神戸学序説2015年06月09日 07時17分17秒

足穂と神戸。
賢治と岩手。

いずれも、その作品世界とホームタウンが不即不離の関係にあった好例です。
足穂にとっての神戸、それは、とびきりハイカラで、エキゾチックで、謎めいて…。
これは彼の脳内で発酵した部分もありますが、現実の神戸もまた、そうした夢を託すのに十分な資質を備えていました。

これから私は「星を売る店(初出1923年)の世界に足を踏み入れようと思うのですが、それに先立って、まず神戸という街の成り立ちに言及しておくことも、タルホ・ワールドの魅力を探る上で、まんざら無駄ではないでしょう。

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よお、いよいよ神戸行きだってね。

やあ、君か。うん、いよいよ正面からタルホ氏に面会を願おうと思ってね。

そりゃ結構。

でも改めて思うけど、神戸って、よそ者、特に関東の人間には、分かりにくい街だよね。誤解されやすいというか。

別に分かりにくいこともないだろ?人間関係の網の目とか、関西特有の「綾」はあるにしてもさ、要は港町で、ハイカラで…。言ってみりゃ横浜みたいなもんじゃないか。そう割り切って、ずんずん話を進めるさ。

(横浜(左上)と神戸。ウィキメディア・コモンズより)

そこだよ。関東の人はすぐそう言いたがるよね。「神戸って、横浜みたいなもんでしょ」って。異人さんの雰囲気があって、中華街があって、東京と大阪のサイドシティで…。でも、そうじゃない。横浜と神戸じゃずいぶん違う。

へええ。と云うと?

これから話すことは、にわか仕込みの知識だから、そのつもりで聞いてほしい。

よしきた。御説拝聴といこう。

まず神戸と横浜は、幕末に開港し、外国人居留地が設けられたという共通点がある。それが「異人さん」の雰囲気の源流であることは、誰でも知ってるよね。

そりゃ、まあ。

でも、その居留地のあり方が、横浜と神戸じゃずいぶん違ったのさ。横浜は幕府の意向で、外国人をとにかく一定のエリアに押し込んで、日本人と雑居できないような町割りになっていた。言ってみれば、長崎の出島みたいなもんだね。何せ、攘夷騒動で物騒な時代だったし、幕府としても無用な混乱は避けたかったわけさ。

なるほど。

でも神戸は違った。そもそも神戸が開港したのは、攘夷の嵐が過ぎ去った慶応3年(1868)で、旧暦でいうと12月7日。まだ明治改元前だけど、既に「大政奉還」も済み、2日後の12月9日がいわゆる「王政復古の大号令」だから、実質明治といっていい。海沿いの居留地が横浜より狭かった分、外国商人は居留地外に自由に住居を構えることが許されていた。外国人から見れば、よりオープンな雰囲気だったし、日本人から見れば、「異人さん」との距離がぐっと近かったわけさ。

ふーむ。でも明治になれば、横浜だって似たようなものじゃないのかい?

それが違うんだ。神戸の一大特徴はね、これは外国目線の言い方になるけど、横浜よりも、あるいは上海なんかよりも、ずっと「模範的」な居留地だったという点にあるんだ。横浜の都市計画が、幕府や新政府の意向を強く受けたのに対し、神戸はそこに暮らす外国人自身の創意が大きく生かされていた。いわば、街の骨格からして「リトル・ヨーロッパ」だったと云えばいいかな。

へえ、そんなもんかなあ。

街のムードもずいぶん違ってね。横浜では列強各国の意見対立が大きくて、居留地の自治組織が育たなかったのに、神戸では明治32年(1899)に治外法権が撤廃されるまで、各国と日本の代表から成る委員会が結成されて、居留地のことは一貫して合議で決めていた。言ってみれば、ヨーロッパ本国にもないような、理想の国際社会がそこに実現していたんだ。今もトアロードの突き当り、昔トアホテルがあった場所に、デーンと神戸外国倶楽部なんてのがあるけど、あれがその末流に当るのさ。

(明治23年竣工の神戸倶楽部(現・神戸外国倶楽部)。出典同上)

なんでそんな違いが生まれたんだろう?

肝心な点だけど、正直よく分からない。横浜は基本的に輸出港、神戸は輸入港だったという性格の違いが影響したのかもね。当時の横浜からは、金になる生糸や茶がジャンジャン輸出されていたけど、神戸の方はおっとりと「文化を商う」気風があったというかな。
…と、ここまでのところは、足穂が生まれる前の話だけど、足穂が闊歩した頃の神戸というのが、これまた別格でね。

ふむ、大正時代の話だな。

戦争で金儲けなんて、気が進まない話だけど、結果的に第1次大戦で日本はずいぶん潤ったよね。そしてその恩恵は、神戸にいっそう及んだらしいんだ。大正6年(1917)には、貿易額が横浜を超えて、名実ともに日本一の貿易港になったし、そもそもこの時期、神戸が東京、大阪に次いで、日本で3番目に人口の多い都市だったって、君、知ってたかい?

へえ、それは知らなかった。

そして大正12年(1923)の関東大震災。あれで横浜が甚大な被害を受けたことも、神戸にとっては追い風になった。東の方から人や資本が神戸に流入した結果、神戸はますます繁華な地となり、最強のモダン都市になったのさ。これこそ、足穂が目にし、肌で感じた神戸なんだよ。

なるほどなあ。

だからね、関東の人に昔の神戸のことを分かってもらおうと思ったら、横浜と銀座をくっつけて、さらに浅草を寄せたような街」と言って、初めて通じると思うんだ。まあ、地元の人は違うと言うかもしれないけど、今の僕にとって最上の比喩はそんなところさ。

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…と、脳内の二人は勝手なことを言っていますが、ここに書いたことは、ほぼすべて以下の文献の受け売りです。

■高橋孝次 「旧居留地の文学─「星を売る店」の神戸」
 千葉大学人文研究 第38号 pp.55-86.

 http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00052070
 (全文PDFへのリンクが張られていています。)

高橋氏の上記論文には、「星を売る店」の同時代評も紹介されていて、実に興味深かったです(菊池寛や久米正雄が酷評している一方、芥川龍之介は肯定的に見ていました)。

そして結論部分において、日本文学におけるエキゾチシズムの系譜の中に足穂を定位している箇所が、また大層示唆的でした。私が足穂に惹かれる理由も、それで何となく分かった気がします。つまり、私の中の異土憧憬が足穂のそれと共振すると同時に、私にとっては足穂そのものが、エキゾチックな香りを放つ存在だからでしょう。

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神戸の歴史を一瞥したところで、さらに「星を売る店の神戸」に踏み込みます。