色絵誕生(4)…カテゴリー縦覧「印刷技術」編2015年07月30日 20時41分17秒

(今日も字ばかりです。)

石版術が19世紀の始まりと共に誕生したことを先に書きました。
では終焉はいつか? 石版はいつまで使われたのか?

前述のとおり、今回の記事を書くにあたって、昭和30年代後半(=1960年代前半)に出た『印刷製版技術講座』(全4巻、共立出版)という本を紐解いているんですが、その第4巻に、次のようなデータが載っています(p.18)。

 日本全国刷業態調査によると目下36,000台の印刷機械のうち、平版に属するものは6,623台でそのうちの940台(約14.2%)が石版手引印刷機械で、動力による石版機械は904台(13.6%)であるそうである。全体的に見ると石版の手刷を見逃すことができない状態にある。

うーむ、私がハイハイをしていた頃は、石版が、しかも手刷りの機械が現役だったとは…。石版にノスタルジーを感じるのは、そんなところにも原因があるんでしょうかね。
はっきりした終焉の線引きはできませんが、石版が予想以上に長く使われたことは確かなようです。

   ★

対する金属平版の歴史はどうか?
こちらもその歴史はなかなか長くて、19世紀後半には既に実用化されていました。

 亜鉛のような金属板を刷版に使えば、輪転機に掛けることが可能となり印刷速度が上昇するので、次第に金属平版に転向する傾きを生じ、1886年には英国エディンバラのラッジマン=ジョンストン(Ruddiman Johston)が亜鉛平版輪転機を試作した〔…〕

 また石版印刷は明治7~8年(1874~75)ごろからわが国で実用化され、明治23年(1890)にはドイツ留学から帰朝した多湖実敏によって亜鉛平版の製版印刷法が紹介された。その後明治32年(1899)京都の紙巻煙草製造村井兄弟商会の経営者村井吉兵衛が、アメリカ視察旅行の結果、アルミ平版輪転機1台を購入し、京都二条に新築の村井兄弟商会専属中西虎之助の工場に据付けた。これがわが国において金属平版の工業化される糸口になった。 (上掲書第1巻、p.39)

日本への金属平版導入の入口がタバコ製造業だったのは、商品ステッカーなど、とにかく大量に刷る必要のあるものは、金属版に限ったからです。逆にいうと、現在「クロモ=多色石版」として流通している商品パッケージや、おまけカードなど、エフェメラルな紙モノの内には、実際には金属平版によって刷られたものが混じっていると予想します。

   ★

上の引用文に登場する中西虎之助(1866-1940)という人は、至極進取の気性に富んだ人で、金属平版の導入に続けて、間をおかずに最新のオフセット印刷(こちらはアメリカのリューベルという人が、1904年に発明しました)の導入も図っています。

 わが国で早くからオフセット印刷に注目していた中西虎之助は、市田幸四郎の参加を得て、大正3年(1914)3月東京神田鎌倉河岸にオフセット印刷合名会社を創立、同年(1914)7月米国ハアリス社製四六半裁版自動オフセット印刷機1台を据付け、日本最初のオフセット印刷を開始した。 (上掲書第1巻、p.50)

オフセット印刷は、同時期に誕生した、写真術を応用した3色分解による多色印刷法(プロセス平版)とペアで普及し、それと一体不可分の存在でした。

私がオフセット印刷を悪しざまに言いがちなのは、この3色分解法に良くない印象を持っているからですが、後で述べるように、3色分解法自体は石版でも試みられていたので、この辺は慎重な物言いが必要です。

   ★

以上のように、技術の進化としては、確かに「石版→金属平版→オフセット」という流れになるのですが、実際には三者併存の期間が長いので、「石版刷りがオフセットの印刷物より常に古いとは限らない」のもまた事実です。この辺が、印刷物の時代判別の難しさです。

(この項つづく)