「星を売る店」のドアを開ける(13)…物語は終わり、そして始まる ― 2015年07月06日 23時26分25秒
「―それはそうといたしまして、あちらではあまりに星を採りすぎたために、天が淋しくなって、もう今日では遠方に残っている星だけがチラホラと光っているにすぎないと申します」
神秘の地・エチオピアでも星は払底気味だ…そう店員がまくし立てたところで、「私」はその話を遮ります。
「なるほど!―でも、候補地はぞくぞくと見つかっているのでしょう」
「候補地ですって?」
「そう、アンデス山、パミール台地、崑崙山(こんろんさん)、富士山というぐあいにね」
と私は云った。
「候補地ですって?」
「そう、アンデス山、パミール台地、崑崙山(こんろんさん)、富士山というぐあいにね」
と私は云った。
ここで「星を売る店」は突然終わっています。
これは読者をかなり当惑させるラストです。結局のところ「私」―あるいは作者・足穂―は、何が言いたかったのでしょう?
これは読者をかなり当惑させるラストです。結局のところ「私」―あるいは作者・足穂―は、何が言いたかったのでしょう?
★
もちろん正しい答は分かりません。
でも改めて眺めると、この地名の並びは、アフリカのエチオピア高原から始まって、南米アンデス、そしてインドから中国へと連なるパミール高原や崑崙山脈を経て、さらに日本の富士山へと、物理的・心理的距離を徐々に縮めているようにも感じられます。
でも改めて眺めると、この地名の並びは、アフリカのエチオピア高原から始まって、南米アンデス、そしてインドから中国へと連なるパミール高原や崑崙山脈を経て、さらに日本の富士山へと、物理的・心理的距離を徐々に縮めているようにも感じられます。
となると、実は「私」はこのあとに、「―そしてこの神戸の山からもね」という一句を続けたかったのではないでしょうか?
実際、足穂の前作『星を造る人』では、スターメーカーこと魔術師シクハード氏が、神戸・諏訪山から星の花火を打ち上げ、青、白、赤、藍、乳白、おぼろ銀、海緑、薔薇紅、オレンジに輝く星の群れが神戸上空を乱舞し、人々の心を奪い去りました。
シクハード氏による星製造の要は、「或る特殊な技術を用いて抽出されたファンタシューム」なる物質だといいます。足穂が両作品を通じて星に仮託したのは、結局「幻想とファンタジー」そのものなのでしょう。
それは遠い異郷に満ちているばかりでなく、この日本にも、そして我々が住んでいるこの町にだって、その術さえ心得ていれば、いつでも溢れ出てくることを、足穂は伝えたかったのではないでしょうか。この解釈は、あるいは理に勝ち過ぎているかもしれませんが、でもそう考えると、多少腑に落ちる気がします。
★
こうして、饒舌な店員のお株を奪った「私」は、再び神戸の山腹から、菫色のバウを結んで、ファンタジーを振り撒きながら今日も下りてくる…というエンドレスな構造を作品に読み取るのも、また一興ではありますまいか。
みなさんは、このラストをどう解釈されますか?
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