色絵誕生(1)…カテゴリー縦覧「印刷技術」編2015年07月26日 19時36分17秒

暑いですね。
昨日は暑さの中、頑張ってエアコンを入れずに記事を書いたので、頭のネジが緩んで、ちょっと論理が飛びました。今日はエアコンを入れたので、少しはましです。

ところで、昨日の高山植物のトランプの記事で、
「印刷はオフセットの網版ではなく、まだクロモリトグラフなので、おそらく1920年代か30年代の品で、遅くとも50年代を下ることはないでしょう。」
と書きました。

その予想がうまく当たって、いささかお得意になったものの(ネジが緩んでいる証拠です)、でも冷静に考えると、印刷技術のことなんて、ろくすっぽ知りもしないのに、ああいう風に偉そうに書くものではありません。

そもそも網版といい、オフセットといい、その正体は何なのか? それらは本当にクロモリトグラフと対立する概念なのか? …といって、これは私ばかりでなく、大方の人にとって、印刷というのは全く謎の世界ではないでしょうか。

挿絵の巧拙は理系古書の魅力を大きく左右する要素なので、この機会に印刷技法の話題を少し取り上げます。

   ★

具体例に即して考えてみます。

ドイツに1912年に創刊した「インゼル文庫」というのがあります(当初はライプツィヒ、現在はベルリンで刊行)。美しい挿絵を添えて、歴史、文学、美術など様々なテーマをコンパクトにまとめたラインナップで、歴史の荒波をかいくぐり、今や1400タイトルを超える一大叢書となっている由。その印刷の美しさや、統一感のあるブックデザインは、まるで小さな宝石箱のようです。


インゼル文庫には、鉱物やキノコ、昆虫や鳥など博物系のタイトルも含まれており、ここ数年来、日本でも大いに人気を博しているので、ご存知の方も多いでしょう。


この100年間、インゼル文庫は絶えず新しい本を生み出し、そして生み出された本たちは絶えず版を重ねてきたので、まさに「印刷技術の実験場」の観があります。実際、どんな印刷技法がそこで用いられてきたのかを見てみます。

  ★


まずは第213巻の『蝶の本 Das kleine Schmetterlingsbuch』より。


蝶の翅の部分拡大(以下拡大図は1000dpiのスキャン画像)。

インゼル文庫の難点は、出版年の特定が難しいところですが(本自体には表示がありません)、これは間違いなく初期の逸品。その印刷・製版は極美といって良く、いったいこれがどんな職人技で作られたのか、驚くほかありません。拡大しても全く網点が見えません。クロモリトグラフの頂点と言ってもよい作品です。


次に第54巻『宝石の本 Das kleine Buch der Edelsteine』の図を見てみます。
巻数からいえば、これは上の『蝶の本』より古いはずですが、見返しに、元の持ち主によるとみられる「1955」というペン書きがあるので、これは戦後に重版されたもののようです。文字も亀甲文字ではなく、全てローマン体に改まっているので、全体に新たに版を起したのでしょう。


水晶の一部を拡大。
何となく全体に絵がボンヤリしているのは、元の挿絵画家の筆致もあるでしょうが、印刷技法による部分も大きいと思います。図をよく見ると、地色には網目がなく、そこに明暗を示す黒刷りのドットが重ね刷りされています。ここには2種類の製版技法が混在していることが分かります。


こちらは第100巻『小鳥と巣の本 Das kleine Buch der Vogel und Nester


これはこれで、また別の製版技法によっています。色刷りの部分も含めて、全体がドットによって表現されています。ただ、それが後のカラーグラビアのように、赤青黄のドットによる加法混色になっているわけではなくて、おそらくは、クロモから発展し、今は失われた過去の技術に属するものと思いますが、正確にはどういう技法に分類されるかは不明。


第503巻の『キノコの本 Das kleine Pilzbuch』より。


ここに来て、再び画像が締まってシャープな印象になっています。蝶の本に準ずる美しい印刷ですが、そこで用いられている技法は、蝶の本とはまったく異なります。
拡大すると細かい円環状の模様が画面を埋め尽くしており、ここに来て新式の、現代のオフセット印刷と同一の写真製版技法が導入されたことが分かります。

   ★

インゼル文庫という小さな世界に限っても斯くの如し。

写真製版とカラー印刷に関する技術は、19世紀後半から20世紀にかけて、あたかも「進化の爆発現象」のように、多様な技法や機械が生まれ、試みられ、消滅していきました。今も生き残っているのは、それらの内のごく一部でしょう。
その全貌は複雑怪奇というほかありませんが、ここで少し話を整理しておきます。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2015年07月27日 08時29分34秒

天文古玩さんに少し影響されて、私も少しは印刷について勉強しようと、少し前に「印刷博物館」に行ってきました。東京の江戸川橋と飯田橋の間にある凸版印刷(株)にあります。(実は、フェルメールの「天文学者」を見に行った日のついででした。)

 特別展はバチカン図書館の古い書物で、これは活版印刷初期のもので図版といえば銅版印刷の時代でしたが、常設展のほうではポスターなど絵を刷った物がいろいろありました。ところが活版や浮世絵はよいとして、網版やグラビアについてはやはり良く理解できませんでした。オフセットは今日の技術ですので、それなりの説明はされていたと思いますが。ということで、やはり消化不良で、帰ってきました。でも、東西の古い書物が見られて満足しました。

今、印刷博物館のwebページを見ますと、出版物の「特集コラム」のバックナンバーに、いろいろと記事が出ているのを見つけました。また読んでみようと思います。
http://www.printing-museum.org/communication/column/vol1_10.html

 それから、今朝の私信のほう、ありがとうございます。涼を呼ぶお話が進んでいるようでうれしいです。また、別途ご返事をさせていただきます。

_ 玉青 ― 2015年07月28日 19時55分15秒

これはありがとうございます。私もさっそく読んでみることにします。
それにしても印刷術って本当に文化史における黒子というか、毎日本を読む平均的読書人にとっても、まったく未知の世界ですね。天然自然の現象ではなく、一から十まで人間が工夫したものなのに、一般の目から遠いという…何だか不思議な気がします。

_ S.U ― 2015年07月29日 07時19分07秒

いやぁ、私から見ますと、玉青さんは、印刷物のツウ、あるいは鑑定人のように見えますよ。

 さて、それでも、今から30年ほど前くらいまでは、一般の人が会社や学校の機関誌や趣味の同人誌を町の印刷屋さんに持ち込んで、そこで、活字や網掛けの打ち合わせをすることもあったのではないかと思います。当時の自分に経験があるわけではないので詳しいことはわかりませんが、その頃までは一般人にもそれなりに詳しい人はいたのではないかと想像します。
 現在でも、町の印刷屋さんにチラシやパンフレットの原稿を依頼することはありますが、PDFファイルを作って印刷すれば、レーザープリンタでも、印刷工場のオフセット機でも、同じように問題なくきれいに仕上がるので、途中の知識はいらなくなりました。技術が進歩するとそれは人々から遠ざかっていくという、これは先端技術はみなそうですが、恐ろしいジレンマであると思います。

_ 玉青 ― 2015年07月29日 19時35分11秒

>ツウ

まったく大した通です。別名を半可通という…;

>恐ろしいジレンマ

本当ですね。
少し話を広げると、今や多くの人が、目の前の機械の修理ができませんし、それどころか家を建てることも、布を織ることも、食料を自力で得ることもできません。そして子供を育てることもだいぶ怪しくなってきました。これを進化と呼ぶのであれば、完全に進化の隘路に入った観がありますが、いったん方向づけられたものは今さら変えようがなく、人類は行くところまで行くのでしょう。(ちょっと広げすぎました)

_ S.U ― 2015年07月29日 21時33分24秒

>完全に進化の隘路
 昔は、素人でも、機械を開けて、油をさすか、できればハンダ付けもしてみる、それができないなら、せめて叩いてみる(笑)、とかいろいろやりましたが、今日では開けてみても基盤に載ったマイクロプロセッサですから、どうしようもありません。特に昨今は、生活インフラにコンピューター制御が細かく入り込んできているので、これにのべつ命を預けているわけで、考えてみると本当に恐ろしいことです。

 せめて、日本では、これらの都市・生活インフラ設備の建設と保守の技術を持った若い人たちが、良い待遇で生活の心配なく、継続してその技術の信頼性を伸ばせるような社会にしてほしいと思います。
 これぞまさに国民の生活と生命がかかった安全保障の整備のはずで、座って発注書の伝票を切っておれば生活の安全が保たれると思っていたら大間違いです。ましてや、集団自衛権などと外国といっしょに武器を振り回せば安全が守られるなどという脳天気な話どころではありません。(こちらも、この際、そうとう話を広げてやりました)

_ 玉青 ― 2015年07月30日 20時50分38秒

おお、だいぶ広がりましたねえ。
人間(じんかん)のことを縦横に語り、気宇壮大なり。

ときに、最初はえーと… あ、印刷屋さんの話題でしたね。(笑)

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