南極のかけら…カテゴリー縦覧:極地編 ― 2015年05月28日 19時25分04秒
3776メートルは霊峰・富士ですが、それとほぼ同じ高さの火山が、南極にあります。
(Wikipediaより)
3794メートルのエレバス山。
南極大陸のそばに浮かぶ(実際には氷でつながっていることも多い)ロス島にそびえる、地球最南端の火山です。
南極大陸のそばに浮かぶ(実際には氷でつながっていることも多い)ロス島にそびえる、地球最南端の火山です。
位置は、ニュージーランドの真南にあたる東経167度、南緯は77度。
南緯77度と聞いてもピンときませんが、北半球に置き換えて北緯77度を考えると、これはアラスカの最北端(北緯71度)よりもずっと北で、ユーラシア大陸の最北端、シベリアのチェリュスキン岬と同緯度になります。
南緯77度と聞いてもピンときませんが、北半球に置き換えて北緯77度を考えると、これはアラスカの最北端(北緯71度)よりもずっと北で、ユーラシア大陸の最北端、シベリアのチェリュスキン岬と同緯度になります。
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そんな最果ての地から届いたのが、この鉱物標本。
(標本箱の大きさは6.5×4.5cm)
アノーソクレース(曹微斜長石)の母岩に乗ったケルスート閃石です。
植物の影も見えない、荒涼たる大地の片鱗。
暑い暑いと言いながらも、この標本を眺めていると、芯から清涼味を―いや、むしろ凄愴の気味すら覚えます。
暑い暑いと言いながらも、この標本を眺めていると、芯から清涼味を―いや、むしろ凄愴の気味すら覚えます。
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南緯60度以南の南極地域では、「南極条約」(1961年発効)、およびそれに基づいて取り交わされた「南極条約議定書」(1991年採択、日本の国内法は1998年発効)によって、鉱物資源活動が禁止されています。その規定に従い、現在では、南極の石をお土産に持ち帰るのはアウトのようです(法律論以前に、マナーとしてどうなの…という議論もあります)。
この標本は、アメリカの鉱物研究者由来のもので、その点は問題ないとのことでしたが、私が単にこうして涼しがっているだけなら、本来の科学調査目的から逸脱していることは否めず、私にはこれを探求する責務があるのではないか…。
というわけで、今夏はせっせと南極調査に励むことにします。
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余談。
ロス島をマップ検索したら、ストリートビューが表示されて、大いに驚きました。
ロス島をマップ検索したら、ストリートビューが表示されて、大いに驚きました。
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さらに余談。
暑い時は裸…というわけで、「裸の王様」をウィキペディアで引いたら、この寓話の出典はアンデルセン童話だったんですね(知りませんでした)。さらに関連ページの「集団思考」の項を読んで、大変興味深く思うとともに、うすら寒くなりました。狙い通りに暑さが引いて、目出度しめでたし。でも、これはよほど用心しないといけないと思いました。
暑い時は裸…というわけで、「裸の王様」をウィキペディアで引いたら、この寓話の出典はアンデルセン童話だったんですね(知りませんでした)。さらに関連ページの「集団思考」の項を読んで、大変興味深く思うとともに、うすら寒くなりました。狙い通りに暑さが引いて、目出度しめでたし。でも、これはよほど用心しないといけないと思いました。
コメント
_ S.U ― 2015年05月29日 21時11分54秒
_ 玉青 ― 2015年05月29日 23時20分32秒
購入したてのときは、もうちょっと青黒い感じだったと思うのですが、温帯に来て少し風化したというか、俗化したのかもしれません。
きちんと調べずに書いているので、間違っているかもしれませんが、「集団思考」というのは、おそらく「集団心理」のサブカテゴリーではないでしょうか。人間の心的現象には思考もあれば、知覚・感覚もあり、さらには感情もあって、一口に「集団心理」と言っても、集団思考やら、集団幻覚やら、集団ヒステリーやら、いろいろなサブカテゴリーがあるのでしょう。
集団心理の有用性は、まさに集団を集団ならしめるところにあるのでしょう。集団の一体感や凝集性を高めることは、人間が生存する上で、概ね有利に働く場面が多かったと思います。
(吉本隆明は、私が学生の頃は読んでないと恥ずかしいムードがあって、読んだような顔をして過ごしていましたが、今に至るまで読んだことがないことを告白しておきます。たぶん、共同幻想という言葉が、対象の価値の引き下げのために、安易なレッテルとして使われていた(「それは共同幻想に過ぎない」)ことに反発していたのかなあ…と、今にして思います。)
きちんと調べずに書いているので、間違っているかもしれませんが、「集団思考」というのは、おそらく「集団心理」のサブカテゴリーではないでしょうか。人間の心的現象には思考もあれば、知覚・感覚もあり、さらには感情もあって、一口に「集団心理」と言っても、集団思考やら、集団幻覚やら、集団ヒステリーやら、いろいろなサブカテゴリーがあるのでしょう。
集団心理の有用性は、まさに集団を集団ならしめるところにあるのでしょう。集団の一体感や凝集性を高めることは、人間が生存する上で、概ね有利に働く場面が多かったと思います。
(吉本隆明は、私が学生の頃は読んでないと恥ずかしいムードがあって、読んだような顔をして過ごしていましたが、今に至るまで読んだことがないことを告白しておきます。たぶん、共同幻想という言葉が、対象の価値の引き下げのために、安易なレッテルとして使われていた(「それは共同幻想に過ぎない」)ことに反発していたのかなあ…と、今にして思います。)
_ S.U ― 2015年05月30日 07時20分59秒
あっ、またも「未記入」の定期便。すみません。再掲するので削除してやってください。
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>俗化したのかも
太古の石まで俗化する、今の日本は大した環境ですね(笑)
>集団心理の有用性
なるほど、つまり、人間は、高崎山のサル同様、本質的に集団社会で行動する生物であるということですね。群れをつくらないネコ科やクマには集団心理はないでしょうなぁ。
私も吉本隆明には早々と脱落しました。民俗学的知見の評論において同調できないところがあり、牽強付会のようでついて行けなかったです。結論まで読めば同意できたかもしれません。共同幻想という名称自体、多少のセンセーションを狙ってつけた用語だったのでしょう。でも、現在、時々は、国家や会社はしょせん共同幻想に過ぎぬ、と冷めた目で見つめてやることが必要なように思います。(勤め帰りに赤提灯で、「会社がなんでえ、国がなんでえ」と息巻いていた人は当時のほうが多かったでしょうから、かつての玉青さんはそれに反発されたのかもしれないと思います)
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>俗化したのかも
太古の石まで俗化する、今の日本は大した環境ですね(笑)
>集団心理の有用性
なるほど、つまり、人間は、高崎山のサル同様、本質的に集団社会で行動する生物であるということですね。群れをつくらないネコ科やクマには集団心理はないでしょうなぁ。
私も吉本隆明には早々と脱落しました。民俗学的知見の評論において同調できないところがあり、牽強付会のようでついて行けなかったです。結論まで読めば同意できたかもしれません。共同幻想という名称自体、多少のセンセーションを狙ってつけた用語だったのでしょう。でも、現在、時々は、国家や会社はしょせん共同幻想に過ぎぬ、と冷めた目で見つめてやることが必要なように思います。(勤め帰りに赤提灯で、「会社がなんでえ、国がなんでえ」と息巻いていた人は当時のほうが多かったでしょうから、かつての玉青さんはそれに反発されたのかもしれないと思います)
_ 玉青 ― 2015年05月30日 11時11分15秒
定期便拝受(笑)。
最初から読んでいないのと、読んだ上でうっちゃられたのでは天地雲泥の差がありますが、S.Uさんも読み通されたことがないと伺い、安心しました。
読まねばならないと思い込むのも、こうしてお仲間を得て安心するのも、人間が完全には個たりえない証拠で、我ながら興味深い心の動きです。でも、これこそ私が人間である証であり…とか何とか、また話を無用にふくらませてはいけませんね。(^J^)
最初から読んでいないのと、読んだ上でうっちゃられたのでは天地雲泥の差がありますが、S.Uさんも読み通されたことがないと伺い、安心しました。
読まねばならないと思い込むのも、こうしてお仲間を得て安心するのも、人間が完全には個たりえない証拠で、我ながら興味深い心の動きです。でも、これこそ私が人間である証であり…とか何とか、また話を無用にふくらませてはいけませんね。(^J^)
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>「集団思考」
またまたご質問ですが、「集団思考」というのは「集団心理」と同じことと考えてよいのでしょうか。集団心理については、子どもの時から先生に何度も聞かされてよくわかっているつもりです。「お前らは、一人一人はよい子やが、何人か集まるととんでもない悪さをしでかす。集団心理というやつや」というコンテクストで聞きました。また、集団思考や集団心理が、種の進化上、有利な特質として働くことがあるのでしょうか。悪い方向にしか働かないように思いますが、いいこともあるんですかね。
「集団心理」と聞くと、「共同幻想」というのがセットで思い出されます。吉本隆明の『共同幻想論』は村落共同体の宗教的体験のようなことがまず挙げられていて理解できないところが多かったですが、国家がその行き着くところの最大の共同幻想であるというところは頷けました。ただ、共同幻想は構造的に脆いらしく、より強固な「対幻想」(国家と個人の契約、神と個人の契約といった架空の物語)を要求しているように感じます。いずれにしても、国家は、案外もろい共同幻想であって、個人の意志や身近な人との対幻想を越えるようなものではない、ということを現代人は常に意識しておいていいのではないかと思います。ちょっと脱線しましたでしょうか。まったく関係ないことはないですよね。