「星を売る店」のドアを開ける(10)…神戸発 エジプト行 ― 2015年07月03日 18時08分41秒
「あの天にある星か? とおっしゃるのでございましょう」と相手は指で天井を指した。
「おうたがいはもっともでございます。手前どもにいたしましても、最初はふに落ちかねたものでございますが、いまもってお客様同様うたがっていると申し上げてもよいのでございます。
「おうたがいはもっともでございます。手前どもにいたしましても、最初はふに落ちかねたものでございますが、いまもってお客様同様うたがっていると申し上げてもよいのでございます。
ここまで滔々と弁じてきた店員ですが、ここに来て急に弱気な発言に転じています。
けれども何しろ、あの窓に出ている絵ビラですが、あそこに示されているのと同じ手続きによって採集され、その事実なることはエジプト政府も夙(つと)に承認していると申しますから、星だということを信じないわけには、まいりかねるのでございます。
こういうふうに文のトーンが弱まるのは、足穂が私小説的リアリズムに接近したときの‘癖’で、この前後の店員とのやりとりは、ほぼ史実をそのままなぞっています。
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歴史的事実として、足穂が初めて「星店」を訪問したのは、大正12年(1923)夏のことです。「星店」が当時オープン直後だったのは、作中に書かれているとおりで、その後、「星店」がいつまで営業を続けたかは不明ですが、少なくとも昭和6年(1931)まで店が存続していたことは、他の史料から確認できます。
そして、「なんだか女性めく、若い、色の白い男」と書かれた、この優男の店員。
彼の名は、魚田和三郎(うおたわさぶろう、1899~?)。
彼の名は、魚田和三郎(うおたわさぶろう、1899~?)。
魚田は神戸商業学校の卒業生で、足穂とは妙にウマが合ったらしく、一時さかんに手紙のやりとりを重ねたことが、足穂の年譜に書かれています。
昭和以降、魚田はドイツ人商店主から「星店」の切り盛りをすべて任され、その実質的経営者といってよいぐらいでしたが、彼がエジプトに「星」を発注した際の状袋が残されています。
当時、「星」を仲介していたのは、アレキサンドリアに住むHaig Garinianという男でした。
赤・青・紫の三ツ星マークは、「星店」の商標。
それにしても、この異常に几帳面な字はどうでしょう。
まさに「星店」の店員のイメージそのままではありませんか。
まさに「星店」の店員のイメージそのままではありませんか。
「星を売る店」のラストを知っている者にとっては、この富士山の切手も、何やら意味ありげに見えます。
封筒の裏面。この書状は昭和6年(1931)6月12日付けで、「星店」の歴史も終わりに近い頃のものです。魚田は、「星」の取引に関しては非常な用心をして、すべて私書箱扱いにしていました。
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ちなみに、「魚田」の本来の読みは「うおた」ですが、普段は「いおた」を名乗ることが多く、若い頃の足穂と魚田の交遊から「クシー君とイオタ君」の物語も生まれた…ということを、先日、作者である鴨沢さんのエッセイを読んで知りました。
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…というような、埒もないことを、1枚の封筒からボンヤリ空想してみました。
もちろん、上に記したことは全て梅雨空の下で発酵した空想です。
足穂氏、鴨沢氏、そして見も知らぬ魚田氏に陳謝と感謝をいたします。
もちろん、上に記したことは全て梅雨空の下で発酵した空想です。
足穂氏、鴨沢氏、そして見も知らぬ魚田氏に陳謝と感謝をいたします。
(この項つづく。次回も空想のつづき)
コメント
_ S.U ― 2015年07月03日 19時51分19秒
_ 玉青 ― 2015年07月04日 15時56分17秒
いやあ、人間の学習能力は素晴らしいですね。そろそろ何か新機軸を出さないと。
進化する騙しのテクニック―なんだか振り込め詐欺みたいですが。(^J^)
しばし山籠もりでもしてみますか。
ときに「ございます」の一人語りの世界。
私はすぐに乱歩の「人間椅子」とか、夢野久作の「押絵の奇蹟」とか、そういう猟奇的世界に連想が働くんですが、でも正統派文芸の世界でも、いろいろ類例はありそうですね。谷崎も大いに脈ありですが、さらに鏡花あたりにも先例はないでしょうかね。いずれにしても一人称独白体の盛行は、同時代の海外文学の影響によるものという気がします。
進化する騙しのテクニック―なんだか振り込め詐欺みたいですが。(^J^)
しばし山籠もりでもしてみますか。
ときに「ございます」の一人語りの世界。
私はすぐに乱歩の「人間椅子」とか、夢野久作の「押絵の奇蹟」とか、そういう猟奇的世界に連想が働くんですが、でも正統派文芸の世界でも、いろいろ類例はありそうですね。谷崎も大いに脈ありですが、さらに鏡花あたりにも先例はないでしょうかね。いずれにしても一人称独白体の盛行は、同時代の海外文学の影響によるものという気がします。
_ S.U ― 2015年07月04日 21時29分13秒
騙されかけたせいでコメントが漏れていましたが、この封筒の書体はすばらしいです。カリグラフィというべきだと思いますが、ぜひ、魚田氏にこの字で「星店」の例のポスターの文字を書いてほしいですね。 "Egyptian Star Pickers" などと入れてもらうのはどうでしょうか。
足穂が影響を受けた作家を探るというのは、多少、文学プロパーの課題になって、私の不得手とするところですが、足穂自身が谷崎の文体研究について言及しているので、この佐藤春夫門下の兄弟子から文体を学んだことは間違いないでしょう。「或る倶楽部の話」のような谷崎の文体のエピゴーネンというかパロディとしか見られない作品もあります。
足穂がポジティブに評価している作家は少ないですね。若いときも年取ってからもそのようです。特に若いときは、関学出身の衣巻、石野、猪原、唯一彼が先生と呼ぶ師匠の佐藤春夫を別にすると、強いて挙げて、谷崎と朔太郎、芥川龍之介、それに牧野信一くらいでしょうか。我々はこれに野尻抱影を加えるべきでしょう。江戸川乱歩と室生犀星は足穂を評価して支援してくれてお世話になったようですが、足穂が彼らの文学を評価していたかはわかりません。小説家としてのデビュー時期はそんなに変わらないようです。日本の因襲臭さがあるような作品は、さほど高い評価はしないのではないかと思います。
足穂は、文学的・哲学的に大成した時期(昭和10年代)が、生活的、社会的には絶不調の時代だったので、文壇からの直接的影響はやはり小さかろうと思います。
足穂が影響を受けた作家を探るというのは、多少、文学プロパーの課題になって、私の不得手とするところですが、足穂自身が谷崎の文体研究について言及しているので、この佐藤春夫門下の兄弟子から文体を学んだことは間違いないでしょう。「或る倶楽部の話」のような谷崎の文体のエピゴーネンというかパロディとしか見られない作品もあります。
足穂がポジティブに評価している作家は少ないですね。若いときも年取ってからもそのようです。特に若いときは、関学出身の衣巻、石野、猪原、唯一彼が先生と呼ぶ師匠の佐藤春夫を別にすると、強いて挙げて、谷崎と朔太郎、芥川龍之介、それに牧野信一くらいでしょうか。我々はこれに野尻抱影を加えるべきでしょう。江戸川乱歩と室生犀星は足穂を評価して支援してくれてお世話になったようですが、足穂が彼らの文学を評価していたかはわかりません。小説家としてのデビュー時期はそんなに変わらないようです。日本の因襲臭さがあるような作品は、さほど高い評価はしないのではないかと思います。
足穂は、文学的・哲学的に大成した時期(昭和10年代)が、生活的、社会的には絶不調の時代だったので、文壇からの直接的影響はやはり小さかろうと思います。
_ 玉青 ― 2015年07月05日 20時19分46秒
文学史の話題は私もあれですが、足穂からすると谷崎は少なくとも「学ぶに足る男」と見られていたわけですね。さすがは大谷崎。まあ、谷崎も明治から昭和にかけて、境遇や作風の変遷著しい人でしたが、仮に大正期の作風を基準にすると、「細雪」時代よりも両者はずっと近しいものがあるような気がします。(谷崎の「ハッサン・カンの妖術」なんかは、まさにシクハード氏そこのけで、足穂的ケレンに満ちている気がします。)
_ S.U ― 2015年07月06日 21時52分07秒
「ハッサン・カン」は谷崎氏でしたね。だいぶ前に読んだことがあるような気がしますが、何かわかりにくかったです。
足穂はこれという文学的修養をへることなくして華やかなる文壇にデビューを果たましたし、その小説の如きもので取り扱う内容も特異でございましたので、これという師から文学を学ぶこともなくただただ自身の持ち味を発揮してまいったのでございますが、殊に文体につきましてはまったく修養無しというわけにもまいりませず、当時今をときめく西洋語の翻訳文体、彼がいみじくも幼少の砌より親しみましたる謡曲などの古典詩歌、そのほか仏教文書から科学技術の専門書にいたるまで様々の様式を学び取り入れましたるところが、ただ一つこの範囲では習得が難しかろうと考えられるかの源氏物語を現代語に訳したらさぞやと思われるような、いと流麗たる口語文につきましては大谷崎に学ぶよりほかはなかったのではあるまいかと、もはや百年近い年月を経たるのちに私はそのように愚考いたす次第でございます。
足穂はこれという文学的修養をへることなくして華やかなる文壇にデビューを果たましたし、その小説の如きもので取り扱う内容も特異でございましたので、これという師から文学を学ぶこともなくただただ自身の持ち味を発揮してまいったのでございますが、殊に文体につきましてはまったく修養無しというわけにもまいりませず、当時今をときめく西洋語の翻訳文体、彼がいみじくも幼少の砌より親しみましたる謡曲などの古典詩歌、そのほか仏教文書から科学技術の専門書にいたるまで様々の様式を学び取り入れましたるところが、ただ一つこの範囲では習得が難しかろうと考えられるかの源氏物語を現代語に訳したらさぞやと思われるような、いと流麗たる口語文につきましては大谷崎に学ぶよりほかはなかったのではあるまいかと、もはや百年近い年月を経たるのちに私はそのように愚考いたす次第でございます。
_ 玉青 ― 2015年07月06日 23時34分28秒
あれ、そういえばハッサン・カンその人は『星を造る人』にもチラッと出てきますね。
ストーリーの後半、「―「星造りの花火」は尋常の煙火術とはみとめがたい不可思議な技術であって…」で始まる段落のうしろの方に、「ハッサン・カンが得意とする「須弥山めぐり」の幻術のことや」云々とあります。
谷崎の本家ハッサン・カンが発表されたのが大正6年、芥川がそれを換骨して自作『魔術』にハッサン・カンを登場させたのが大正8年、さらに大正11年に足穂の『星を造る人』ですから、思えば妖術界における谷崎の影響力は実に大なるものがありますね。
その文体とともに、奇想の骨法についても、足穂は予想以上に谷崎の影響を受けたやもしれず、この辺は一層の考究を要するやうに思ひます。
ストーリーの後半、「―「星造りの花火」は尋常の煙火術とはみとめがたい不可思議な技術であって…」で始まる段落のうしろの方に、「ハッサン・カンが得意とする「須弥山めぐり」の幻術のことや」云々とあります。
谷崎の本家ハッサン・カンが発表されたのが大正6年、芥川がそれを換骨して自作『魔術』にハッサン・カンを登場させたのが大正8年、さらに大正11年に足穂の『星を造る人』ですから、思えば妖術界における谷崎の影響力は実に大なるものがありますね。
その文体とともに、奇想の骨法についても、足穂は予想以上に谷崎の影響を受けたやもしれず、この辺は一層の考究を要するやうに思ひます。
_ S.U ― 2015年07月07日 07時51分46秒
足穂を「文壇」系列・系譜的に研究することはヤボかもしれないですが、ものごとの相対化ということは重要なので、一度は試してみる価値があるでしょうね。まず、耽美派、モダン都市文学という系譜、それに空想、怪奇小説の系譜が考えられますが、それに加えて、私は、無頼派の筋も推したいと思います。「無頼派」を調べると坂口安吾、太宰治に始まるそうですが、足穂を先駆者とみることを提案したいと思います。空想世界、話言葉の活用、自堕落、歴史の見方、辛口評論など共通点が多いです。
_ 玉青 ― 2015年07月07日 22時22分50秒
足穂は言葉の全き意味で「無頼派」かもしれませんね。
集団から孤立することは、人間にとって怖いことだと思うのですが、あそこまで文壇から超然とできたのは、やはり並々ならぬことと思います。
集団から孤立することは、人間にとって怖いことだと思うのですが、あそこまで文壇から超然とできたのは、やはり並々ならぬことと思います。
_ S.U ― 2015年07月08日 07時05分35秒
>言葉の全き意味で「無頼派」
確かに、足穂のようなのが「無頼派」であるべきですね。
仮に、「無頼派」が勢力を伸張して一派閥となり、一朝事あらば一致結束してものごとに当たるようになったら、「無頼派」という名称自体が自己矛盾となるのではありますまいか。
確かに、足穂のようなのが「無頼派」であるべきですね。
仮に、「無頼派」が勢力を伸張して一派閥となり、一朝事あらば一致結束してものごとに当たるようになったら、「無頼派」という名称自体が自己矛盾となるのではありますまいか。
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なお、この丁寧な言葉を立て板に水を流すが如く語る店員・魚田氏は、谷崎潤一郎の文体を読んで影響を受けているのではないかと思います。足穂が谷崎と接した年代と「星を売る店」の改版の過程の比較ができていないので、どのあたりの作品かはわかりません。(これは「意趣返し」ではなく、ほんとうにそうではないかと思っています)