、自身もイラストレーターなので、これは文章の視覚化、あるいは視覚イメージの文章化という点から興味深い足穂論であり、たむら論だと思います。

 タムラシゲルに初めて出会ったのは編集者としてだった。投稿されてきた彼の漫画は、いきなり完成されていた。ハイカラで上品でガンバッテいなかった。私は一目で気に入ってしまったけれども、その頃の雑誌は、もっとアクの強い、青春くさい、むやみに迫力のあるものが求められていたので、たむらしげるの作物は「大人しい」ものと見られていたと思う。
 僕は違った感想を持っていた。タムラシゲルは「大人しい」というよりは「大人っぽい」というのが正しい。落ち着いていて、若い作者にありがちの性急さや、一発ねらいの新奇さというものと遠かった。

これは70年代、伸坊さんが「ガロ」の編集長をされていた時のエピソードです。
私がたむらさんの作品を知ったのも、「ガロ」の版元・青林堂の出版物を通してですから、あまり違和感はありませんが、でも今、改めて振り返ると、<たむらしげるとサブカル>は、かなり異質な取り合わせに思えます。当時は、たむらしげるという存在が、サブカルの世界でしか受容されず、そこでも傍流であった…というのは、文化史的に興味深い事実です。ともあれ、この伸坊さんのたむら評は、実に的確だと思います。

〔…中略…〕タムラシゲルの仕事を形容するのに「少年の心」だの「少年のような」だののコトバを使わないのは、それが失礼にあたると思うからだ。かつては「少年」という言葉に、それを使うことで了解できる世界があった。
 おそらく、その頃に「少年のよう」であることは、バカにされていたからだと思う。いまは誰もが「少年のよう」である。そしてチャチでハンチクな作品が「少年の心」で作られてしまうのだ。
 童心を保っていない作り手などはいないのだし、もっといえば、全ての人はそれを自分の中に持っているはずである。「少年のような」ジャンルがあるというのがおかしい。
 素晴らしいのは幼さではないのだ。直観である。知らない事で見えるような世界。重要なのは知らない事ではなくて見えることである。タムラシゲルが「こうでなくてはいけない」として描いた構図や画面の調子や、空間のイメージがつまり直観である。

これはかなり強い言い方ですが、まったく真実だろうと思います。
「少年のような」という形容が、ただちに褒め言葉になることへの違和感を、これまで何となく感じていましたが、要はこういうことだったのでしょう。

山高きがゆえに貴からず、人もまた少年的であるがゆえに貴からず―。
世間は少年や少女を、少年・少女であるがゆえにもてはやしますが、そもそも少年・少女の何が光を放っているのか…ということは、よくよく考えないといけないと思います。

 今でも、足穂の「一千一秒物語」を好きである。ごくたまに、三年に一度くらいの割り合いで、本棚から引き出して、しばらくボー然とする。同じような本に、このタムラの『METAPHYSICAL NGHTS』はなるはずだ。(1990.10)

またしても「一千一秒物語」。
南伸坊さんがこの一文を書いてから4年後、1994年にたむらしげる画の『一千一秒物語』がリブロポートから出たことは、伸坊さんにとって、まさに快哉を叫ぶような一大事だったはずです。


…というよりも、実はこの出版企画の背後に、伸坊さんのプッシュがなかったかどうか?このたむら版「一千一秒物語」には、前書きも、後書きも、解説も一切なくて、その成立事情が(少なくとも私には)まったく不明でした。でも、今この一文を目にして、何となくそんな気がしています。